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天然の策士



※現パロ。








兄さんは俺でも気づくほど鈍感だ。とかく他者から寄せられる好意には、人一倍以上鈍く、憶測だが自分が他者に好かれるとさえ考えつかないのだろう。それに振り回され、落とされてきた女たちを俺はたくさん見てきたが、今回の女はどんな女たちとも違っていた。


「おはようございます、イタチさん!」


「おはようございます」


「サスケくんもおはよ。今日はお兄さんと一緒なんだね」


住居としているアパートの部屋を出た丁度に、隣の扉も開けられる。姿を晒したのは黒スーツをまとった俺よりも歳上の女で、兄さんを見るや否やこちらが胃もたれするほどの明るい表情を浮かべた。持ち上げられた頬の肉が目元の隈を覆い隠そうとするのが見て取れ、こいつはいつ寝てるんだろうと一瞬脳裏を過ったが、らしくないとかぶりを振って掻き消した。何故俺が隣人の心配をしないといけないんだ。与太話を繰り広げるふたりを一歩後ろから眺める。他愛ない話をしていたが、そんな折に彼女が片手を兄さんに向けた。


「これ、良ければ頂いてもらえませんか? 昨日の晩作りすぎてしまって余らせていたんです」


「まだ癖が抜けないんですか?」


「お恥ずかしながら……」


手に持っていた風呂敷を兄さんは苦笑しながら受け取り、指摘されたことに彼女は頬を掻きながら肩を縮こまらせた。彼女は時たまこうして料理を分けてくる。曰く「出ていった彼氏のせいで作りすぎてしまう癖が抜けない」とのことで、事情を知っている兄さんは助かると言って貰っている。格段美味いわけでもないが舌に乗せられないほど下手というわけでもないので、自分としてはどうでもいいが、兄さんが好む味付けを、きっちり俺と兄さんの二人分を余らせるあからさまな行動を信じきっている兄さんには、一言言いたくなる。前回は和菓子に挑戦したから味見してほしいという名目でおはぎを渡された。ちゃっかり名前呼びまでしてること含め、いい加減気づけよ兄さんと言いたいが、言ったところで「隣人の親切心なのだろう」と片されるのが目に見えているので、今日も俺は目の前の光景を流し見することに徹する。


「イタチさんってお昼何かご予定とかありますか?」


「いえ、特には」


「お昼ご一緒しませんか? あっ、店はイタチさんにお任せしますので」


「弁当があるので遠慮します」


「じ、じゃあ夜は……」


「夜はサスケと食べるので空いていないです」


これにはさすがに肝の温度が下がった。ことごとく切り捨てられて、彼女の顔色の明度が下がる。兄さんを食事に誘うのはこれが一回目ではない。祭り事は当然として、映画や美術館などにも彼女は意欲的に誘ってくる。これを入れて三十回目の試みだが、やはり汲み取られることは叶わず、今日も「弟想いのお兄さんですね!」とこちらが引き攣ってしまうくらいの痛々しい笑みを貼り付けて聞き慣れたフレーズを口にした。当初はどうでもいいという感想すら抱かないほどに無関心だったが、こうも鈍感な兄さんに奮闘する姿勢を見せつけられると、胸中に湧くものがある。今回だけ背中を押してやるか。


「食事くらい行ってやれよ、兄さん」


今までふたりの会話に口を開いたことがない俺の初めての割り込みに、兄さんも彼女も言葉が止む。だが俺の言葉を聞いた彼女は、こちらの味方だと思い込んだようで、沈痛な面持ちに一点の光が射し込む。兄さんは険しい色を浮かべて、硬い声音を発した。


「ダメだ。お前を夜遅くにひとりにさせるわけにはいかない」


「俺は純粋でもなければ子供でもない」


「夜ご飯はどうするんだ」


「それくらい作れる」


「火を扱ったことないだろう。火傷したらどうする」


「執拗いぞ兄さん。俺をガキ扱いするな」


「許せサスケ、また今度だ」


とん、と額を小突かれて言葉を飲み込んだ。額に手を当てて睨めつけても兄さんの笑みは歪まない。こちらが折れるしかなさそうだと引き下がったところで女の存在を思い出した。我に戻って女の様子を窺い見るが、藁にもすがる思いで俺に託したものの結果が奮わないことにやはり傷ついていた。居た堪れずに視線を外したが、恨むなら俺でなく鈍感すぎる兄さんにしてくれと思った。そろそろ学校に行かなければならない刻限だと気づき、止めた脚を動かす。


「俺は行くぜ」


「あ、もうこんな時間だ。私も行きますね」


「ちょっと待ってください」


俺と兄さんとは真反対の方向へ踏み出した女を止めたのは、意外にも兄さんだった。なんでしょう、と振り返る女の顔は同情してしまうほどに明るくて、心無しか声も弾んでいるような。兄さんは自身の鞄を漁ると小さな箱を取り出す。コンビニでよく売られているチョコレートの箱だった。


「これ、どうぞ」


「えっ、いいんですか? イタチさん、甘い物好きですよね?」


「疲れた時は甘い物と言いますから」


受け取った女はおずおずと兄さんを見上げる。兄さんは返礼欲しさにあげるような人物でないことくらい知っているので女はそのまま鞄に入れるが、兄さんが放った言葉に女は驚愕した。兄さんは自身の目元に指を置き、言う。


「いつもお疲れ様です。今日も頑張ってください、名前さん」


我が兄ながらタチの悪い男だと思った。何十回も誘われて、挙句自身の好物まで把握されておきながら女の好意に欠片も気づかないくせに、目元の翳りにはすぐ気づくとは。しかも女に渡したそれは以前女が自分から話していた好物で、奸詐せずとも喜ばせる兄さんの天然さには舌を巻かざるを得ない。案の定女は目を輝かせながら「ありがとうございます!」と、今日もまた兄さんへの好意を募らせるのだった。