幼稚な愛(煉獄杏寿郎)




ほっそりとした指がフワフワと頭上を滑る。
目線を上げれば優しげに微笑む彼女と目が合う。
嬉しくなって頬を緩ませればつられたように満面に笑みを浮かべてくれる。
そんな彼女が好きでたまらなかった。可愛らしく、綺麗で、どこか寂しさを感じるような、優しい人。大切な人。
彼女とずっと共にありたいと、持て余した感情の意味も分からずに漠然と思った。



煉獄邸から歩いてすぐの場所に彼女とその一家は住んでいた。
一家と言っても彼女が生まれてすぐ母上は亡くなられてしまった為、父上との二人暮らし。しかしその父も勤めで家を空けることが多く、そんな彼女が煉獄家に度々訪れてきたのは必然であったように思う。
母の病状が悪化してからは彼女がよく家に来て家事を手伝ってくれていた。
くるくると働いて周り、たまに台所に千寿郎と顔を出すと、鈴を鳴らすような綺麗な声で笑いおいで、と手招きをしてくれる。その日の夕食のおかずを一口ずつ匙ですくって味見と称したおやつをくれるのだ。母とはまた違った味付けと割烹着が年の差を感じさせその時は姉というよりも母を見ているような気分だった。

母がいなくなってからも彼女は時たま顔を出し家事をし、話をしてくれた。
流行のお伽話。
緩やかな子守唄。
母の記憶が殆ど残っていない弟にとっては本当に母のようであっただろう。
母とは思えなかった。姉のようであったが憧れにも似たそれが何かは分からなかった。
対等になれたら良いのにと思うこともあったが、片手に収まるほどの差でしかないその数年は確かな壁であった。
彼女の瞳に写る俺達は弟でしかない。
昔からずっと。今も。


父が抜け殻のようになっても鬼殺隊の最終選別を生き残るためにただ鍛錬を続けた。
成長した千寿郎と共に家事の多くを覚えた。
家の中の多くが移ろい、季節が巡り世間が変わった。
多くが変化していく中で、彼女の態度だけが変わらない。
最も、彼女自身は変わっていた。
可愛らしい少女であった見た目は女性としての美しさや上品さを含むようになった。
昔以上に帰らなくなった彼女の父上に代わり、家事の合間に家で内職をするようになった。初めこそ白い指先に刺し傷を作っていたが数ヶ月も経つ頃には傷がなくなり、彼女の家に仕事を持ち込む者も見かけた。
その頃から忙しさゆえか、鍛錬の邪魔にならないようにとの気遣いからか、彼女の方からは煉獄邸に訪れなくなった。
それでも、彼女の態度だけは変わらない。


鬼殺隊に入隊すると任務に追われ、ますます会う機会が減った。
時たま家に帰っては千寿郎から彼女の話を聞くという日々が続いた。そんな様子を見かねてか帰ると便りを出すと千寿郎は彼女を家に招いておいてくれるようになった。
年々美しくなる彼女に焦る心がなかった訳ではない。ただ、年頃の娘であるはずの彼女に浮ついた話の1つもなかったことで安堵していたと言われればそうであったように思う。
いつまでも彼女は変わらないと思っていた。
近所に住まい、誰のものにもならず、時折会っては他愛ない会話をする。いつまでもそうあれると何故か思っていた。
実際、変わらなかったのは彼女の態度だけであったというのに。


柱になった。これからは更なる激務に追われることになるだろうと予測できた。
柱になり、認められ、やっと自分が少し大人になったように思った。
その日、鬼殺隊に入隊してからは初めて、彼女の家を訪ねた。少し彼女に近づけたことを報告したかったのだ。
目当ての彼女はすぐに見つかった。玄関先で誰からのものか、文を見つめながらぼんやりと立っていた。
傾き始めた日の光に照らされながら佇む彼女を何故か遠く感じる。折角近づいたと言うのに、貴方はまた離れていくのか。

「杏寿郎くん?」

懐かしく変わらない声が名前を呼ぶ。

「お久しぶりです!」
「本当に久しぶりだね、珍しいね杏寿郎くんがこっちにくるの。どうしたの?」
「柱になりました」

形の良い瞳を大きく見開き、一瞬呆けた顔をした彼女はすぐに満面に笑みを浮かべた。その表情だけで心が満たされていくのを感じる。

「凄いね!そっかぁ、柱に…偉いね、頑張ったんだね」

そう言って背伸びをして頭に手を伸ばしてくる。
とうの昔に追い越した背を少し屈めるとほっそりとした指がフワフワと頭上を滑る。あぁ、変わらない感覚だ。昔から変わらない、

「これで私も安心して出て行けるなぁ」


…なんだ。
彼女は、今、なんと言った。
そう言えば手に持っていた文が普通のものにしては紙が上質すぎやしなかったか。
まさか、

「お見合いの話がきててね」
「…お見合い」
「向こうは私のことを知ってるみたいで、折角だから会ってみないかって言われてるの」

何が変わらない≠セ。
こんなにも美しくなった彼女が、変わっていないはずがないではないか。
変わらなかったのは、いつも、1つだけで、

「行かないで下さい」
「え?」
「そのお見合い、断って下さい」
「杏寿郎くん、寂しいと思ってくれるのは嬉しいけど、私だってこれ以上は流石に遅れすぎだわ」

いつもの調子でころころと笑う彼女にこれほどの激情を覚えたことはない。
ただ、今引き留めなければ取り返しの付かないことになるのは分かっていた。今を逃せば彼女はきっと、もう2度と手に入らない所へ行ってしまう。嫌だ、そんなことにはしたくない。

「好きなんです」
「っえ…」
「貴方が好きです、愛しています、誰より」
「まっ、待って、違うわ…きっとそれは親愛よ」

違うものか。ずっと貴方を見てきたのだ。ずっと貴方が欲しかったのだ。
間違うのはずがない。

「杏寿郎くん、」
「貴方にとって、いつまで俺は、杏寿郎くん≠ネのですか」

何かを言いかけた彼女の言葉に長年の想いを被せた。ずっと、言いたかったことを。
彼女の口から言葉にならないなにかが漏れ出た。
きっと今自分は酷く恐ろしい顔をしているのだろう。憤怒と嫉妬と焦燥と、もう言葉には出来ないほどのなにか禍禍しい感情が体中を駆け巡る。
ずっと貴方が欲しかったのだ。
昔から感じていたこの想いは確かに恋慕だったのだ。
言葉にしてしまえばもう隠す術などない。
到底諦められるようなものでもないのだ。
何年貴方を見てきたと思っている。
何年貴方の努力を見て、
何年貴方の我慢する姿を見て、
何年貴方の優しさに触れたと思っている。
何故突然出てきた何処のものとも知れない男に譲らなければならないのだ。
こんなことは許容出来ない。
渦巻く鉛のような感情を抑えるために、心の中で思いつく限りの罵詈雑言を見たこともない恋敵に向ける。こんな感情は知らない。守るべき者に向けるものとはかけ離れたものだ。
それでも止められないのは弱さだろうか、あるいは本能か。

「俺が怖いですか」
「杏寿郎くん、わたしは、」
「貴方が他の男のものになるなんて許せない」
「わたし、」
「俺の方が貴方を理解しています。俺の方が貴方を幸せに出来ます」
「あなたに、釣り合わないわ」

頭を何か大きなもので殴られたような衝撃が走る。
この人は今、何を言ったのだ。

「貴方は柱よ、鬼殺隊の、柱なのよ…?
貴方よりも年上の、こんな、なんの取り柄もない女よりも…もっと若くて優しくて才覚のある女性が…いるはずよ」

信じがたい言葉を連ねながら震える目の前の女性が酷く哀れで愛おしく思えた。
こんな事を考えていては彼女は一生幸せになどなれやしない。
俺が、

「どうか考え直して、瑠火さんに頼まれたのよ、杏寿郎くんを導いて欲しいって、少しでも幸いに向かうようにって…私と一緒になっても幸せになんてなれないわ」
「貴方以外の妻などいらない」

使命を全うするようにと俺には言った母がささやかに幸せを望んでくれていたとするのなら、貴方を手に入れる以上の幸いが今の自分にあるとは思えない。それほどまでに秘めていた恋心はもう制御出来なくなっていた。

「俺の幸せを願うなら俺のものになって下さい。それが俺にとっての一番の幸いです」

なんて狡い言葉だろうか。彼女の大切な思い出と約束を盾にした、姑息な手段。
だが、もうなりふり構っていられない。欲しくてたまらないのだ。渡したくない。
どうしようもないこのドロドロとした黒い感情を消せるのは貴方の他にいないのだ。
ずっと変わらなかったものは、今も変わらないままなのだろうか。
ずっと変えたかったもの。
唯一、貴方の嫌いなところ。

「貴方にとって俺は、ずっと弟でしたか」
「…いいえ」

俯いていた彼女が顔をあげ、目が合う。やけに凜とした声が暁に響いた。
悲しむような、でもどこか清々しいような顔をしていた。頬が赤らんでいるように見えるのは夕暮れのせいだろうか。
目尻に浮かぶ涙を見ながら、こんな美しい生き物がいて良いものだろうかと夢を見るようにように思った。

「心まで貴方の姉であったなら、私は貴方を欲しがったりしなかった」



自分の喉の奥から、言葉にならずに漏れ出た音が、酷く遠いものに感じた。