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お前に返すよ



目の前に佇む女は舞い落ちる雪のような涙を止めどなく頬に伝わせた。色が抜けるほど白い、だが確かにその下で血脈が生きているのだと思わせる程よく色付いた肌が美しい女だ。眼球が飛び出るほど見開かれた双眸は感情の色を失ったと言っても過言ではないくらい衝撃を隠せないでいる。尚も俺は言葉を止めることはしなかった。


「出ていくに際して貰った物を全て置いていくことにした」


泣く女を前にして我ながら情を知らぬ人間の声を出すものだと自嘲する。懐から出したものを女の前に落としていく。無惨に、痛烈に、手酷く。女の掠れ声すらも掻き消してしまうように淡々と。甘い物が好きだと知った女に贈られた里内の甘味処が記されている、ぼろぼろの本も。冬に使って欲しいと手渡された、糸がところどころ解れている襟巻きも。里イチと評された切れ味の良い忍具も。抱えている物全てをここに置いて行こう。

次々と落とされていく物を呆然と我を忘れて見入る女。溢れていた涙も乾いて痛々しい痕だけが残り、目元はほんのり赤く腫れていた。それまで真一文字に結ばれていた今の女の表情みたいに血色を失った唇が頼りなさげに小さく動く。声は耳に届かない。けれども紡がれた言葉は唇の動きから読み取ることができる。「どうして」そう女は言った。


「不要だからだ」


吐き捨てるように言い切ればさしの女もそれ以上口を開こうとはしなかった。けれど己の身体のふたつの支柱は力を床に吸い取られたように無力に崩れ落ちた。項垂れた女の顔を髪が覆い隠す。窓から射し込む月光に照らし出された髪は、見ている者の視線を奪うような神秘的なまでの艶を放っていた。熟れた果実のように瑞々しい艶やかさは女が流した涙に濡れたからだろうか。床の上で滑る細い手は悲哀漂う雰囲気とは裏腹に、震えるまでに力強い拳を作っていた。そこに、先程まで忘我と呆然に明け暮れてただ涙を流すだけの女の片鱗はなく、吹き荒れる海面の如く荒々しい殺意を瞳に宿す獣そのものだった。

燃え滾る殺意に胸が軋むのを押し隠すように顎を軽く持ち上げて下目に見遣る。例え殺意を抱かれようと俺の意思は変わらない。床に散らばるそれらは俺にとって一切不要なものだ。生温い現実に脚を入れていた今となっては忌まわしき過去と決別するために、全てを置いて行くんだ。と言ってもこの女には到底理解し得ないこと。光など射さない場所で生きる俺とは違いこの女は陽射しを満遍なく受けながら温かく生きる者だからだ。だから置いて行こう、お前から貰った異質と輝くこの愛も。