星に願う話
ノエルは、扉の陰に身を潜めていた。
息を殺し、気配を完全に消し去る。
その技術は、魔法騎士としての訓練の賜物だった。
——偶然だった。
たまたま通りかかって、ジゼルの震えた声を耳にしてしまった。
「……なあ、団長。俺、あんたに言ったことなかったよな」
「……俺から、なんだ」
——は?
思考が一瞬、停止した。
「……俺が……誘ったんだよ」
理解するより先に、心臓が冷たくなる。
背筋を這い上がる戦慄。
「俺のせいなんだ……こんなっ……おかしいのは俺の方なんだ……!」
ジゼルの泣き声が響く。
ノエルは、それを信じたくなかった。
けれど、どうしようもなく耳に入ってしまう。
ヤミが何か言っている。
だけど、その内容はもはや頭に入らなかった。
(ジゼル兄様が……? でもだとしたら辻褄が合う、合ってしまう)
想像したくなかった。
けれど、してしまった。
あの二人の関係の異様さは知っていた。
ノゼル兄様がジゼル兄様を閉じ込めて。外に出さず、他者と関わらせず。そしてあまつさえ兄弟の関係さえも越えて。
ずっとそうだと思っていた。狂ってしまったのはノゼル兄様の方なんだと。
けれど、それが。
(そんな……そんなことがあっていいの?)
ノエルは、息を詰まらせた。
部屋の中から聞こえてくるジゼルの泣き声。
「……どうしたらいいんだよ……」
震えていた。
「どうすりゃいいんだよ……」
すがるような声だった。
ああ、そういうことなのだ。
——ノゼル兄様が、強要すれども尊重するのは。
——ジゼル兄様が、拒絶すれども拒まないのは。
「っ……」
理解した瞬間、ノエルはその場を離れた。
もう、聞いていられなかった。
心臓がうるさいほど鳴っている。
足音を立てないように、静かにその場を去る。
走り出したい気持ちを、この場から離れたい気持ちを必死に抑えながら。
(知らなかった……こんなこと……)
気付いてしまった秘密が、ノエルの心を乱していく。
「はぁ、はぁっ……ジゼル兄様が……始め、た……?」
自室に戻ったノエルは、椅子に腰掛けたまま、呆然と天井を仰いでいた。
(兄様が無理矢理……そうじゃ、なかったの……?)
ずっと、そうだと思っていた。
ジゼル兄様はノゼル兄様に閉じ込められ、拒絶しても聞き入れられず、力で押さえつけられたのだと。
けれど、今聞いた事実は——
「……兄様の理性を壊したのは……ジゼル兄様の方……?」
手のひらに爪を立てる。
信じられないような気持ちと、納得する気持ちが入り混じる。
確かに、ジゼル兄様はいつも兄様を拒絶しながら、それでも惹かれているようだった。避けて、無視して、交流を断絶することだってできたのに会えば必ず言葉を交わした。
ノゼル兄様も、あんなにも執着しているくせに、無理やり連れ帰ることはしなかった。ジゼル兄様の拒絶に痛ましい表情を見せることもあった。
それはきっと——
(兄様たちはきっと……互いに……)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……なんで、こんなことに……」
ジゼル兄様はノゼル兄様を嫌っていた。
ノゼル兄様の執着、気色悪い、おぞましいとよく話していた。
自由になりたい、あの人がいないところに行きたいとも言っていた。
なら、どうして?
どうして、自分からそんな関係を?
自問自答の末にノエルは、ひとつの答えに辿り着く。
——それでも、ノゼル兄様が好きだったんだ。
ノゼル兄様にとってもそうであるように。
苦しめられ、束縛され、監禁されても。
ジゼル兄様にとって、ノゼル兄様は特別だったのだ。
だから、そばにいた。
だから、関係を持った。
だから、今も離れられない。
「……バカみたい」
ノエルは、ぎゅっと目を瞑った。
「こんなの、ただの地獄じゃない」
どちらも傷ついて、どちらも救われなくて、それでも互いを求め合う。
そんな関係を続けて、何が残るというのか。
(……壊れちゃう。二人とも……)
それなら、もういっそのこと。
……でもきっと、そうはならない、なれないのだろう。
だから、願う。元の姿には戻れずとも。
どうか、どこかでこの呪いが解けますように。
どうか、どこかで二人が解放されますように。
「……本当に、バカ兄様たち……」
ノエルの呟きは、夜の静寂に溶けて消えた。