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それではさようなら



私を意気地無しと言うだろうか。それとも根性無し? 放浪娘? どれも一緒だ。どれも私で、どれも嫌いな私。だけど抜け出すつもりはないのだからひょっとしたらいつか窒息するのかもしれない。肢体を覆うのは弾力のある掛け布団。洗濯されたばかりのそれは石鹸の澄んだ香りをまとわせる。人肌の暖かさが充満するこの心地良さを一度知ってしまえば手放すことはできない。私布団と結婚しよう。手を伸ばして床に置かれている本を手繰り寄せる。外気に晒されたことでぶるりと手首が震えて鳥肌が立つ。脱兎のごとく掛け布団の中に引き戻せば、安堵の溜息が零れた。

本を開く。夜目が利くというのは非常に便利なもので、光が射さない薄暗い布団の中でも視界は良好。忍になってよかった。隠退したけど。ぱら、ぱら、一定のリズムを刻んで紙をめくる。流し読みなんてしてない。子供の頃から培ってきた速読術を行使しているだけだ。私はこの時間がすきだ。暖かな布団に包まれ、好きな本を心ゆくまで堪能できる。窘める声も、邪魔する者も居ない。まさに私の世界、私だけの桃源郷。今は冬だから布団から出られないのが悩みの種だけど、それも暖かな格好すれば問題解決。ぎゅるぅぅ、と腹が唸り声をあげた。時間は朝。早寝早起きが身に染みた私の腹は早々に働き出す。

もう少しゆっくりすればいいのにと思うことはもはや日常となっている。さて、朝ごはんは何にしようか。炊きたての白ご飯があればおにぎりでも作れたが、昨晩の私は眼精疲労で早くに寝落ちしてしまったので何も作っていない。当たり前だが台所は一切手付かずとなっている。越してきたばかりのそれにも引けは取らない。菓子を買い置きしてたはずだと閃いた。さすが私、天才だ。ふふんと誇り高い鼻息をあげて身をよじる。本を傍に置き四つん這いになった。そして布団の上で正座して腕を伸ばす。骨が鳴る。すると芋づる式に身体の至る所で悲鳴が響いた。さすがに二日連続で同じ体勢というのは毒みたいだ、今日は近場を散歩するか。こう見えても自分の身体にはある程度の気遣いはしているので、硬直死を免れるなら億劫で仕方ない外出も致し方ない。眠気も覚めやらぬ眼を擦る。


「惰眠と妄想を貪る廃れた根性は直っていないようだな」


刀身の直線にも負けぬ低い声がうつらうつらとする脳を殴るように叩いた。赤錆が生えた螺を力任せに動かさんとする様子で固まる首を懸命に回す。そこに立っていたのは今一番見たくない人だった。今じゃなくて生涯、一生見たくない。窓辺に立っているその人は大股で近づき私の首根っこを掴み上げ、茫然自失の私を睥睨して我を取り戻させる。そんな睨まなくても宙ぶらりんになれば嫌でも理解しますから。それよりなんなんすか、怖いんだけど。ていうかなんでここが。それを汲むように彼は「俺の情報収集能力を侮るな」と吐き捨てる。ご立派な事だ、時間の無駄遣いは私よりも上だと見受ける。だけど深謀遠慮な奴は得てして本音を口にしないのだ。


「な、なんの用ですか扉間さま」


「先日、正式に火影の座がワシに譲られたことはお前でも知っているな?」


「そうなんですか? おめでとうございます」


「白々しい。仮にもお前は木の葉に住む忍だろう」


「隠退した身なんで」


「あれのどこが隠退だ。ただの失踪だ」


「辞表提出したじゃないですか」


「『余生を楽しむため隠居します。探さないでください』という諧謔を辞表と呼ぶなら、お前は一度常識というものを頭に入れ直して来い」


「無駄を削いだ実に素晴らしい辞表だと思いますがね」


「削ぐな! これのせいでお前の後釜はお前の帰りを待っているんだぞ」


「え? 誤解されちゃってます? 超絶イケメンでお優しい二代目様なら誤解を解いてくれるって信じてます」


「顎で使うな馬鹿者」


脳天を割る力量で拳を落とされた。突き抜ける激痛に視界がぐわんぐわんする。痛む箇所を手で抑えると掴んでいた首根っこを離し、地面に落とされた。下に布団が敷かれていて良かったと涙に潤む瞳で睨みながら思う。私なんかの睥睨ひとつに怯む扉間さまでないことは重々承知しているのでこれは言わば意地だ。扉間さまは私が忍をしていた時の配属先で、あまり会いたくない人物である。普通なら良き上司として敬うべきだろうが、彼には苦い思い出しかないため敬うというより敬遠に近しい印象がある。

一に修行、二に鍛錬、三に勉強と、揚げ足取りに勤しむ姑のごとき執拗さで私を追い詰めた人だ。だいたい私は独断専行が向いているのに扉間さまときたら任務の確実性を重視してチーム制にしやがった。助け合いなんて名ばかりの連帯なんぞでやっていけるのは最初のうちだけで、ちょっとした失敗も互いに擦り付ける本性を見てからは任務に赴くことも私は放棄した。足でまといが増えただけで任務が遂行できるわけない。だから隠退したのに何故扉間さまが目の前に立っているんだ。帰ってこいなんて言っても絶対帰らないからな!


「さっさと戻れ」


「やっぱり。絶対嫌です、忍辞めます、辞めました」


「口で言って辞められるものでないことくらいがらんどうな頭でも解れ」


「わ、解ってますけど。あー、いやだー、戻りたくないですー。柱間さまなら無理強いしないのに」


「ワシを兄者と一括りにするな。任意で戻るか拘束されて引き摺られるか、どちらかを選べ」


「痛いやつ! 私はひとりの方が好きなんです、団体行動とかほんとうに、心から向かないんです。なのに扉間さまったら任務の確実性とか銘打って無法地帯に投げ入れたじゃないですか。私、二度と戻りたくないんです。いくら扉間さまでもあそこへ放るなら相手しますよ」


口先だけかっこいいことを言ってみるが、私じゃ扉間さまには敵わないし時間稼ぎも厳しいところ。上手く諦めてくれるなりしてくれればいいのだが、うんともすんとも言わず無表情で見下ろす彼に果たしてそれを期待してもいいのだろうか。そういえば忍術を使うのもいつ以来だろう、家に居ては使う必要もないから印を結ぶのさえもしかしたら一年ぶりかもしれない。うわ、覚えてるかな。体得した術なんてたかが知れてるけど。吟味されること数分。沈黙に緊張したのは初めてだ。動く気配のない扉間さまに少しづつ焦りが出てくるが、一歩動いたら何されるか解ったものじゃないので下手な行動には出ない。帰ってくれ、頼むから帰ってくれ。長い長い沈黙の末、扉間さまが出した答えは「そうか」という緊張した自分を殴りたいくらいの間の抜けたものだった。えっ、その三文字にこれほどの時間をかけて逡巡してたの? なんてはずもなく。


「ならばあの組に戻ることはしなくていい。代わりにワシの補佐役となれ」


「はい?」


びっくり仰天どころじゃない申し出に間の抜けた答えが出てしまう私。どうしてそうなったと思わずにはいられない役職だ。火影の補佐役を、こんな私に? 突出した戦績もない、ふたりとない秀でた頭脳もない、色任務に行使できるほどの色香もない、忍でない一般人に溶け込んでも解らないほどの凡百な私を火影の補佐役に? 初代目の柱間さまも中々風変わりな方だったけど、弟の方はその何倍も何十倍も変わった人だ。惚ける私を扉間さまは無表情のままに言う。


「お前が傍に居ると何かと便利だからな」


「それならそうと補佐役じゃなくて影武者だと言ってくれません? もちろんやりませんけど」


「いや、お前には補佐役を務めてもらう。主な内容は他里との会談時の付き添いや、重要書類の管理などだ」


「めちゃめちゃ重職じゃないですか。いや、あのほんとに勘弁してください、私ただの隠退したしがない忍なんで」


「一介の忍に火影直々の命を拒める権利があると思っているのか?」


「そういうの職権乱用って言うんですよ」


「酔生夢死に浸り惰性に依存するお前に生きる道を与えているだけ喜べ。来るなら生かすが拒むなら殺す。他人事のように選んでくれるなよ」


鷲のように鋭い瞳で睨まれ固唾を呑み込む。ひやりと背筋が凍った。拒みたいという気持ちが奥底からひしひしと訴えてくるが、扉間さまを目の前にしては私はそれに首を横に振ることしかできなそうだ。なんだって私なんかに執拗になるか皆目検討つかないが、首を落とされるのは何よりも御免なのでとうとう私は項垂れるほかなかった。


「戻ります」


「英断したな」


少し上機嫌そうに笑っても私の心中は晴れるわけもなく、激務に追われ痩せ衰える明日の自分を想像して口の中が酸っぱく感じた。嫌だな、寝たいな、布団の中にひきこもりたいな。無数の誘惑は容易く脳に手を着ける。その刹那、ふわりと身体が宙に浮いた。腹に回された腕は固定するように食い込んでくる。何事かと目を丸くした私は徐々に扉間さまに抱えられているのだと理解した。痛い痛い! ちょっと扉間さま! 私の胃を虐めないでください! 明らかに暴力だと抗議するもまるで何処吹く風を崩さない扉間さまは、横目で私を一瞥した。


「休めると思うなよ」


余命宣告にも等しいそれは心臓の熱を奪うには充分すぎるもので、一瞬にして青褪めるのが自分でも解った。笑えないジョークは言わないしそもそもジョークを言うようなお人じゃない。つまり私は死ぬのか、なるほど。こんなことになるならいっそのこと世間一般に知られている辞表を叩き付けてくるべきだったと、過去の己を悔しいほど恨む。意気地無しでも構わない。根性無しでもいい。私はただ、いつかくる終わりまで自分の世界に浸っていたいだけなのだ。