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また会う日までさようなら



アイが涼やかに息吹く季節になった。汗を拭う手に暇がないほど炙る熱が終わりに近づき、今日はもっとも過ごしやすい気候だ。戦ぐ草木を何とはなしに見つめていたら、背後でひとつの気配が止まるのを察知する。後ろを向くまでもなく足元の流れる川を見下ろしながら口を開いた。


「そういや今日だったな」


「忘れてたの? 酷い」


「俺には関係の無いことだ」


「幼馴染の門出くらい祝ってもバチは当たらないよ」


「腐れ縁の間違いだろ」


「ああ言えばこう言う」


落としたボールが地面で弾む調子で、交わされる言葉が減らない。初秋の涼を孕んだ風が草を揺らし、麗らかな陽光が水面を眩しく反射させる。鼻を突くこの香りは金木犀か。見る限りここ一帯に花は咲いていない。背後に立つ名前が持っていると思われる香袋のそれだろう。無意識に顔を顰めたくなる臭さと、目の奥を刺激する痛みを与えるそれを、俺は好きになれなかった。俺の顔が映る水面に歪みが生じて波紋が波及していく。小さな水飛沫が爪先を濡らした。投げられた小石は水を斬ることなく沈んでいく。


「昼まで暇なんだよね。支度はすべて侍女たちがやってくれるから」


「手持ち無沙汰なら他を当たれ。それとも俺の気を害するために来たのか」


「あのね。ここは何もあんただけのお気に入りじゃないんだよ、私にだって来ていい権利はある」


「なら話しかけて来るな」


「じゃあそこに映ってるもうひとりのサスケと話すことにするよ。もしもしもうひとりのサスケくん、今元気? 私は暇を持て余して死にそうだよ。一緒に遊ぶ?」


「ふざけてんのかてめぇ」


「私をそう呼ぶの久しぶりだね」


怖気付く様子など欠片もなく飄々とするこいつに舌打ちが零れた。隣でぎゃあぎゃあとまくし立てるが、興奮した猿ように騒ぐだけなら心底どっか行ってくれと思う。こいつの喚声はひとつひとつ頭に響いてきて鬱陶しいことこの上ない。以前大喧嘩した時はあまりのうるささに、残響が二日続いたほどだ。あの時の居心地の悪さはもう味わいたくない。隣に腰を下ろした女の袂が水滴を拭うように爪先を覆い被る。感触からして相当の値打ちものだろう。


「焼き芋食べに行かない?」


「行かねえ」


「じゃあ簪選びに付き合ってよ。ひとつ欲しいんだよね」


「侍女にでも買ってもらえ」


「私の好みと合わないんだもん彼女」


「知るか」


「けち!」


ほんとうに喧しい奴だ。こいつが静かなところなんて寝ている時くらいじゃないか。こいつとウスラトンカチが一緒な時は絶対に関わりたくないな。いや、それももう無いが。今日こいつは木ノ葉を出る。それは抜け忍や里抜けするというわけではない。そもそもこいつは忍ではないのだから、それらは当てはまらない。生家は大名の中でも屈指の歴史を持つ由緒ある家で、こいつはそこの長女に当たる。男ならば家督を継ぎ他所から女を娶るだろうが、女の身で当主になれるわけもなく未婚で生を全うできるわけもない。詰まるところこいつも家の長い歴史の一部に過ぎず、こいつの代で幕引きとあってはならない。故に水の国にある名家に嫁入りし、産んだ子を男ならば生家に養子として差し出すのだ。身分が高い家ほど世継ぎに目が眩むのはどこも一緒であり、こいつも女である以上逆らうことはできない。


「私の顔になんか付いてる?」


「そうだな。意気地無しの相が見える」


「そういうサスケは仏頂面だね」


こちらを上目遣いで睨むが、全く怖くないし謝れという眼差しにも応じるつもりはない。冷風が囁けば隣で腰を下ろしたこいつの酔仙翁が華々しく描かれた着物がなびいた。爪先を覆っていた袂が呆気なく離れていき微かな冷気に晒される。皮膚に残っていた水滴が熱を奪っていく。しばらく俺たちの間に言葉はなかった。どこかで鳴く鳥の声、川のせせらぎ、自然的な旋律に紛れて人の喧騒が薄く聞こえてきた。里外れの森の中とはいえ里の住民は広がって住んでる。生活音が聞こえてきても不思議ではないだろう。

いつしか俺から顔を背け対岸の草原を見つめている名前を一瞥してやる。「動きやすさ重視した格好」を言い訳にして女からかけ離れた格好ばかりして俺と共に修行したこいつが今纏っているのは親に仕立ててもらったであろう上質な着物。人柄が窺えるざんばらの髪は綺麗に整えられ、服と揃えられた簪や櫛で彩られている。濡羽の髪とはこういうことを言うのかと、らしくもない感想を抱いた。無防備な項は細くて少し力を加えれば簡単に折れそうだ。今思えば、これほど華奢で、明らかに忍に向いていない体躯で俺と修行していたのか。


「ほんとうに行くのか」


強張った声色に吐いてから気付く。こんなことで心を乱された自分にどうしようもない怒りと情けなさが沸いて舌打ちをしたくなった。だけどそれはこいつにも同じように当てはまる。親に逆らおうともせず、家柄によって決められた人生を甘受するこいつに、無性に腸が煮えくり返った。すべて諦めたようにへらへらするな、お前は親の傀儡なのか。出会い頭に喧嘩を吹っ掛けてきた威勢はどこに行ったんだ。お前は自分の言葉さえ忘れたと言うのか。「自分の人生は自分で決める」そう言っていただろうが。手のひらに力が入り爪が食い込む。すると、それに温かなものが触れた。座り込んでいたこいつの手が俺の手を挟んで持ち上げていた。傷痕ひとつない柔らかな細い指が絡まる。俺を映すふたつの眼に揺らめきなど微塵もなかった。


「行ってくる」


はにかんだ顔を見て瞬く間に悟った。もしこの選択をこいつ自身が選んだものだとしたら。己の中から何かが爆発して堪らず肩を掻き抱いた。抗われることなく俺の腕の中に飛び込んでくる一回りも小さな身体。暑苦しいだとか、邪魔だとか、そんなことは過ぎる隙もなかった。驚いて戸惑っていた彼女も、次第に声がなくなっていき代わりに背中に手をそっと回す。糸のように細い髪が頬をくすぐり、香袋の臭さが鼻腔を通って脳を突き刺した。

その臭さに眉を顰める。やっぱりこいつにこんな服は似合わない。立て矢結びの帯が邪魔して満足に抱き絞めることさえできない。耳元で雨音が響く。細くて甲高い雨音は、さめざめと降り続いて俺の肩をしとどに濡らす。その雨はいっそう金木犀の香りを引き立たせた。やはり俺はこいつの声が大嫌いだ。払拭しようと振り払おうがお構い無しに鼓膜にこびりつくのだから。