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あの日も雨だった



この時期の雨は嫌いだ。夏の雨と違ってちっとも暖かくないし、独特の匂いもしない。身体の熱を奪っていくだけの冷たい雨。濡れるのも嫌だし見るのも嫌だ。だからなるだけ雨の日は歩みを休めてどこぞの宿で一泊するのを鉄則としている。


「山道に入った私を殴りたいほんと」


しとどに水分を孕んだ服を絞りながら強い舌打ちを零す。見上げた頬を葉の間から滴り落ちた雫が叩き付ける。眦に落ちたことで目を眇めれば、もうひとつ落ちてきた。最悪だ。鼻の奥を突き刺す寒さに身を震わせながらも暖を取るべく肩を抱く。一刻前は嘘のような快晴だった。だが山道をしばらく歩くうちに暗礁が乗り上げる。雨降るかなと訝しんだ結果、予想通り今じゃ滝にでも打たれているような大雨に見舞われることになった。灰被った空は分厚い雲で太陽を隠したため視界が非常に悪い。おかげで数歩先の木の幹さえ見えない始末。悪天候の中での散策は危険としか言えない。止むまで待つしかない。


「こうなることならお婆さんの言うこと聞くべきだった」


鬱憤に満ちた肺を空にするように深い溜息を吐く。山道に入る麓で話しかけた気さくで優しいお婆さん。曰く「この時期の天気は左右されやすい」とのことで、話す時の表情と言ったら玄人のそれと一緒だった。心優しきお婆さんは一泊していきなと誘ってくれたが、生憎と私は先を急ぐ身だったので二つ返事でこれを断ったのだ。忍でないにしろ見ず知らずの人の家に上がるのは、先約がある人でなくても誰でもそうする。その時はまだ曇りひとつない澄んだ青が無限に広がっていた。


「もういいや、ご飯食べよ」


懐から出したのは葉っぱに包まれた握り飯。麓で購入した物だ。お手製の兵糧丸はまだまだあるのだけど、連日連夜それのみは胃袋が更に萎んでしまうし、気力も湧かない。いい加減温かい飯が食べたいと思ったので数個買うことにしたのだが、やっぱり買って正解だった。胃に染み渡るご飯の甘さと温かさが、奪われた熱を取り戻していくようにも感じる。あ、これおかかだ。雨が降る音、雫を弾く葉の音、川の流れる音をご飯のお供にして買った握り飯を平らげる。


「ご馳走様でした!」


雨音に紛れて肌がぶつかる音が響く。さて、これからどうしようか。天気を伺うにこの雨はまだ続くだろう。この雨脚のまま。洞穴だったら焚き火でも起こして寝るところだが、今立っている場所は大木の陰。葉っぱの傘に辛うじて身体を入れているだけの気休めにもならない休憩所。外気に晒されているから当然地面は水分をたっぷり含んでぐしょぐしょに歪んでいるし、石を転がせば虫だって沸いてくる。

寝れもしなければ座ることもできないのだ。お婆さんの誘いが寒い胸に染みていくのを感じながらぼうっと空を仰いでいた時だった。じゃり、じゃり、雨音でも隠せない音が脳を刺す。それは明らかに人の足音で、そしてそれは私がもたれる大木の後ろで止まった。懐に手を忍ばせながら幹伝いに後ろへ進む。


「誰か居るの」


猛獣の咆哮さながらに吼える雨音に掻き消されぬよう腹に力を入れてみる。けれども返答は待てども待てども返ってこない。気の所為の文字が脳裏に浮上するが小枝が折られる音を聞いて違うと悟った。


「出てきなさい!」


投げたクナイが空気を裂いて大木の幹に突き刺さる。そして飛び退いた気配が地面に降り立つ音。やっぱり誰か居るみたいだ。もう一度クナイを構え直して威嚇する。色を失う視界で影は揺らめいた。輪郭がはっきりせずともそれは明らかに人の姿を模していて、ぼんやりとだが男性を彷彿とさせる背丈をしている。無闇矢鱈に突っ込むのは危険であるからして遠距離威嚇するしか手段はない。けれどもこんな中で体力はなるだけ使いたくないのも本音。

疲労しきった身体にこの雨は相当堪える。たとえ眼前の敵を追い払えても次来るかもしれない敵は相手できないかもしれない。どうするかと目標を捉えたまま逡巡していると、不意に影が動いた。それは歩くように悠揚と近付いてくる。そしてついに手を伸ばせば届く距離にまで詰められた。何層も重なった雲に一点の穴が穿たれ、一筋の陽光が射し込む。影の顔が照らし出された。


「久しぶりだな」


鈍器で後頭部を殴られたような眩暈を錯覚して一瞬足元が覚束なくなった。鼓膜を破り脳天を突き動かすほど焦がれた声。あの夜からずっと探していた姿が、今目の前に立っていた。夜露に濡れた鴉の羽色の黒い髪、黒曜石をはめ込んだ黒い双眸。前と違っていたのは肢体を包む服だった。荒い風にはためく黒い外套には朱色の雲が浮かんでいる。言葉を発せずに立ち竦んでいると、目の前の彼は冷笑をひとつ落とす。


「現状把握が遅いのは変わっていないようだ。そしてあの時言った無駄な事もな」


ぴくっと耳が反応する。彼はあの夜の会話を覚えている。それは忘れるべくもない、私が初めて胸を燃やすほど強い決意を抱いた日なのだから。そういえばあの日も今のような滝に打たれているような雨だった。うちはを尽く手にかけて里を抜けたと聞いた私は、イタチを探すため同様に里抜けした。国お抱えの忍ではないので抜け忍扱いにならずこうして自由に探し回ることができている。手前味噌だが個人で修行して正解だった。


「私は貴方を追って里を出た。一族殺しした真相を聞くためにね」


イタチはふっと笑みを零して肩を竦める。


「無駄な事を。言っただろう、己の力量を推し量るために殺したと」


「貴方がそんなことをするような人には見えない。何か理由があるはず」


「何を以てそう思う?」


細められた眼差しが鋭く光る。即座に言い返すことができなかった。彼はそんな人じゃない、そんな子供じみた理由で彼を一途に追い続けている。彼からすれば滑稽この上ないだろう。ぎゅっと胸の当たりを掴む。でも私には彼が力を求め人を簡単に殺めるようには見えないのだ。


「人を見かけで判断するのはナンセンスだ。外見などいくらでも取り繕える」


対話することに飽きたのか、私に痺れを切らしたのか彼は背中を見せた。外套が半円を描くようにふわりと舞う。


「お前程度で俺の後は追えん」


彼はこちらを肩越しで見ることもなく吐き捨てる。踏み出した彼を反射で呼び止めた。確かに私は見かけ騙しに騙される馬鹿かもしれない、イタチのことよく知らない部外者かもしれない。でも貴方の言う「取り繕い」にその理由は当てはまらないことくらいは私でも解る。貴方にとって私なんて取るに足らない雑魚かもしれないけれど、私にとって貴方は大切な人。いくら蔑まれたって拒まれたって地の果てまで追いかけると決めたんだよ。かつて貴方が私を掬い上げてくれたように、今度は私が掬い上げたい。この気持ちだけは何にも屈しない。


「絶対追いつく。そんで吐かせてみせる! 今はまだ弱くても、いつか絶対貴方を超える忍になるから!」


悠揚に構えて待つも良し、疎んじて尻尾を巻いてそそくさと隠れるも良し、けれど私は変わらない。なんのために里抜けしたと思っているの。貴方ひとりを追ってここまで来た奴が、途中で折れるわけないでしょ。弱いなら強くなればいいだけのこと。私は貴方に追いつく一心でここまで来たのだから。するとどこからかやってきた黒い鴉たちが彼の肢体を喰いちぎっていく。いや、彼の肢体が無数の鴉たちへと変貌しているのだ。消える寸前でさえ彼は振り向かない。けれど最後の刹那、ふと見えた彼の口角が少し上がっていた気がした。再び訪れたひとりの静寂。ざあざあとうるさかった雨音がしないことに気づいて空を仰げば、天上には日暈が眩しい太陽が輝いていた。