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小さな歩み



「自然」を描けと言われたならばこう描くだろうをまさに具現化したような絶景であった。潤い満ちる大地から芽吹く草木は、たっぷり水を含んだ青を掃いたような空で暈をまとって輝く太陽の陽射しを惜しみなく注がれて育ち、そこに生きる虫や小動物は野生という本能からかけ離れたような和やかさで活き活きしていた。瑞々しい緑と清々しい青が織り成す庭園は、一目見た私の心を奪うにはあまりにも美しすぎた。それこそこの日のために拵えた金箔塗した偽物の動物たちが描かれた打掛など、比べるべくもないほどに。


「余程気に入ったと見える」


口を開いたままで居ることに気付いたのは、隣に佇む柱間様に話しかけられた後だった。目の前のあまりにも現実離れした桃源郷に現を抜かしていた私は、感銘に何も言えず惚けていたことを小さな会釈と共に詫びる。けれどもこの人は些末なことだとさして気にしていない様子であった。


「私の故国では見られない光景、と言うより初めて見た光景なのでつい惚けてしまいました。とてもお綺麗ですね」


「ああ、俺もそう思う。扉間に押し付けられる仕事の合間によく来ては気を休ませる処ぞ」


「確かに落ち着きそうです。この庭園は柱間様がお造りになられたので?」


「そもここは俺の庭園ではないのだ。ここへ頻りに訪れていたらいつの間にか俺の庭園になってしまっていたんぞ」


「扉間様のお計らいなのかもしれませんね」


「あいつは兄を心配し過ぎぞ」


そんなに頼りないかの、と肩を落とす柱間様。その様子が微笑ましくて袂で口を隠してくすくすと笑みを零す。故国と火の国が結んだ和平協定を確固たるものとすべく私は、柱間様と見合いすることになり今に至るわけだが、一緒に過ごして数刻。どんな方かと気を揉んでいた当初の心配は全くの杞憂で、父様の話以上に柱間様は優しく気さくな方だった。詮無い私の日常にも耳を傾けてくださったり、自分の趣味や弟の美談もどこか茶化しながら話してくれるので、「粗相したらどうしよう」「気に入られなかったらどうしよう」などと言った心配はいつしか胸中から跡形もなく消えていた。


「こちらには馴染めたか?」


「はい、柱間様のおかげで。先程料亭で戴いた食事も美味しかったですし。木ノ葉の里の方たちはお優しいのですね」


「そう言ってもらえるのは里長として嬉しい。生活で何か困った時や不便な時は扉間に言うといい」


「お心遣い恐縮です」


風になびき擦れる葉擦れの音、小鳥が伴侶を求め囀る声、ついつい眠気を誘う麗らかな陽光。立っているだけで身体の芯から緩みそうな場所だ。住まう動物たちも柱間様になんの警戒心もなく近づき差し出した手を舐める。動物にも人にも好かれる御仁だ、彼が火影である限り戦争をしなくて済むのは夢物語でないと望みを抱ける。春の陽射しを人間に表したような御仁の妻が果たして私などに務まるのかと、胸中に一抹の不安が灯った。一国の姫という立場でありながらもその実、親の七光りでしかない。己の力で戦い、道を広げてきた彼らとは住む世界も、見てきたものも全く違う。蝶よ花よと育てられた私が数々の名だたる一族を束ねる火影の支えとなれるか、政略結婚とは言え私には少々荷が過ぎるのではないかという気持ちが拭えない。


「どこか悪いのか?」


己の思考に耽ってしまって返事を忘れた私の顔を覗き込んだ彼によって底無しの沼に沈みかかっていた意識は柱間様へ注がれる。心配そうに見つめる彼を安心させるように笑ってみせる。


「このように長く外に居たことなんてないものですから、少し疲れを感じたのかもしれません」


「それはいかん、屋敷に戻るぞ。貴女に何か遭っては俺が御父上に叱られてしまうからな」


口を開けて豪快に笑う柱間様。私はそれをやんわりと断った。壁のある空間よりここに居る方が少しだけ気が和らぐからである。柱間様も、それでいいならと納得してくださった。しかし私を見る面持ちはやや真剣気味だ。


「何かと心細いこともあるやもしれん。その時は躊躇わず俺に話して欲しい。妻以前に、貴女自身の取り繕わない心情と向き合いたいのだ」


「柱間、様」


父様、やはり柱間様はとてもお優しい方でございます。和平協定を確実なものとするための道具でしかないこの結婚にも、なんの力も持たない私にも真剣に向き合ってくれる。私には彼が発するひとつひとつに阿りも謀りも感じられない。ならば言ってみようかと、口が動いた。


「素直に申しますと、不安なのです。柱間様のような偉大な御仁を私のような然したる力を持たぬ女が果たして支えることができるのかと。私に、できることがあるのかと」


内から湧き上がる不安に押し潰されるように視線が下を向いてしまう。沈黙の空間に流れる自然の音がせめてもの幸いだ、彼の視線や心中についてあれこれ考えずに済む。情けないと失望しただろうか。心臓に氷よりも冷たい水を流し込まれるように凍てついていく。全身に波及したのか、袖口に縋り付く指先が汗に濡れて冷たい。一刻以上とも取れる生きた心地がしない沈黙の中で、布が擦れる音がした。力いっぱい握り締めていた手が動いた。包み込むばかりに大きい手のひらは柱間様のもので、彼は己の両手で私の手を挟んで胸元まで持ち上げた。引かれる手に吊られて私の顔も上がっていく。柔順とした眼差しが私を捉えていた。


「そのように想ってくれて俺は多幸者ぞ」


「私は、そんな」


「俺は小さい頃にふたりの弟を守れんかった」


沈んだ声音に瞠目する。遠い昔を懐古する笑みの中に秘められた自身を自嘲するような後悔の色が、彼の柔順な人柄を表した瞳を翳らす。いつの間にか私の心も頭も彼に傾いていて、その顔に泣きたくなる息苦しさを覚えた。


「だからこそ家に帰る俺を迎えてくれればそれで充分なのだ。それに貴嬢は無力な女性などではない。現に今俺は貴女のそれに温かく感じた。力を持たぬ者など世に一人として居らぬぞ。人の命を奪うだけが力ではない、人を癒すのもまた力よ」


悲しみや後悔など瞳を翳らす負の感情を払拭するがごとく莞爾に笑った。それは地を照らす太陽のように明るく、未知への期待を抱かせるように高らかに。努めた笑顔ではなく心底からの笑顔に、それまで胸中に渦巻いていた不安や心配、鬱屈とした気持ちが一掃されるようだった。身体の横につけていた片方の手を彼の手の甲にそっと添える。


「ありがとうございます柱間様」


「礼を述べられるほどのことは言うてないんだがな」


「いいえ、柱間様のお気持ちはこの手を介してひしひしと伝わってまいりました。私は貴方様と違い忍ではありません、武術による支えはできないでしょう」


顔を上げて今度は私が彼を強い眼差しで捉えた。


「けれども毎夜職務から帰宅される柱間様を労ることは私にもできます。今はまだ右も左も解らない雛でありましょうが、私は私なりで模索し柱間様を支えることに尽力いたします」


目を細めてふわりと微笑む。父様、私は私を必要と言ってくれたこの方に誠心誠意仕え、愛してみようと思います。いえ、柱間様なら努めておらずとも自ずと愛が芽吹くやもしれません。どうか不束な娘を見守って居てくださいませ。