画像

いっぺん殴らせろ



私は今世紀最大の一大事に直面している。今世紀というより生涯最大と言った方が相応しいかもしれない。手に汗握って鏡に向かい合う私の頬に力が無意識のうちに入っていたようで、段々痛くなってきた。ぴりぴり張り詰める己の内側を宥め落ち着かせるように頬をしっとりと按摩する。少しはマシになったものの瞳の翳りは拭えない。ちらりと横目に一瞥した窓外は夜の帷が降りて静まり返っている。今は誰しもが寝静まった時間である。本来ならば私も褥に包まり滑らかな微睡みに身を預けるところだが、今日ばかりは違った。

それは昼まで遡及するのだが要点を摘まんで言えば恋人、扉間に「夜更けにワシの家へ来い」と直々に言われたのだ。手にしていた箸を落としそうになった気を持ち直してなんとか返事をした私だが、歯に衣を着せずに言えば物凄く緊張している。恋人なわけだしいつかはそういうことをするのだろう、その認識はあったしそれが今日なんだなということは理解した。したけど、だからといって緊張しないかと聞かれたらそれは間違いなく否だ。めちゃめちゃ緊張してるし、その証拠に手のひらの汗がひっきりなしに分泌されている。


「ど、どうしよう。私色事のいろはなんてひとつも知らないんだけど。なんて挨拶すればいいんだろ、『こんばんは今日はいい月夜ですね』? って、今日曇りで見えないし! ああもう扉間の馬鹿! そっちから来てよ!」


この鈍物! 阿呆! 私をこんなに翻弄させて楽しいのだろうか。いいや楽しんでるに違いない。今頃褥の上に胡座をかいてそれはもう厭らしい嗤笑を浮かべているに違いない。世に言う「焦らしプレイ」というやつか、なるほど兄に言い付けてやる。悶々としていれば知らずのうちに袋小路に嵌ってしまった。けれど一旦沸騰した頭を落ち着かせよう。私は彼に抱かれることを嫌と思っているか? いいや、それは思っていない。恥ずかしい、恥ずかしいけど断言できるのは事実。というか扉間にしか抱かれたくない。鏡にもう一度顔を遣る。そこに映っている素面の自分。

薄化粧すら施されていない有り体の自分。いつもは薄化粧して会っているが、衣に隠された身体はどう足掻いても偽ることは能わない。つまり彼に晒すのは生傷絶えない肢体ということ。自分自身この身体を恥じたことはないし過去の選択を反省したこともない。けれどいざ彼の目に晒すとなると一歩踏み出すことに酷く怯えてしまうのだ。もし彼に愛想尽かされてしまったら? 引かれてしまったら? 無傷な柔肌が好きだと言われたら? そんな言葉が浮き沈みを繰り返して私の精神を揺さぶってくる。扉間はこのままの私を愛して、抱いてくれるだろうか。


「ううん、きっと大丈夫、大丈夫だよ」


手元を映していた視線が鏡に戻され、私は内側の淀みを晴らすように両頬に喝を入れた。ぱちんと肌を打つ乾いた音が部屋に響く。扉間は偽りない眼で「好きだ」と言ってくれた。恥ずかしがりながらも「一緒に居たい」と抱き締めてくれた。時折落ち込む私を厭う様子など微塵もない面持ちで落ち着くまでずっと手を繋いでくれた。そんな彼だから私は好きになったし、背中を預けるようになった。そうだ、そうだよ、何を不安がっているのだろう私は。他の誰でもない自分が惚れ込んだ男じゃん、信じなくてどうするのさ。

肩に伸し掛っていた重荷が降ろされたかのような開放感を感じて立ち上がった。そろそろ扉間に来いと言われた時刻になる。こうしちゃ居られない、早く行かなきゃ。時間を刻むように逸る心臓の音に急かされて家を飛び出した。昼間は活気づいている街道を走り抜けて一直線に扉間が住まう邸宅に向かう。段々と民家が少なくなっていき月夜に溶けた黒い大木が立ち並び葉を垂らしている。それも進めば地平線の向こうから屋根の先端が浮上し、近付くほどそこから下の部位が現れる。


「つ、着いた」


ぜえぜえと肩で息をする。見上げた先に建つのは来る者を少なからず萎縮させてしまう雰囲気を放つ武家屋敷。暖簾には千手の印。厳かで格式高いこの家に彼は居る。汗ばむ手のひらをぎゅっと握り締め深く息を吸って吐く。いくばくか落ち着いたようだ。すると第三者の声が静謐な空気を一転させた。


「お前にしては随分早かったな」


「びっくりさせないでよ扉間!」


「忍が気を緩めるな。殊更人の気もないこんな夜遅くに」


恋人の家の前で気を緩めるなって無茶ぶりしないでよ、半目で訴えてみるも彼にとっては対岸の火事なのでまるで意に介する素振りは見受けられない。弾かれるように我に返っていつもの流れに流されていることに気付く。私がまじまじと扉間を見つめれば、彼はその視線に眉を顰めて「なんだこいつ」みたいな表情を作った。そして踵を返して肩越しに私を見遣る。


「上がれ」


「あ、うん」


なんか肩透かしを食らった気分だ。拭えない違和感を抱えたまま土間を跨ぐ。長い廊下を点々と置かれた蝋燭が仄暗く照らす。物音一つ聞こえないが兄の柱間とは別居しているのだろうか。いや、考えるまでもないか。彼は妻帯者だ、そりゃ同じ家に住むはずがない。回廊の右手には剪定された松の木が植えられていて、その傍に鹿威しが揺らめく池があった。ちゃぷん、と水飛沫があがるのはそこに鯉でも飼っているからだろう。扉間の初めて知れた一面に内心惚けつつも前を歩く彼の背中はしっかり追いかける。ふたり分の重さに軋む廊下を歩き続ける時間も唐突に終わりが来る。扉間がひとつの部屋を前に足を止めたのだ。釣られて私の足も止まる。


「あの、外で待ってようか?」


いろいろ準備とかあるだろうし。そんな気持ちで言ったのだが、彼はそんな気遣いを気味悪がった顔で一刀両断する。


「入って構わん」


「えっ、用意周到だね。いや、それもそうか、呼んだのはそっちだし」


「何をひとりでぼやいているんだ」


「べ、別に? なんでもないよ?」


「名前」


「えっ?」


前触れもなく扉間の顔が近づいてくる。驚きに身が固まれば、その距離は呆気なく鼻の頭が擦れ合う程度にまで縮められた。屋根から崩れ落ちた月の明かりが一筋雪崩込んで扉間の相好を浮かび上がらせる。彼の性格を表す切れ長の赤眼は揺らめくことなく一身に私を見つめ、涼を運ぶ穏やかな風に煽られてそよぐ白い髪に、薄い絹が舞うような美しささえ感じた。何も言えず立ち竦む私に彼は変わらない様子で言う。


「熱でもあるのか?」


「はい?」


「お前の奇天烈さはもはやいつものことだが、今日は輪をかけて可笑しいぞ。熱があるなら伝書鳩でも飛ばして明日来れば良かっただろう」


「熱なんてないよ! 奇天烈さも扉間には負けるから。というかさすがに伝書鳩なんて飛ばさないよ」


夜の誘いを断るのにそんな方法を用いるってどんだけ情緒ないのさ。自分が言えた義理じゃないけど素人目線から見てもそんな断り方は嫌だ。自分がされたら一晩泣き寝入りする自信がある。


「お前がいいと言うなら気にせん。すぐ終わるしな」


「は?」


飛び込んできた言葉に思わず腹の底から低い声が出てしまった。目を丸くさせる私と同じように双眸を瞬かせる扉間。いやいや、なんでそっちが驚いてんの。驚きたいのこっちなんだけど。


「すぐ終わるって何が」


「少し待っていろ」


「え、あ、うん。解った」


これ以上言葉を交わすのは誤解を助長させるばかりと踏んだのか、扉間は渋面のまま己の自室であろう部屋に入って襖をぴしゃりと閉めた。ひとり残された廊下で先程の扉間の顔が目に浮かぶ。来た時から彼はいつもどおりの様子だった。何を焦るでもなく何を緊張するでもなく、至って平静。至って普通。まるで家に招いた友人を対応するような。そこまで思い至って思考が途端に弾け飛んだ。そしてひとつの結論が恐る恐る呼び出される。もしかして呼ばれた理由ってそういうことじゃない、とか?


「私の考えすぎ、ってこと?」


自意識過剰というやつか。刹那、言い表せない恥ずかしさに身体がカッと熱くなった。手に違う意味で汗が湧き出る。嘘! 私ってば思い違いしてたってわけ!? 完全にその気でここに来たんだけど! だから「すぐ終わる」なんて言ったのか、だからなんの変わり様もなく平静だったのか。本人にその意がないのなら変わるはずもない。私、私ってば、なんてこと! 先走った憶測が的外れもいいとこな結果を出すなんて。穴があったら入りたいってレベルじゃない、いっそ里抜けしてしまいたい気持ちだ。未だかつて無い羞恥心にずるずる力なくうずくまれば、背後から唐突に声が掛けられた。


「腹でも痛めたのか」


「と、扉間」


「これを渡したくて呼んだんだ」


「巻物じゃん」


手渡されたのは「秘」という札が貼られたひとつの巻物。触れた途端、指先に亀裂が走った。素早く手を引っ込めたがなるほど。何かしらの術が施されているようだ。厳重な術を施すほどの機密情報が乗っているだろう巻物を渡すがために人っ子眠る月夜に私を呼び寄せたとでも言うのだろうか。


「ワシがお前の屋敷を訪れれば良かったのだが、如何せん手が離せない書類の始末に追われてな。こうする他思い付かなかった」


何か不都合だったかと首を傾げられる。溜息を吐きたいような笑ってしまいたいような、なんとも言えぬ感情に駆られる。私の予想は合っていた。だが全く嬉しくない。ひとりで緊張して舞い上がって馬鹿みたいだ。手のひらに滲む汗に困ったように笑った。はあ、と吐かれる息と共に肩が力を失っていく。今一度膝から崩れていく私を見て、泰然自若と冷静沈着を体現した扉間もこれには戸惑いを隠せないようで、「どうした、やはり熱があるのか?」と背中を摩る。その手がいつもより優しいのだから、却って泣きたくなった。
とりあえず。