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宵月



※Not夢小説。













一ヶ月前、隣国との対談の任務に赴いていた兄さんが帰ってきた時、腕に毛玉が抱えられていた。だけどまじまじと凝視すればそれは毛玉ではなく、丸まった猫であったことを理解する。ぴくりとも動かないので死んだかと逡巡したが、死体を持ち帰る兄さんではない。ということは重体になって意識を失っているのだろうと踏んで、一族の医療忍者にそれを預けることにした。兄さんに話を聞くところ、小休憩にと選んだ川辺に横たわっているところを拾ったらしい。最初から気絶していたわけではなく、兄さんの腕の中で力尽きたようだ。里内で見かける猫はどれも毛艶が良く活発と動き回るのだが、あの猫はその反対を往く姿をしていた。

触り心地が良いであろう毛は、固着した泥や生命力を奪って生きる蚤虫によってすっかり荒れ果ててしまい、近寄ることおろか見ることさえ躊躇してしまう有様になっていた。丸い身体は絶えず酷い悪臭を放っていて正直当時のそれは今でも微かに鼻腔にこびり付いている。死体に紛れていても気づかないほど廃れた飼い主不明の野良猫だが、一ヶ月もするとすっかり本来の調子に戻ったようで、ゴミ同然の身体は今や見る影もないまでに柔らかな毛並みを取り戻し僕や兄さんだけではなく、一族や垣根を越えて千手からも可愛がられるようになった。僕としては死にかけの猫など気に止めるほどでもない瑣末事ではあるが、拾ってきた時の兄さんの顔を見たら放っておくことはできなかった。

今となっては治してよかったと思っている。縁側に腰を据えて月を見上げる僕の袂がちょいちょいと引かれた。そこには件の猫が居て、満月のような丸みを帯びる瞑らな双眸が僕を視界いっぱいに映していた。その瞳は控えめな月明かりに当てられて細やかに光る。綺麗だと、素直に感じた。


「そんなに兄さんが心配なの?」


眉を少し下げて笑えば猫は返事をするように小さく鳴いた。頭を撫でてやる。手のひらにすっぽり収まる小さな頭部は撫でられる力にゆらゆらと動いて、ごろごろと何か固いものを転がす低い声が喉から響いてきた。双眸を気持ち良さそうに細めている。この家にやってきた時から猫は撫でられるのを好んでいた。他ならぬ兄さんの手に撫でられるのを好んでいた。今でもそれは変わらないが、最近になってその枠に僕も入ったらしい。まあ、拾ってきたのは兄さんだし、優しいから好きになる気持ちは理解に難くない。仕事だ任務だ政だと忙殺されていた時も、兄さんに構って欲しくて一定時間経つとちょっかいを出していたなあ。

やめてくれと口が言っても目が嬉しそうにしているから猫もついぞやめることはなかった。人間、動物、あまつさえ植物にさえ好かれているんじゃないかと思っていた柱間さんよりも兄さんを選んだ時は、嬉しさに爆発するところだったのは内緒にしよう。だけど扉間を引っ掻いたのは正直に本人の前でたくさん褒めてやった。あれは扉間が悪い、人の猫を実験体にするなんて。昼餉の魚一疋くらいでなんと器の小さい男なことか。思えば猫に振り回された一ヶ月だった。


「兄さんなら大丈夫だよ。兄さんに勝てる奴なんて居ないんだから」


猫は喉を鳴らして返事をした。今日は、長らく家を空けている兄さんが帰ってくる日だ。定刻に帰宅していたものだから、習性というべきか健気というべきか、今日までずっと猫はその時間になると扉の前で座っていた。待てど暮らせど姿が現れない時は兄さんを何度も呼ぶ。それは母とはぐれた子供のように思えた。喉が潰れてしまうのではないかと思ったのは一度や二度ではない。だけど僕が止めても猫は呼ぶのをやめない。呼んでいたら必ず来るんじゃないかと信じているようで。払暁まで土間で丸まっていたのを見た際はさすがに火鉢を焚いた部屋に入れてやった。

秋も冷え頃に外に居てはいつかの日みたくぽっくり逝ってしまう。猫が呼ぶ。兄さんを呼んでいるのかな。兄さん早く帰ってきなよ、僕もこいつも待ってるんだからさ。そして会得した新術を見てもらうんだ。すると、玄関の方にある引き戸が引かれた音が聞こえてきた。僕が立ち上がるよりも猫が暖かな部屋から飛び出す。床を掻きながらもその調子は見て取れるように嬉しさに満ちている。猫を追うようにして僕も兄さんを出迎えた。引き戸には見慣れた姿が立っていて、その腕には猫が収まっている。僕の姿を認知して兄さんは「ただいま」と短く言った。おかえり兄さん。