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おはよう、あいしてる



知っていた、彼が私をただの友人としてしか見ていないことを。知っていた、己の恋人に対する彼の深い愛情を。知っていた、この気持ちを吐露すれば必ず別れがくることを。すべて理解していたのだ。長年連れ添ってきたからこそ私を女として見れないことも。知っていたからこそ、一度だけでもいいから女として見て欲しくて、あんなことを言ってしまったのだ。もし時間を遡ることができる禁術でもあれば迷わず使ってあの時の自分を殴ってでも止めたいと、今になって苦しいほど思う。

しかし現実は思うように甘くはない。何も映したくないと瞑った瞼の裏に彼の表情が浮かび上がってきてしまう。驚きに目を丸くし、それから「ごめん」と気まずそうに目線を逸らした彼。今まで交わっていたそれはあの瞬間を以て未来永劫交わらないものになってしまった。なんてことをしてしまったんだ私は。あまりにも幸せそうに破顔するものだから、つい私は喉の苦しさを吐き出すがために言ってしまったのだ。もし、あんなことをしなければ今でも仲の良い友人として、彼の目線を浴びることができたのに。

そう感じる反面、これで良かったのかもしれないと思う気持ちもあった。彼の愛が恋人にしか向けられていないことに、打ちひしがれる必要はもうないのだから。静まり返った夜更けに独りで声を抑えて吐くように泣くことも、もうしなくて済む。むしろ劣情を抱いたまま友人していたあの頃が一番辛かったじゃない。これですっぱり彼と縁を切れて新しい人生を進める。泣きじゃくる稚児をあやす母のように諭してみても心臓を縛る鋭い鎖は消えてはくれなかった。

押し込めても湧き上がる数々の思い出から逃げたくて更に目をぎゅっと瞑る。下唇の痛みが麻痺してどれくらいだろう。目の奥の痛みに耐えることに疲れを感じ始めた私は、己が気付かぬうちに闇の中に深く沈んでいくのであった。そしてさながら長年の職人の手によって研ぎ澄まされた鋭利な刃物の煌々たる光が顔を照らし、事切れていた私の意識を底から引っ張り上げる。


「ん」


起き上がる私の上半身から薄い掛布団が滑るようにずれ落ちる。外気に晒されたことで布団の中に保っていた温かな熱は霧が晴れるように少しづつ冷めていく。丸窓から射し込む憎いほど澄み渡った陽光を疎みながらも起床する時間を大幅に過ぎていたので渋々起き上がる。けれどそこで身体が冷水を被ったように硬直した。四方を取り囲む新調された調度品。白魚が如き純白に咲き乱れる月下香が美しい漆黒の屏風。そして今しがたくるまっていた手触りの良い上質な布団。

間違いない、この部屋は私の部屋ではない。見慣れない数々の調度品を見渡して瞬時に警戒を抱き、己の懐に隠していたクナイを構える。頭の頂点から足の爪先まで、身体を巡る神経をこれでもかと働かせて注意力を注いだ。かっ、と目の奥が熱くなる。万華鏡でなくとも写輪眼は開眼させている。並程度の敵ならまず対処出来るだろう。朝から殺気により静まり返った空間にどこぞの鳥が羽ばたく音が混ざってきた。

すると、ぎしっ、襖の向こうにあると思われる廊下の軋む音が、部屋に向けていた己の視線を拐っていく。飛び退いて襖から距離を取った。ぎしっ、ぎしっ、襖の向こうの人物が私の起床に気づいていないのか、やけに悠々とした足取りだった。そしてついに襖に影が差す。太陽の光で黒く浮かび上がった輪郭は男性だと確信づけるには十分なほど大きい。影はこちらに向き直り腕がある位置が襖に手を掛ける。私の警戒心は先程とは比べ物にならないほど最頂点に達した。

血で血を洗う苛烈な戦場を駆け抜いた私を意図も容易く誘拐した相手は間違いなく忍だ。油断は塵ほどもできない。固唾を押し込めると喉が鳴る。そして襖がすっと音を立てて横に引かれた。


「目覚めはどうだ」


「ま、マダラ様」


どんな敵かと構えていれば、現れたのは私が尊敬してやまない頭領のマダラ様だった。見慣れた黒い着物に身を包み、従容自若と佇んでいる。白光が彼の輪郭を照らして白粉を振ったように細やかに輝いている。肩透かしを食らったのは否めないが、見知った顔に安堵して肩の力が抜けていく。力んでいる眼球もふっと楽になる。何か急いでいるわけでも何か重要なことを話すわけでもなさそうだ。しかし目の前に居るのは紛うことなき頭領のマダラ様。そして反応を見るに私を連れてきたのはマダラ様だろう。困惑を隠せないまま口を開いた。


「何故私がこのような場所に。いえ、まずここはどこですか?」


「俺の屋敷だ」


「やし、え?」


「正確には俺とお前の、だが」


寝起きかつ現状に困惑している脳に矢継ぎ早と情報を叩き込まないでほしいと、らしくもなく切望した。だがそんな切望よりも今マダラ様はとんでもないことを口にしなかっただろうか。


「今よりここがお前の住む家であり、俺が帰る家でもある。そしてお前には忍を引退してもらう」


「ちょっ、待ってください! 何故いきなりそんなことを」


「何故? 逆に問うが、俺の妻が戦場に出る必要がどこにある」


「妻って」


私は間違いなく独身だし、縁談なんて持ち込まれたこともない。マダラ様が直々に縁談を申し込んだのなら私の耳に入らないはずがないし、何よりもまず帰宅した昨日両親が伝えたに決まっている。というかマダラ様とこうやってふたりっきりで顔を合わせて話したことも指折り数える程度。妻問ひされたこともないのに、目の前の彼は何を言っているのだろうか。一族のしきたりを忘れたとでも言うのか。いやこの際それは後にしよう。とにかくこの場所から一刻も早く逃げないと。いつもは凜然と構える佇まいに敬念を抱くが、今では一周まわって不気味とさえ感じてしまう。己の発言の齟齬に微塵も自覚していない様子は、私では対応しきれない。一歩間違えて機嫌を損ねるのも躊躇われる。千手扉間のような瞬身の術は使えなくとも数歩先に飛ぶことくらいはできる。印を構えるべく手を上げた。


「なっ」


上げようと腕に力を入れたが腕は上がらない。縫い付けられたように身体の横に引っ付いて指一本微動だにしないのだ。心臓を貫かんとするおどろおどろしいチャクラにはっと我に返る。私を捉える彼の双眼が紅く変貌しているのだ。血に濡れた紅に浮かぶのは三つ巴の写輪眼。私は気付かぬ間に幻術にかけられたようだ。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのこと、睨むどころか這い上がってくる錯覚まで起こしそうだ。

押し込められた瓶の中で轟々と荒れる波さながらに静かに荒ぶる彼は私を見据えたまま一歩、また一歩と間にある距離を詰めてくる。じりじり近付くたび脈が激しく波打つ。産まれて初めてマダラ様を身体の芯から怖いと感じた。互いの息の温かさが伝わるほど距離を詰められて私はいよいよ思考を手放す断崖に立たされた。岩のように強張る私の頬に手が添えられる。ひんやりと冷えた、硬く大きな手のひら。眦から伝い落ちる雫を親指の腹が拭う。もう片方の手は腰に回され為す術もなく密着させられた。

擦れる布の音。重なる体温。とくん、とくん、と心臓の律動がいやに明瞭に伝わってきた。もし腰に回された腕が昨日の彼のだったら私は頬を朱に染め、心臓を高鳴らせていたのだろうけど、眼前に居るのは恋慕を抱いていないマダラ様だ。見知らぬ男に身体をまさぐられる感触は怖気しか立たない。吐き気すら催しそうだ。土の色に等しいだろう私の顔は更に熱を失う。


「ようやくお前を手に入れたぞ」


青褪める私を見下ろして彼は口角を吊り上げる。それはもう心底嬉しそうな笑みだ。色めき立つほど整った精悍な顔立ちも、両目の赤い瞳と雰囲気のせいですっかり畏怖すべき魔王そのものと化している。頭領が喜ぶことは私も嬉しいと昨日までの私だったら胸張って言えるけども、今日からは心の底から見たくない表情になった。笑う門には福来たると言うが、彼が笑えば私が泣く。瞬きをしばらくしていなければ潤むのは当然のこと。ぴりっと痛みを感じて目を瞬かせれば、目頭に溜まった涙が少しだけ垂れた。


「昨日ようやくあの男と縁を切ったと知った時、ほんとうはすぐにでも妻問ひするつもりだったのだが、寝たと聞いて連れて来た」


彼が言う「あの男」の像が瞬く間に思い浮かぶ。別の人かと逡巡したが昨日会った男性は彼しか居ない。長年恋慕を抱き、昨夜私を振った彼。しかし何故そんなことをマダラ様が知っているのか皆目検討もつかない。尾行の気配もなかったしマダラ様と会ったこともない。


「知った経緯など知らずともいい。金輪際あの男と邂逅することもないのだからな」


口角を吊り上げたまま彼は私の後ろ髪を軽く払う。ふわりと宙に舞って項にかかる。傀儡使いでも居るのかと思うほど速く己の髪に手を遣る。指で梳かすと唇から「か、かみ、髪が」蚊の鳴くような小さく震えた声が零れた。髪が切られている。腰まで伸ばした長い髪。彼が髪の長い女性が好きだと知ってからずっと伸ばし続けた大切な髪が、惨たらしくも肩より上に切り揃えられていた。短くなった髪をマダラ様は自身の手に乗せて目を細めた。


「やはりあの男はお前の魅力を引き出すには到底及ばない砂利だな。こちらの方が良く似合っている」


だが伸ばしたいのならば止めはせん、髪飾りをやる楽しみも増えるしな。と大切なものを愛でるように慈しみ、そこに口付けを落とす。心臓が握り潰された感覚に卒倒しそうだった。この男はさっきから一体何を言っているんだ。彼から漏れ出す陽光に当てられすぎて思考がどこか覚束無い。ふわふわとまるで夢見心地の気分だ。泣きすぎたせいもあって次はこめかみが痛み始めた。鈍痛は太鼓を叩くように緩急つけて襲ってくる。理解不能な現実に酔ってきた、どこかひとりになれる場所でゆっくり寝たい。それともこれは頭痛に魘されて見ている悪夢なのか?

そうであってほしい。そうであってほしいけどこの冷たさをはっきりと感じるし、私を見下ろす彼の情欲に濡れた熱は夢にしてはあまりにも鮮明すぎる。泣き腫らした次の日こんな目に遭うなんて最低最悪な現実だ。髪に触れていた手はするする顎へと移動していき軽く持ち上げられる。髪が眦を滑って少しこそばゆい。目を眇める私を未だ彼は赤眼で見下ろしたままだ。


「これからは未来永劫一緒だ。愛している」


囁いた彼の声はいやに頭に響いてきて思わず立ち眩みしそうになった。