誰よりも恐れたあなたの話


投げやりになったジゼルは、ただ無気力に日々を過ごしていた。

食事が運ばれてきても、手をつけたりつけなかったり。ノゼルが訪れても、反応を示さない。話しかけられても、ただぼんやりと虚空を見つめるだけ。

何をしても無駄なのだと悟った。
何を言っても、この兄は自分を手放さない。
何を願っても、この檻は壊れない。

——ならば、考えることに意味はない。

ノゼルは、そんなジゼルを見ても何も言わなかった。

ただ、静かに彼の隣に座り、櫛を手に取る。

「……少し、髪が伸びたな」

細く、美しい銀髪。以前は自分で手入れしていたのに、今はただ伸ばしっぱなしだった。

「……」

「食事は? 今日は少しでも食べたのか?」

「……」

ジゼルは答えない。

それでもノゼルは、淡々と手を動かし続けた。

髪を梳きながら、ぽつりぽつりと話し始める。

「ネブラは、最近少し背が伸びた。もうすぐお前の身長を越すかもしれない」

「ソリドは相変わらずだが、剣の腕は少し上がったようだ。まだまだ甘いがな」

「ノエルは……」

ふと、ノゼルの手が止まる。

「……」

「お前がいない間に生まれた妹だ」

ノゼルはそれ以上何も言わなかったが、ジゼルはかすかに息を吐いた。

(僕がいない間に……)

(世界は、普通に動いているんだな)

他の兄弟が成長し、自分だけがこの部屋で時を止めている。

ノゼルはジゼルの肩に手を置いた。

「……いつか、お前も会える」

その言葉に、ジゼルは何も返さなかった。

ただ、虚ろな目のまま、ノゼルの話を聞き流すように聞いていた。

◆ 16歳(焦燥と渇望)

——戦況が悪化し始めた。

王国の防衛線が脅かされ、魔法騎士団は戦力の増強を迫られた。

その影響で、ノゼルの帰還が遅れることが増えた。

以前なら、どんなに忙しくとも魔法で帰還し、ジゼルの元を訪れることを欠かさなかったノゼル。

けれど、今は——

「……」

部屋にノゼルが来ない夜。

食事だけが運ばれ、静寂だけが支配する。

それでもジゼルは、特に何も思わなかった。

——何を思えばいい?

感情など、とっくの昔に手放してしまった。

ただ、ほんの少しだけ。

ほんの少しだけ、何かが心に引っかかった。

(兄様が来ない)

それは「寂しさ」なのか「不安」なのか、自分でもわからなかった。

◆ 初めての夜

そして、その日が来た。

戦場から戻ったノゼルが、久しぶりにジゼルの部屋を訪れた夜。

「……ジゼル」

疲れた表情で、ノゼルは扉を開ける。

「……」

ジゼルは、ただ彼を見つめた。

ノゼルが近づき、何も言わずに髪を梳く。

「……兄様」

ふと、ジゼルが呟いた。

それは久しぶりに発した言葉だった。

ノゼルは目を見開き、すぐに穏やかに微笑む。

「……お前が話してくれるのは、久しぶりだな」

「……」

ノゼルは静かにジゼルの頬に触れた。

「ずっと、お前の声を聞きたかった」

それは優しい手つきだった。
まるで壊れ物を扱うように。

ジゼルは何も考えず、その手に身を預けた。

ノゼルの唇が、そっと触れる。

「……っ」

熱を帯びた感触。
それはほんの一瞬だったはずなのに、妙に長く感じた。

唇が離れた瞬間、ジゼルはぼんやりと兄を見上げた。

ノゼルの瞳は、深いものに囚われていた。

「……ジゼル」

「……兄様」

静かに、静かに——二人の境界線が崩れていく。

今夜、二人は一線を越えた。

——それが、ノゼルの狂気を決定づける夜だった。


あさぼらけと一等星