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錯綜するマリア



影の妻というのは良くも悪くも多大な影響力を持つ。人の目に晒される日常に折れる人も一定数居るが、どんな苦境に追いやられても、彼女が屈することはなかった。


「奥様!」


「ごめんなさい! ごめんなさい!」


昼の時間となり執務室から家に帰った時だった。一枚の扉を隔てた室内から妻の慌ただしい謝罪と、目付け役の老婆の叱責が聞こえてきた。また何か注意されたんだろう。重箱の隅をつつくのはやめろと何度言っても目付け役は頑として聞き入れない。短い嘆息を落として中へ入った。叱責は台所に近づくにつれ大きくなっていく。途中から妻の声は聞こえなくなっていた。今度は何をつつかれたんだろうか。


「戻った」


俺の声にそれまで流れていた叱責がぴたりと止まった。ひたすらに謝り倒していただろう名前は顔を上げ、俺の姿を見るなり沈痛な面持ちは一変し、花開く笑みを浮かべた。それまで相手をしていた目付け役の存在はどこか、まるで跳ねる雀のような足取りで俺に駆け寄る。はしたないとまた目付け役の小言が飛んできたが、彼女の耳には入っていないだろう。


「おかえりなさい! ご飯できてるよ」


「奥様、貴女って方は! 何度も注意しているでしょう。妻たる者、夫には常に敬意を払い、慎ましく接するべきだと」


「でも我愛羅に素のまま接してくれって言われてますし……」


「なんてこと! 夫を呼び捨てにするなんて。いいですか奥様、この方は貴女の夫である前に風影様なのですよ。理解しておいでですか」


「俺が名前で呼んでほしいと言ったんだ。妻に落ち度はない」


これ以上話す時間を与えるとますます苛烈を増していくと踏んで俺が割り入る。案の定と言うべきか、目付け役の眦は吊り上がっていく一方であった。影の妻になるということで彼女に指南役という名の目付け役を付けることになった。妻としての立ち振る舞いや、家に帰ってきた夫に対する接し方、家での立ち位置などを叩き込むためだと言う。俺は反対した。いくら風影の妻と言えどそこまで縛る必要はないと。重鎮たちの言うとおり彼女は忍ではなく一般の出ではあるが、名前はおのれの立場も俺の役目も十二分に理解し、支えてくれている。だから必要ないと何度も説いてみせた。だが頑迷に聞き入れない彼らを宥めることができたのは、要求をすべて飲み込んだ名前だった。理由を聞いた俺に「影の妻として立派に成長したいからです」といつもの屈託のない笑みで返したのだ。それには俺も「そうか」と言わざるを得ない。それから今まで彼女は弱音のひとつも吐かずに頑張ってくれている。これほど真摯だというのに、未だ重鎮たちは認めようとしない。目付け役を追い出し、名前が作ってくれた料理が並ぶ昼食の卓に着く。


「今日はお裁縫と茶道の稽古したの。お裁縫って難しいのね、何度も指を刺しちゃっておかげで絆創膏が無くなっちゃった。でもね、ようやく一枚の手ぬぐいが作れたの! 我愛羅は里の長だしいつ襲われても可笑しくないじゃない? だから持っておいてほしいのだけど、貰ってくれる?」


店で売ってるような立派な物でも上手な物でもないのだけど、そう言って箸を止めて自嘲気味に笑った。名前はよく俺に贈り物をしてくれる。それは物に留まらず、目に見えないものまで。気遣ってくれたことに胸の辺りからじんわりと広がる温かさを感じた。


「お前が作った物に下手も上手いもないだろう。後で見せてほしい」


「我愛羅って褒め上手だね」


「本心を言っているつもりだが。しかし最初に怪我の具合を見せてくれ」


「心配性だなあ、大したやつじゃないのに」


お前のことなら心配にもなる。常人から妙にズレたところを持っており、彼女を端的に言い表すならばナルトだ。あいつに通ずる箇所を多く持っている。一度決めたら誰が何と言おうと貫き通すところや、見栄を張ってしまうところなど。強がる時に限って大事なので尚更。だが、こうして愛する者と言葉を交わして一緒に食事をすると言うのは、ほんとうに心地よいものだな。それは全て彼女が贈ってくれたもの。昼食を終え、刻限になったので家を出る。建物の出入口まで一緒に行くのが俺たちの間での取り決めみたいなもの。家に帰れたり帰れなかったりと不安定な身であるゆえ、落ち着いて名前の話に集中できるのは昼の食卓を囲む時と、今のこの時間だけだ。街ゆく里の民に言葉を返しながら彼女の話にも傾聴する。どれも日常で起こった些細な事柄だが、この時間は何にも代えられないほど大切だと思っている。流し目で一瞥すれば、ころころと表情を転がしながら楽しそうに話す彼女が映った。一生こうあってほしいと、密かに願う。


「もう着いちゃったね」


「ああ」


気づけば建物に到着していた。名前は忍ではないため中には入れない。一瞬だけ眉尻が下がるが、瞬きしたらそれは面影も残していなかった。彼女らしい、そして俺が何度も惹かれた、あの明るい笑みを浮かべている。


「できるだけ帰れるよう努める」


「夜ご飯作って待ってるね」


「目付け役に何かされたらすぐに言ってくれ」


「指導してくれてるだけだよ?」


からからと笑い声を響かせる名前は、やはり解っていなかった。目付け役の悪意にも、重鎮たちの嫌がらせにも。あれらは試しているわけでも厳しく育てているわけでもない。彼らの機微に聡いカンクロウやテマリは普段一緒に居られない俺に代わって彼女を見てくれているが、それも四六時中とはいかない。どうしても隙を与えてしまう。それが気がかりなのだが、人のそういった負の気持ちに疎い名前は、目付け役の重箱の隅をつつく行為すらも反転に捉えている。きっと「風影の妻として厳しく育ててくれてる」と思っているはず。彼女のそういう楽観視は悩みの種に水をやってる行為だが、そこをねじ曲げて諭しても小首を傾げるだけだろう。やはり俺が信用する忍の誰かを付けるべきか。きょとんとする名前を見ながら思案に暮れると、聞き馴染みのある声が風に乗せられた。俺も彼女もそちらに視線を遣り、相手を見ると名前は大きく手を振った。


「お久しぶりです、お義姉ねえさん」


「そういえば長いこと顔を出せなかったね。元気にしてるかい?」


「おかげさまで今日も元気にお買い物して来ました」


「名前の作るご飯は美味しいからまた食べに行くよ」


「ぜひ! 先生には合わなかったようですけど、これからも精進して美味しいご飯いっぱい作って待ってますね」


片手でぐっと拳を作り意気込む彼女を見て、テマリは俺に耳打ちしてきた。


「いい嫁さん貰ったじゃないか、我愛羅」


「ああ。今日は帰れるよう努めるつもりだ」


「へえ……。頑張んな」


「――奥様!」


和やかな空気に緊張が走る。甲高い声に視線が釣られてしまい、たった今建物から出てくる目付け役を見つけてしまった。帰った時同様に眦を吊り上げて憤慨してる様子で名前に近づき、早く帰るよう叱咤し始めた。徐々に見送りに対しても不満を並べ立てる。


「妻が夫の職場に来るなんてあってはいけないことなんですよ。貴女がなさなければいけないのは夫の見送りではなく、夫がいつでも快適に過ごせるよう家を守ることです。風影様は日々の多忙にお疲れなのですよ? それを労うのでしたら忍術のひとつも使えない貴女が風影様の足枷になるのではなく、自分に何ができ、何をしなければいけないのか考えるべきでしょう」


「やめろ。俺がここまで送ってほしいと頼んだんだ。それに名前は家ではよくやってくれている。力量など関係ない」


「風影様はまたそうやって甘やかす……! なりません。奥様の言動ひとつひとつが他里にどれほど影響を与えるか、考えたことがありますか? なんの力も持たない者が里の長と結婚する、であれば集中砲火を浴びるは必至。なればこそです。夫である風影様の品位まで損なわぬようしっかり言い聞かせておかなければ。これは厳しい教育なのですよ」


またこれだ。どれほど砕いて説明しても岩のように硬い彼らの頭では受け入れようとしない。影の俺を懐柔できなかった苛立ちをこうして名前にぶつけることで気を紛らわせているのか、それとも揚げ足を取って仲を裂こうとしているのか。腹積もりは解らないが、名前を離すことはないと思ってほしい。


「名前がいつ、誰に、粗相をしたと言うんだ」


「いいんです、お義姉さん……。私が至らないばかりにあなたまで巻き込んでしまってはそれこそ影の妻として失格です」


そう言う名前はうっすらと微笑んでいたが、誰がどう見ても傷ついていることは解る。痛みを堪えるように微笑む彼女の姿に、身体の奥にある蝋燭に火が灯る。その炎は瞬く間に全神経を熱し、細胞という細胞が沸き立つ。怒り心頭なのはどうやら俺だけではないらしい。傍に居たテマリから荒々しいチャクラを感知する。泣き言ひとつ漏らさない彼女に対してよくここまで付け上がれるものだと思わず感心してしまう。だが、おのれの眼前で妻が泣きそうになっているのを見過ごす俺ではない。名前に約束したのだ、俺が必ず守り通すと。さっと袖で顔を隠した動作に口を開いた。声を上げたのは意外にも名前の方だった。


「――それに私は嬉しいのです。感激しました」


「は?」


これにはさしもの目付け役も瞠目を余儀なくされる。この場に居合わせた人物全員が間違いなく、名前の放った言葉の意図を理解できずに居ることだろう。かく言う俺もそのひとりだった。顔を袖に隠して俯く彼女は、こちらが呆気に取られて立ち竦む様など気づくはずなく。しんと静まった空気にも気づかない名前の独壇場はまだまだ続いた。


「我愛羅がここまで大切にされ、みなから尊敬されていることが心から嬉しくて堪らないのです。彼が『風影だから』だけとするにはあまりにも温かい。それは我愛羅の人となりが真に好かれているからでしょう」


「奥様、何を……」


「先生も我愛羅を大切と思っているからここまで厳しくしてくださるんですよね?」


「え、ええ……。それはもちろんでございます。この里で風影様を尊敬しない者など……」


「はい、はい! 我愛羅はほんとうに良い風影だと私も思います! これは言っていなかったのですが、実は内心いつも不安だったのです。ほら、我愛羅は人柱力でしたでしょう? 今でこそその恐怖はありませんが、当初はそれはもう夜も寝られないほどに、食事も喉を通らないほどに気掛かりだったのです……」


裾から顔が飛び出し、熱意に押されている目付け役に詰め寄る。これほど饒舌な妻を見たことがあるだろうか。いや、初めてだ。沈んでいた声は鞠以上に跳ね上がっており、言葉のひとつも喉から出てこない目付け役は、名前が躙り寄るので一歩後退する。だが今の妻は絶好調そのもの。目付け役の表情の変化など気づくわけもない。下がれば寄り、寄っても尚語ることを止めない。彼女の口から紡がれる気持ちは夫である俺でさえ初めて聞くものばかりであった。最初はらしからぬ饒舌さに驚き、妻の見当外れもいいところな解釈に意識をやっていたが、それも馴染んだ今はその言葉ひとつひとつを受け取って噛み砕く余裕ができた。そんなふうに思ってくれていたのか。俺はつくづく良い妻を持てたものだ。


「何かと嫌っているご様子だった重鎮のみなさまも今では我愛羅に耳を貸していますし、ほんとうに良かった……。――先生!」


「な、なんでしょう……」


「他里のみなさんと比べたら私なんてまだまだ未熟者ですが、どうか見放したりなどせず私にご教授くださいね」


ずいっと身を乗り出して言い切った彼女に、目付け役は引き気味に「わ、解ればよろしいのです、はい……」と、言葉は相変わらずだが、圧倒されてるのははっきりと見て取れる。それまで目付け役に詰め寄っていた名前はばっとこちらに振り向く。牡丹の総柄が鮮やかな着物の裾が円を描くように宙に舞う。


「私、頑張るからね! 我愛羅」


健康的な歯を惜しみなく晒して笑うその顔は、まさに華が咲いたかのように美しく、一瞬にして俺を虜にしてみせる。借りてきた猫のように大人しくなった目付け役を、今度は名前の方が引っ張りながら去っていく。この場に残されたのは背中が消えるまで見送る俺と、同様のテマリだけだった。人の波に消えたのを見計らってから視線を外すと、テマリが感慨深そうに言ってくる。


「凄い嫁を貰ったもんだね、我愛羅」


「――ああ」


腹に悪意を閉じ込めて詰っているなどと、欠片も考えつかないその純粋さからくる名前の不屈の精神には、風影など到底及ぶべくもなかった。何も残っていない俺の心に慈雨を降らせ、とっくに潰れてしまった芽を愛おしみながら育ててくれた名前だからこそ、俺は俺として立って居られるのだろうと思った。帰る際は彼女の好物のひとつでも手土産にしようか。