画像

誤解転じて福を招く



月が映える宵のこと。更ける頃合まで呑んでいた私は、良い酒を片手にマダラの邸宅に訪れていた。深い意味はなく、酒を酌み交わすだけのために。扉間には激しく責め立てられるが、長年の友人と飲むのに時間を鑑みる必要はないだろう。酒で浮かされていた気分が醒めることなんて、少し前の自分は考えてもみなかった。


「里を抜ける……?」


自覚できるほど暗く沈んだ声だったが、眼前で胡座をかく男は平然と「ああ」と言いきった。持った盃に顔を落したせいで髪が仕切りとなり、その表情は伺えない。沈黙は長く続くが、撤回の言葉はついぞ吐き出されなかった。元よりこの男は嘘を吐くような奴じゃない。里抜けすることも、タチの悪い冗談でなく本心なのだろう。焦燥も湧き出るが、マダラという人間を柱間と同様の付き合いの中で理解していたゆえに、ここで自分が異を唱えても効果はないことも、解っていた。朱色に塗られた盃に映る自身のなんと情けないことか。


「そっか。それは……、寂しいな……」


「お前にそんな感情があったとはな」


「不貞腐れるなよ。私だって思うことくらいある」


「あいつが居るだろう」


「あいつって柱間?」


「ああ」


「あのなあ……。そもそもこの里を作ったのはあんたと柱間じゃないか。ずっとふたりでやってきて、私はその後押ししてきて、ようやく叶った矢先にあんたが里抜けなんて、残念に思うよ」


マダラと柱間に出会ったのは三人がまだお互いの姓を名乗れなかった時だった。とは言っても私に彼らのような一族はなく、戦場が日常だったあの時代を生き抜くための術を身に付けていたら忍と並んでいたに過ぎない一般人だ。忍一族に狙われる謂れはなく、同様に姓を隠す必要もなかったが、後々の厄介事を払うために彼らに倣っていただけのこと。紆余曲折はあったが、こうして平和の中で酒の味を楽しめるまでに至ったというのに、何故この男はそれを手放そうとするのか。私にはそれが解らなかった。常々言っていただろう、子を殺さなくて良い世界を作ると。


「お前は何も知らないだけだ」


「なにを?」


「この世界は虚構でしかない。いや、違うな。前座か」


「なに訳の解らないこと言ってんだ」


私にも理解できるようはっきり言えよ、この馬鹿。なんでもかんでもあんたひとりで完結させて、ちっとも頼りやしない。柱間にも私にも。同族のみなにも。いっつも仏頂面で厭世的な言葉ばっか吐いて、そんなんだから同族にも他族にも誤解されるんじゃないか。酒の臭いにも負けないくらいのツンとした刺激が鼻の奥を刺し、視界が波を打つ。馬鹿のせいでせっかくの酒が台無しだ。だけどそれ以上に、ひとりで在ろうとするこの男に憤りを押し留められなかった。ぽつ、ぽつと酒に雨雫を落としては酒の水が跳ねる。悔しい、それが素直に抱いた気持ちだ。


「お前……」


「虚構とか前座とか訳解らないけど、ここにあんたを必要としてる人が居んのになんでひとりになろうとするんだよ、この馬鹿」


「おい、誰が馬鹿だ」


「柱間だって居るだろ。私だって居るだろ。何が足りないって言うんだよ」


「本物の平和を前にして、偽像の世界に固執する理由はない」


「あんたには何が見えてるって言うんだ?」


「言ってもお前には解らないだろうな」


まただ。またこうやって突き放す。あんたも、最近のあいつも、何か思い詰めたような顔してるくせに何ひとつとして吐露しない。いつだって私がその足元で零れてくる欠片を拾い上げないといけない。私を役不足として除外しても、彼らが居るのであれば、甘んじて堪えようと決めていた。そんな柔らかい男だとも思っちゃいないから。だがその我慢も今を以て解き放とうか。これ以上煮え湯を流し込まれて赤べこに徹するなんてできない。


「あんたも柱間の奴も全員馬鹿だ」


弱るどころか本領発揮を見せた涙の勢いを止めるために袖で目を擦る。赤くなろうが構いやしない。盃に揺れていた酒を一思いに飲み干せば、勢いに任せて畳に叩き付けた。


「こっちがどんだけ我慢してきたかも知らないで、挙句マダラは里抜けするとほざくし、柱間は情けない顔で『なんでもないぞ』なんて言うし。どいつもこいつも……」


立ち上がった私を、座っていたマダラは怪訝な目付きで見上げる。射干玉の双眸はやはり深い黒に塗り潰されていて、何を考えてるかんてちっとも読み取れない。私はパンくずをせっつく鳩じゃないんだ。傍に置いた一升瓶を掴むと、上座に居たマダラに詰め寄って突き出した。なんだと言外に睨めつける生意気な姿勢に淀む私ではない。こうなったら長年溜め込んできた鬱憤を晴らしてやる。そしてこの男にはそれに付き合ってもらうのだ。


「呑めよ、マダラ」


「要らん」


「流し込まれたいならするけど?」


「おいやめろ、押し付けてくるな」


「うっさい馬鹿。私はね、あんたが里を作るってあいつと決めた時からあんたらを支えようって決めたんだよ。たとえ私に何も話してくれなくても、あんたらが決めたことなら着いていくつもりなんだよ。なのに里抜けなんて冗談じゃない」


喉元に迫り上がる熱を堪えると声はやはり震えるもので、吃音混じりになってしまうがそれでも伝えたいことは言葉を選ばずに言う気だった。だがマダラは一瞬丸めた目を細めて鼻で笑う。くだらないと一蹴されたかのようだった。


「これからの里は柱間とあの男が担う。俺が居ずとも何も変わらん」


吐き捨てて酒を呷る。糸が切れるとはこういうことを指すんだろうか、そんなことを熱で浮かされた頭の隅でぼんやりと考えた。ここまで言っても尚届かないのは何故だろう。これがもしあの男だったなら。敵だろうが味方だろうが分け隔てなく温もりを与えるあの男であれば、もしかしたら眼前の男を少しは変えられるんじゃないか。鋼鉄に覆われたこいつの一端を溶かせるんじゃないか、そんな淡い期待と悔しさと悲しさが過ぎったが、刹那に最近のあいつの浮かない顔を思い出してそれは違うんだと否定した。柱間でもできなかったのだ、この男の固い意思を変えることは。それを自分に果たしてできるかと逡巡したが、しなければマダラは未練なく去っていくだろう。それはどうしても避けたい。柱間にもマダラにもひとりになってほしくないと思うのは、私の我儘だろうか。それでもいい。友が友を想って、そこになんの間違いがあると言うのだろう。答えが出た時、胸にどくろを巻く靄が一気に晴れていく。


「変わるさ。私が困る。それにひとりになろうとすんな、マダラ」


「お前に俺の何が解る。柱間ほどの力も持たないお前に」


「あいつほどもあんたほども強かないけど、それでもあんたたちと一緒に里を作ってきたんだ。あいつがあんたを必要とするように、私にだってあんたが必要なんだよ。なあマダラ、出て行くなよ……。ここに居てくれ」


装飾のない本心だ。これで変わらないなら諦めるしかまいくらいの本音で、これをどう捉えるかはマダラ次第だけど、もし耳を傾けてくれるなら。盃を構える指に自ずと力が入ってしまい、顔が映る水面が揺れる。あの河原で語り合った懐かしい記憶は、まだ温かみを持って目に浮かぶのだ。柱間の夢も、マダラの夢も、そしてそれに希望を持った自分も色褪せずに覚えている。あの温かさを知ってるから、なかなか諦められないで居るのかもしれないな。かん、と鹿威しの岩を打つ音が聞こえた。鼓膜が麻痺するような沈黙は長く続き、思考はぼうっとしてきた。酒を飲みすぎたかもしれないと解ったのは首が船を漕いでからのこと。マダラの答えはいつだろうと思いながら顔を上げようとしたら、先にあいつの声が降ってくる。


「お前は俺が好きなのか?」


もたげた盃がぴたりと硬直する。ぼやけた思考も鮮明になり、ゆるゆると面を上げてマダラを見遣れば視線がかち合う。鳩が豆鉄砲を食らったような表情のマダラにこちらも思わず息を飲むが、今更な事柄に呆れて肩を竦めた。


「好きに決まってるだろ。じゃなきゃ言わん」


はっきりと断言してやると、マダラは手元に視線を戻し「そうか」と呟いた。染み入るようで、どこか嬉しげにも聞こえたのは、私の願望が魅せた幻惑かもしれないが、そうであれば良いと心の内で思いながら盃を傾けた。


◆◆◆


夜分遅くにマダラの邸宅から帰宅した私は玄関の景色までは覚えているが、それ以降はすっかり抜け落ちていた。目覚めの光景が自宅の玄関であったことからそこで意識を飛ばしたんだろうと推測するが、酒に溺れたからという口実はあの堅物に通じない。軋む全身に鞭を打って支度を済ませ平常通りに任務を受け取りに向かう。受付に行くと同僚に「火影様と扉間様がお呼びだ」と伝えられ、任務へ向かう脚は火影室に急いだ。何かした覚えはないが、もしかしたら昨晩の居酒屋で何か騒ぎを起こしたかもと考え、火影室に近づく都度顔から血の気が引いていく。感知タイプの忍でないしても廊下の先からは柱間だけでなく、私が苦手とする男、扉間のチャクラも感じられるため、とうとう部屋の前に着いた頃には指先まで熱を失っていた。


「私だ、入るよ」


扉を隔てた向こうから「入れ」という扉間の声が返ってきたので開けて入る。里を一望できる景色を背後に、柱間と扉間は居た。入って胸を撫で下ろしたのは扉間のチャクラも、表情も荒立っていないと解ったからだ。しかし険しい色をしている。反対に柱間はそれはそれは嬉しそうに笑っており、普段なら厄介事を招いたなと扉間がこめかみに指を当てているが、今日はどうもそうではないらしい。腕を組み私を見る視線はなんというか、困惑気味だ。そんな彼は初めてで、こちらまで戸惑いが移ってきた。


「どうしたの」


「マダラのことだが」


困惑のままに口を開く。名を聞いて脳を占めていた戸惑いが吹っ飛ぶ。


「あいつが何かしたのか?」


堪らず身を乗り出した。あれほど訴えてもあの男は変わらなかったか、そう思ったからだ。もしかして里を抜けてしまったのだろうか。それか他に何かしたのだろうか。扉間は逸る私を片手を上げて制止させ、首をやおら横に振る。あいつが何かしたわけでないことはそれで察したが、じゃあなんでここであいつの名前が出てくるんだと再度困惑に戻ってしまった。続きを引き継いだのは柱間だった。


「マダラが考えを改めたんぞ」


「えっ」


「しばらくは居るそうだ」


「あ……、あいつがそう言ったのか?」


「ああ!」


にっかりと笑ってみせた柱間に、胸の中でいくつもの思いが弾ける。あの男が変わった。残ってくれると、そう言った。私の言葉に耳を傾けたのか、あの後何があったのかは与り知らぬことだが、それでもあいつが残ると言ったのだ。里抜けしないと。一緒に居るのだと。それだけで十分だ。襲ってくる歓喜と安堵に心が呑まれ、溢れる嬉しさに口元が崩れる。膝まで崩れそうになるのを柱間が手を引いて支えてくれた。


「よ、よかった……。ほんとうに……」


「これもお前のおかげぞ」


「いや、私はなにもしてない。少し話しただけだ」


「――それなんだが」


神妙な面持ちで扉間が入ってくる。どんな天変地異を言われたって驚かないぞ。腹を括って話の続きに傾聴すれば、早々に前言撤回したくなることを伝えられた。


「マダラがお前と祝言を挙げると言っている」


たっぷり一分置いてから滑り落ちた言葉は「宴会のネタ?」という我ながら間抜け極まりないものだった。昨日まで友人だった、いや、今も友人であることは相違ないが、その人物が自身の与り知らぬ場所で勝手に事を進められていると知れば誰とてそうなるだろう。祝言? マダラが? 私と? 何故。訳が解らない、それに尽きる。


「俺は嬉しいぞ。親しい友が幸せになるのだからな。ぜひ大々的に挙げてくれ、またとない晴れ舞台だ」


「いや。いやいや、待ってくれ。何故そうなるんだ」


「なんだ、違うのか? マダラが『ああも熱く言われては折れてやる他ない』と言っていたんだが」


「なんのことだよ」


「好きだと言ったそうじゃないか」


そこでようやく点と点が結び付いた。あれだ、マダラに好きと問われて答えたあれのことだ。それに気づいて今度こそ膝から崩れ落ちる。


「そんなつもりで言ったんじゃないのに!」


あの好きは友としての好きだ。友というか、マダラと柱間に関しては付き合いが長く深い分、後にできたどの友人よりも大切に想ってる節があるが、それでも友という枠は出ていない。自分は常日頃から思ったことは有り体にぶつける性分であったし、下心のない好意をぶつけるのは何もマダラだけではなく、団子屋の娘にも鍛冶屋のおっちゃんも当てはまるわけで。まさかそういう意味で捉えられているとは露も思わなかった。項垂れる頭の上から深い溜息が落とされる。


「だから誰彼構わずそういう類いの言葉は吐くなと言ったんだ」


「だ、だってあいつとは長い付き合いだし知ってると思ってたんだよ!」


「向こうはお前と夫婦になるつもりで居るぞ。どうするんだ」


「どうもこうも、ほんとのこと言うしかないだろ……」


「ワシとしてはマダラが敵にならぬのならいっそ家庭を持てばとも考えているが」


「いや、私はあいつをそういう目で見ては」


「それがいい! さすが扉間ぞ」


「はあ? 何を言うんだよ柱間」


目を輝かせて扉間の案を讃えているが、要は私にマダラの軛役を押し付けたいだけだろう。それは普段の彼の言動から解ったが、解らないのは柱間の方だった。私の「好き」を鵜呑みにしなかったこいつまで何をほざくのやら。


「魚心あれば水心と言うだろう。お前たちなら互いを理解し、支え合える良い夫婦になれるぞ」


「馬鹿かお前は」


確かにマダラは私にとって必要だし、居てくれなきゃ困る存在だが、それは柱間も同様なわけであって、このふたりのいずれも欠けてはならないものという認識があるからだ。決して色恋沙汰のそれではない。柱間の馬鹿に呆れて、今日はこの件でマダラと話し合うということで任務は他の者に回してもらった。柱間は終始なんでぞと腑に落ちない様子だったが、構うもんか。扉間に念を押されて追い出されると、一目散にマダラの邸宅へ飛んだ。稜線を結ぶように立ち並ぶ民家の屋根を飛び移り、そして目当ての家に着く。照り付ける日差しに喘ぎながらも息を整え、飛び込むように家の戸を開いて敷居を跨ぐ。この日当たり具合だとあの場所に居るだろうと踏んで廊下を進み、母屋を一周したところでそこに彼が居ないことを知った。


「どこ行ったんだ、あいつ……」


今日みたいにぬくい日は大体この縁側に座っているが、姿が見当たらない。廊下を曲がって辺りを捜索しても居ない。薄い木陰の下で火照った身体を冷ましていると、どこからか魚の焼かれる香ばしい香りが漂ってきた。すんすんと鼻を使うと、それはどうもこの邸宅からのよう。しかし家主が居ないわけだが、と考えて閃く。マダラが厨に居るのか。だがありえない。だってあいつが台所に立つなんて考えられない。あそこは下女の管轄場だろう。だがここまで探して居ないとなれば、居る場所なんてひとつしかない。なんの心変わりだと驚き半分疑い半分でそこへ顔を出せば、こちらに背中を向けて釜を相手にするヤマアラシのような髪をした男を見つけた。


「何してるんだ? マダラ」


別人であってくれという淡い期待は、名前に反応した男によって砕かれる。振り返った人物はやはりマダラそのもので、その手にはお玉が握られており、ちらりと見えた釜の具材はどれも上手にできていた。友の初めて見る意外な一面に目を剥く私に、マダラは「戻ったか」と平然とした態度で言う。


「早かったな」


「え? ああ、そうだな。あんたと話したいことがあって来たんだ」


「茶でも飲んでかけていろ。じきにできる」


「私の分も作ってくれるのか?」


「当たり前だろう」


何を聞くんだというふうな目線を肩越しに送られては押し黙るしかない。この調子だと屋根を一緒にするのも当然だと言ってきそうだ。扉間のあれは冗談ではなかったか。あの男がそんな俗人とも思えないが。


「お前の好物は知らんのでな、ひとまず無難な物を作ってみた」


「そ、そうか。それは嬉しいが、マダラ……」


話を聞いてくれと続ける前にマダラが振り返る。


「――これからも飯を作ってやる」


そう言ったマダラは息を飲むほどに穏やかな顔をしていて、言わなければと決めていた言葉の一切が胃に戻される。こいつはこんなにも可愛い男だったかと心が揺らいでしまったのは、間違いなく私の方だった。