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混ざり合う熱



どんな痛みや苦しみにも強い方だと自負していた。敵に捕らわれ拷問された際にも決して口を割らなかったし、火遁によって火傷を負った時も呻き声ひとつあげなかったのだから、それは筋金入りと言ってもいい。


「だけどこれはダメだ」


吐き出した言葉は熱い吐息に混じって消えた。自分以外誰も居ない無人の資料室。男所帯の火影邸は性格を反映したかのように整理のされていない有様だったので、言い付けられていた仕事を終えた私はここの整頓に取り掛かったのだ。埃や塵が舞い上がる中懸命に勤しんでいたら不意に足元がふらついた。音を立てて崩れ落ちた私は己の額に手を宛てがい深い溜息を吐く。


「なんでこんな時に熱を出すのかねぇ、私は」


呆れて物も言えない失態だ。一応その予兆は認知していた。今朝の起床時に身体の異様な怠さと原因不明な喉の痛みがあったので友人に作ってもらった薬を飲んできたのだが、どうやら薬の効き目が回る前に発症してしまったらしい。確か飲む前に「遅効性の薬だからあんまり過信しないで」とも言われたような。己の手のひらに伝わる熱と湿気。蒸し暑いので手を離すと一気に冷えて汗が滲み出た。心臓の鼓動がいつにも増して近く聞こえる。


「だけど仕事を放り出す訳にもいかないし」


午後から会議に必要な書類を作成するよう扉間に任されている。扉間のため、と考えるのは随分癪だが任された事をやり遂げないのはもっと癪だ。それに幸い重症化はしていない。手も意識的に動かせるし視界も鮮明だ。ふらつきこそあったが今になってようやく落ち着いてきた。よし、あと少しの辛抱だ。耐えてくれ私の身体。両膝をぱしんと叩いて景気づけ、立ち上がろうと下肢に力を入れた。


「ここなら見つからないんぞ」


それまで静かだった部屋に喧騒がもたらされた。意気揚々と扉を開けて入ってきたのは火影であり友人である柱間だった。先程の言葉から察するにまたもや側近の扉間から逃げてきたんだろう。どうせ飛雷神のマーキングが施されているんだ、逃げても十中八九見つかるのにご苦労な事だと他人事のように肩を竦める。いつもは相手にせず無視を決め込むのだが、今は、万が一のために一刻も早く立ち去ってくれと切望した。睨むように見ていたら彼と目線が交差する。うげ、と青くなったのは言うまでもないだろう。


「お前も居たのか。何を座り込んでいるのだ?」


「落ちた物を拾おうとしただけだから気にしないで。それよりここで騒がれると仕事の邪魔だからさっさと執務室に戻ってよ火影様」


「なっ、お前までも俺に仕事しろと言うのか! 嫌ぞ嫌ぞ、だいたい扉間はいつも鬼すぎるんぞ。あと俺を火影様と呼ぶな、名前で呼んで欲しいんぞ!」


「子供か」


駄々をこねる様はただのガキとなんら差異はない。今の様を火影として世に出したら間違いなく他国に軽視と蔑視されること間違いなしだ。好きでもない扉間に同情するのは癪だが、こればかりは否応なしに苦労人だなと認めざるを得ない。そもそも午後から会議があるのにこんな所で油売ってていいのか、目を通さないといけない書類だってあるだろうに。今サボったら後々キツくなるだけだぞ。なんて諭しても素直に聞かないのがこの男、柱間だ。よし、無視しよう。


「なあなあ、何しとるんぞ?」


「仕事」


「整頓してるようにしか見えんが」


「仕事」


「この後茶屋に行かんか? 新しい店ができての」


「仕事」


「何故素っ気ないんぞ!?」


「仕事中だし」


「つまらんぞー」


ああもう、七面倒くさいなこいつ! ほんとうにガキじゃないか。そんなに暇なら扉間の説教でもマダラに相手してもらうでもしてほしいものだ。特に扉間の説教はかなりおすすめする。あまりの退屈さに悟りが開けて時間なんて忘れてしまえるから。彼に背を向ける体勢で書類整理していたのだが、痺れを切らしたのか柱間は腰に腕を回して肩に額を擦り付けてくる。射干玉の髪が首筋を遊ぶように撫でてくるので、くすぐったさに目を眇めた。


「邪魔しないでよ。火影様だって仕事あるでしょ」


「柱間ぞ」


「解ったから離そうか柱間」


「やっと呼んだな」


声は弾んで抱き締める腕は肌に食い込んでくる。名前呼ばれただけで嬉しがるガキだってことはよーく理解したからいい加減離してほしい。出ちゃうから、胃の中溢れちゃうから。腹で交差する彼の腕を叩いて注意するも意に介する様子なし。ならばと、身を捩って抜け出そうと画策するが、それを見抜いた柱間は今以上の力で締めてきた。逃げようと藻掻けば藻掻くほど離さないのでついに私が折れることに決めた。もうこうなれば野となれ山となれだ、扉間に見つかってこってり絞られてしまえ馬鹿柱間。


「やけに熱いが、もしや熱でもあるのか?」


気を許しすぎたと額に触られた後に気づく。隆起した岩肌のように硬い掌が頬を触り、額を包む。離れて、と口にする間もなく勘づかれた柱間に身体が抱き上げられてしまう。見上げた彼は固い表情を浮かべていた。


「ちょ、柱間!」


下ろすように暴れてみるもこれでは腕の中でじゃれる子供だ。そうちょっとやそっとでは動かないどっしりとした腕が肩と膝裏を支える。落ちる心配など要らないほど安定する様に少しだけ、すこーしだけ息を飲んだ。彼とは互いが幼い頃からの付き合いになる。前までは私の方が彼を体術で打ち負かしていたのに、偉く成長したものだと身を以て感じる。これじゃ組手しても私の方が負けるんだろうな。


「俺の頬になんか付いとるんぞ?」


「なんでもない! というか下ろしてよ、まだ仕事が」


「駄目ぞ。今から家に帰って休むんぞ」


「そんなに酷いものじゃないから大丈夫だって」


「そうでなくとも目元の隈が酷い。いつから寝ていない?」


こういう時は普段と違って真面目な顔をするから全く以て狡い男だとしみじみ思う。言うのを躊躇ったが言わないと絶対下ろさないという眼差しを受けたら口は意外とすんなり動いた。


「二日ほど」


叱られたガキのように小さな呟きだった。聞き漏らすはずもない彼は案の定「今日は何を言っても帰らせる」と頑迷に言い切った。だから言いたくなかったのにと睨んでも彼は相手しない。整理はともかく書類の作成はやらなければならない私の責務だ。これがなければ午後の会議に支障をきたしてしまう。私の心情を知ってか知らずか黙りこくったまま何も言わぬ私に「大丈夫だ」とほざいた。何が大丈夫だ、大切な書類なんだぞ。


「紙よりもお前の方が大切だ」


「そんなことを言ってるんじゃなくてね」


「顔が赤いが、照れているのか? いつもそうだと可愛いんだがの」


「余計なお世話! だいたいね、私はあんたの力になると小さい時に決めたの。これくらい戦争に比べれば訳ない、任せてよ」


言うつもりなかったことが口から滑り出てしまったのは熱に浮かされた故か。最悪だ、軽いものと相手にしなかったものがよもや大きな障壁として立ちはだかるとは。喋りたくない、いっそ気絶させてほしい。今の私は自分でも何言い出すか解らない。熱気に押されて情けない失態を晒しでもしたら、その日が私の命日だ。だから相手したくなかったんだ、柱間なんて。いつも彼は、他人に入ってきてほしくない場所に入り込んで糸を引き上げるがごとき容易さで私の心の一角を我がものとしてしまう。晒したくないと殻に閉じ込めた己の痴態をも、彼はこじ開けて許容する。認めるからこそ、私は彼の前で強がることができないんだ。何も出来ないなんて、嫌なのに。


「泣くな、お前の泣く姿は俺が苦しくなる」


「なんであんたも泣きそうなのさ」


仔犬のような双眸が揺らめいて、穏和な笑顔が良く似合う顔は苦しさに歪められている。抱き上げられている私も泣き、抱き上げている柱間も泣くなんて傍から見れば奇っ怪この上ない状況だろう。それこそ普段冷静沈着の扉間でさえ目を丸くすること必至だ。その顔は見てみたいけど泣き姿は晒したくないので、訳も解らぬまま頬を伝う雫を痕ごと払拭するように手拭いを押し当てながら拭いた。ぽつ、ぽつ、と降ってくる雨にも手拭いを貸してやる。晴れになったようなので私は両肩を竦めて、身体を委ねるように彼の腕に頭を傾けた。


「解ったよ、今日は休む」


「ほんとか!」


「逆にうんって言わないと下ろしてくれないんでしょ。今回だけは柱間の言うこと、聞いてあげるよ」


「そうとなれば急いで家に帰らねばな」


にかっと笑う彼に「え?」と素っ頓狂な声が漏れてしまう。下ろすと約束した彼が、私を抱えたまま部屋を出ようとしたのだ。


「下ろすって言ったじゃん!」


「何故ぞ? 俺が抱えて走った方が早く家に着くだろう」


「人の目は気にせんのかあんたは!」


「細かい奴だの。そら、見せつければいいんぞ。『でえと』ってやつぞ!」


「どんなデートよ。ええぇ、嫌なんだけど」


「俺も下ろすのは嫌ぞ。今のお前を放っておく気持ちは無い」


「お人好しが過ぎるといつか身を滅ぼすよ」


吐きたくなった落胆を押し込めて彼をじっと見つめる。嫌な顔すると思いきや全くの逆、むしろ太陽のような屈託のない笑顔を浮かべた。意表を突かれて目を瞬かせる私に彼は断言した。


「俺を支えてくれるお前が居る限り、俺が倒れることはないんぞ」


それは全幅の信頼を貰っていると自惚れてもいいのだろうか。けれどそれを真っ直ぐに伝えたことになんだか居た堪れない気持ちになって、顔を背ける。言う側に羞恥心はないのだろうか。子供がそのまま大人になったような彼に言う方がむしろ可笑しいのかもしれないと、自分を納得させる。胸の辺りがくすぐったくて、笑みが零れた。熱に浮かされた苦しみなど頭から一掃されるほど胸に温かいものが流し込まれていくような気分だ。


「ねえ柱間」


「何ぞ?」


「寝付けるまで手を握っててくれる?」


赤子じゃあるまいしと思ったが、なんだか今は彼に傍に居てほしいと心の底から感じたので、それを有り体に伝えてみる。や、やっぱ、恥ずかしい。既に熱い顔は更に熱くなっていくのを感じた。返事を待つ時間がもどかしい。早く仕事がしたいと思っていた以上に早く帰りたい気持ちに駆られる。


「勿論ぞ、ずっと傍に居るからな」


「会議にはちゃんと参加してね」


「そこは甘えるところぞ」


「これはこれ、それはそれ」


「本調子に戻るのが早いの。さっきまでの可愛いお前はどこ行ったんぞ?」


「最初から居ません!」


ちょっと気を許したらすぐふざけ始めるんだから。けれども彼の手が傍に居るのだったら、いつも以上に安心して寝られるかもしれないと、柄にもなく胸を撫で下ろしたのだった。