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蛙の子は蛙



いくら可愛いものを見たとしても、腹の中で燻る怒りは微塵も収まらない。今の私は多分人生の中で一、二を争うくらいかつてないほど怒っているのだから。そう簡単に宥められるわけがないのだ。


「だからしばらく顔見たくない」


「そんなこと言わないでくれ。泣いてしまう」


「泣けば? 私知らないから」


「酷いぞ」


男の「お」の字もなくめそめそとべそをかく図体のでかい男。外見に見合わずその器は幼児時代からまるで成長していないように見受けられた。止まってるに決まってる。項垂れる様子も私に泣き縋る声もどれもが神経を逆撫でして苛立ちが抑えられない。離れてと言ってもぎゅうぎゅうに抱きしめてくるところなんか、もっと嫌いだ。それで私が許すと思ってんの?


「大体私言ったよね? 入手するのにすっごい苦労したから食べないで、って。柱間も今度は気を付けるって言ったよね? なのになんで食べちゃうわけ?」


「怒った顔も可愛いな」


「は?」


「す、すまん」


我ながらびっくりするくらい鋭いかつ低い声が出たと思う。だけどそれくらい怒っているのだ。事の発端は数時間前に遡る。昨日、探しに探して、友人の伝も利用してようやく手に入れることができた今はもう出回っていない伝説の餡子の串団子。そんじょそこらの茶屋で出されているものとは一線を画す希少な団子なのだ。各国から厳選に厳選を重ねて選ばれた最高級の小豆を惜しみなく使われ、白玉は粉に頼らず一から手作りという母の握り飯を彷彿とさせる手間をかけて作られた。その! 餡子の串団子がようやっと私の手に入ったというのに、一口さえも食べられず全てこの男の腹に入ってしまったのである。期間限定の物あって、もう二度とお目にかかることはできないだろう。血の滲むような苦労は柱間によって一切合切徒労に終わってしまった。泣きたいのはこちらだ、私の甘味に対する並々ならぬ情熱は本人も認知の範疇であるだろうに、なんで邪魔ばかりするのか。


「柱間なんて嫌い、大嫌い」


「そう言ってくれるな。また別の団子を拵えさせよう。そうだ、以前お前が褒めそやしていた職人に頼んではどうだ?」


「全く解ってないじゃん! 私はあの団子が食べたいの! それに柱間、前にも同じことしたよね。なんなの、私が嫌いなの? だから意地悪ばっかするの?」


彼の弟である扉間が絶賛していた和菓子を取り寄せた事例もあるが、その時も同じように柱間に平らげられてしまった。堅苦しい理論を人に表すとすればまさに手本だと言えるあの扉間が褒めたともあって、柱間がそれを食す場面に遭遇した私の気持ちは推して知るべしだろう。雀躍の足取りで帰った私が今でも居た堪れないと痛感する。なのにこの男は反省の色もなく非道を繰り返したのだ。これはもう許す必要なんてないだろう。


「絶交する」


「誰とぞ?」


「柱間」


「なっ!? 早まるな、考え直せ」


「決定事項だから」


言い切った私は腹に巻き付いているそれを退かそうと手で叩く。意とは相反して抜け出そうと藻掻くほど鍛えられた硬い筋肉が胃を絞めるように食いこんできた。昼に食べたカツ丼が溢れ出そうになる。きついきつい! というか痛い! 後ろから締めている彼が浮かべる表情など解るべくもないが、多分きっと悲しそうな顔をしていると思う。だって私を呼ぶ声がいつもの彼とは別人みたいに悲しい声色をしているから。嫌だと繰り返す彼に、何故か私の方が泣きたくなった。心臓が摘まれるように苦しい。捨てられる犬が飼い主に最後の気力を使って縋るように、彼が肩に額を擦り付けてくる。


「なんなのほんと」


なるほどどうしてこうも心が揺さぶられるのか。付き合っているわけでもなければ恋情を抱いているわけでもない。私という友人が彼から居なくなっても支障は来さないし、それは私にも当てはまること。なのにどうしてか、擦り寄る彼を突き放す真似をすることが私にはできそうになかった。苛立っていた感情が行き場をなくし溜息と共に霧散していく。いつもこうだ、食べられる度「今度こそは」と決心しても結局は私が丸め込まれてしまう。彼は一体何がしたいんだ、私はどうして彼に強く出ることができないんだ。


「嫌ぞ、俺はお前と絶交したくないんぞ」


「だったら何故」


「お前まで俺を置いて行くな」


何を指しているのか、それを理解して彼の手に重ねた己の指が引き攣る。埃が舞い上がって叩き起されたひとりの輪郭。今はもう居ない柱間といつも肩を並べていた男。途端に私の腹を絞めるこの腕が、子供のそれに見えた。もはや私の言葉など聞いていないな。けれども無垢な子供が痛みに耐えきれず母に泣き付く様に、どうしたらあしらうことができだろう。


「俺はお前と離れたくない。好きぞ、大好きぞ。お前も俺から離れるな」


「はし」


「傍に居てくれ」


ああもう、解ったよ、私の完敗だよ。餡子の串団子を食べたこともそれを私に隠し通そうとしたことも全部許してあげる。なんだって私にここまで執着するか解らないが、今は図体ばかりが成長した彼を安心させることだけに専念しようと決めた。肩に擦り付ける彼の頭をよしよしと不器用さが見える手付きで撫でてやる。犬みたいに嬉しそうにすんな。あまりの変わりように騙されたのでは? と訝しむ気持ちがもたげるが、どうでもよくなったので不審は流した。何度目になるか数えるのも億劫となるセリフを吐く。


「次こそはちゃんと約束守ってよね」


「善処するぞ」


「確約してくれ」


揺れる尻尾が見えた私は相当毒されているのかもしれないが、無邪気に喜ぶ柱間を見てつい失笑してしまった。