知らない気持ちに戸惑う話
黒の軍の拠点の一室。
日暮れの時間、ジゼルは手元の書類を流し見ていた。
「……兄様は、好きな人はいるの?」
ふと、ノエルの何気ない問いかけが耳に届いた。
ジゼルは書類から目を上げ、対面に座る妹を見つめる。
「なんだ、藪から棒に。恋愛相談なら他を当たれ」
「そ、相談じゃないわ!!ただの世間話というかちょっとした疑問というか……!」
ノエルは顔を蒸気させながら、机に手をついて立ち上がる。カチャリ、と紅茶のカップが揺れた。再び腰を下ろしたノエルは誤魔化すようにカップに口をつけた。
ジゼルは軽く肩をすくめる。何を取り繕ってんだか。ノエルがあの反魔法の小僧に想いを寄せているのは裏社会仕込みの観察眼無しでも分かる。
「で、結局どっちなのよ」
「さあなぁ。ビジネスでならやったことあるけど。そもそも毎日を生きるのに精一杯だったくせに、恋にうつつを抜かす暇ねーよ」
「ふーん……じゃあ誰も参考にならないか。……ノゼル兄様の結婚を待つしかないのかな」
ノエルの言葉に、ジゼルの指がわずかに止まる。
「……そんな話が出てるのか?」
「え……うん。相手が誰とかはまだ決まってないけれど」
「候補者を出して見定め中ってか。贅沢なことで」
努めて平静を装いながら答えたが、心の奥底に引っかかるものがあった。
当然の話だ。
ノゼルは名門貴族の嫡男であり、いずれは家のために適当な相手と結婚する。そうして脈々とシルヴァの血を繋いでいく。
それは幼い頃から決まっていたこと。わかりきっていたことだ。
だが——
「ノゼル兄様、昔こんなこと言ってたわ。『シルヴァ家の長男として、適切な相手を娶る。それが義務だ』って」
ノエルは窓の外を見つめながら、何気なく言葉を継いだ。
「……義務、ね」
ジゼルは苦笑する。
たしかに、ノゼルならそう言うだろう。
彼は常に己の役割を全うする男だ。
「なんだか寂しいわね。好きでもない相手と結婚するの」
ノエルの呟きに、ジゼルは何も言えなかった。
寂しい? いや、そんなことは関係ない。関係ないはずなのに——
なぜか胸がざわつく。
「お前はどうなんだ? 意中の相手とはうまく行きそうなのか?」
「どうかしら、アスタは多分そんなこと考えてな───って何言わせるのよバカ!!」
カカッと笑いながら「悪い悪い」と謝る。誤魔化すにしても酷い方法を用いてしまった。しかしノエルは話を逸らさなかった。。
「兄さまの相手、どんな人になるのかしらね?」
——そんなこと、考えたくもない。
ジゼルは無意識に拳を握りしめていた。
「さあな。……どうでもいいだろ、そんなこと」
「そうね。でも、いざ兄さまが結婚するってなったら……少し、複雑かも」
ノエルの言葉に、ジゼルは鼻を鳴らした。
「お前が複雑な気持ちになるなら、俺はどうなるんだ?」
軽口のつもりで言ったはずなのに、自分の声が妙に乾いていることに気づく。
「……ジゼル兄さま?」
「なんでもねえよ」
苦笑して、視線を逸らした。
ノゼルが結婚する。
それは当然のこと。
シルヴァ家のための義務。
何もおかしくない。
——なのに、なぜこんなにも、胸が締めつけられる?
それが何の感情なのか、ジゼルは自分自身でも分からなかった。