伏黒恵の弟は(前編)

禪院颯、それが僕の名前だ。

小学生の時僕はこの家に引き取られた。
双子の兄と五条さんに手を引かれて、その時初めて僕はこの家に足を踏み入れた。

五条さんと禪院家のおじいちゃんが話し合いをしているのをぼんやり眺めていた。兄である恵くんが僕の手を握って放さなかったのを今でも覚えている。
恵くんは頭がいいから、二人が話している内容を聞いて理解していたのかもしれない。僕にはさっぱり分からなかったけれど。

帰る時、僕の手はおじいちゃんが握っていた。
五条さんと恵くんがこの家から離れていく。恵くんが暴れてこちらを振り返ろうとしているのが見えた。五条さんがそれを宥めて、僕の耳元で囁いた。「必ず迎えに行くから待ってて」と。
そして暴れる恵くんを抱えて僕から離れていった。
僕は状況が理解出来ずにニコニコ笑って手を振っていた。そして置いていかれた僕の頭をおじいちゃんが不器用に撫でてくれた。

後から知った話だが僕は父親に売られたらしい。
正確には僕と恵くんが、だ。
けれど五条さんがそれをどうにかしようとして、恵くんだけが五条さんに引き取られた。
恵くんは禪院家の相伝術式らしく、五条さんも禪院も手離したくなかったらしい。けれど僕が禪院家に入るなら恵くんは五条さんの元にいていいという約束をしたそうだ。僕は誰にも必要とされなかった。




「可哀想やな、皆にほかされて。俺が可愛がったるで」
そう言って僕の面倒を見てくれたのが直哉くんだった。直哉くんは痛いことも酷いこともするけれど、この家で一番一緒にいてくれた。
一緒に寝てくれるしお風呂にも入ってくれた。




「お迎え来いひんね。やっぱし悟くんも颯ちゃんのことはいらへんのやろうなぁ」
そんな直哉くんの言葉に驚き、顔を上げる。
だってあの時五条さんから言われた言葉を僕は誰にも言ってない。
直哉くんにも言ってないのに、五条さん以外知ってる人はいないはずなのに。
「悟くんね、颯ちゃんが雑魚やから見込みがあらへんって言うとったで。恵君がおったら颯ちゃんはいらへんのやろうね」
「嘘だッ」
だって頑張って強くなったら恵くんとまた一緒に居られると思ったのに。五条さんが迎えに来てくれるって言うから頑張ったのに。

この家の人達は皆、僕の代わりに兄の方が来てくれれば良かったのにと言うけれどそれを直哉くんは言わなかった。
「颯ちゃんやさかい可愛がっとるんやで。颯ちゃんやないと俺は嬉しないなあ」
いつもそう言ってくれた。直哉くんはいつも僕の味方でいてくれた。僕を捨てたりなんかしないと言ってくれた。恵くんも五条さんもお父さんも僕なんかに興味無いのに、直哉くんだけは僕を見てくれた。
必要としてくれた。



「颯ちゃんはこんなんも倒せへんの?雑魚やなあ。俺が見とってあげるやさかい。ほら祓うてみ」
呪霊の前に連れ出されたかと思うと直哉くんは僕にそう言った。ほらほらと背中を押されおずおずと前に出る。

その瞬間飛び出してきた呪霊に驚き、思わず直哉くんの背に隠れてしまった。
「何しとんねん?俺の言うこと聞けへんの?またほかされてもええの?」
直哉くんに捨てられる、その言葉に慌てて飛び出る。直哉くんにだけは嫌われたくなかった。
呪霊の祓い方はもう習った。練習の通りにやれば大丈夫。


「最初からそなら俺も苦労しいひんのに、余計な手間掛けさせんといてや」
褒められなかった。頑張って呪霊を祓ったのに。
「きっと恵君はもっと上手に術式を使うで。颯ちゃんはほんまに雑魚やな」
「…恵くんとは違うもん」
「ほんまにね。恵君は出来がええから五条家に、颯ちゃんは出来悪いからうちに来たんやもんね」
「…」
「皆にほかされてほんまに颯ちゃんは可哀想やなぁ」

僕は可哀想なんだ。皆が僕を必要ないって言うから、僕はいらない子で可哀想なんだ。
直哉くんは、直哉くんだけは僕を愛してくれる。
なのに恵くんが優秀だから、直哉くんまで恵くんを褒める。僕には直哉くんしかいないのに。恵くんはもういっぱい持ってるのに。


欲張りな恵くんも嘘つきな五条さんも皆嫌いだ。



◇◇◇◇◇◇

東京校と戦う際、加茂先輩が恵くんを「宗家よりも出来がいい」と称した。視線は真依さんを向いていたが、暗に僕も含まれているのが分かった。
数年振りに会う恵くんは大人びていて、僕とは大違いだ。恵くんが何か言いたげに口を開いたが、何も言わずにそのまま黙ってしまった。

五条さんは僕の方を一度も見ることは無かった。

恵くんは嫌いだ。僕が欲しいものを全部奪っていった。今回恵くんを倒せたら直哉くんが褒めてくれるという。
宿儺の器なんてどうでもいい。ただ恵くんを倒す。それだけだ。
もう無駄な期待なんてしない。



┈┈┈┈┈

「恵お前、最後に彼奴に会ったのいつだ?」
「…あの日以来会ってないです」
二人の会話に首を傾げる。
「彼奴って?」
俺が思わずそう聞くと、伏黒は苦虫を噛み潰したような顔で「弟だ」と答えた。
「「弟〜〜ッ?」」
つい釘崎と叫ぶ。伏黒が兄だというのが想像できない。何となく一人っ子か、末っ子のイメージだ。
「え、もしかして京都校にいる感じ?」
このタイミングで聞くということはそうなんだろう。けれど一応尋ねてみた。
「ああ。小学生の時から会ってねえけど」
「何それ」
釘崎が引き攣った顔で言った。

「俺は五条先生に引き取られて、颯は禪院に引き渡された」
「引き渡された?」
「悟が颯より、相伝を持った恵を選んだってことだ」
俺の疑問に禪院先輩が答えた。
「五条先生は颯も助けるって言ったのに!」
伏黒が叫ぶように言った。
酷く後悔しているような声音だった。


「どうする?恵が相手する?」
「…無理です。俺のせいで苦しんでる颯に手は出せません」
──すみません
パンダ先輩の提案を伏黒は申し訳なさそうな顔をして断った。

「あ、それなら問題ないぞ」
禪院先輩がこともなげに言い放つ。
「え、何で?先輩がやんの?」
「いやそうじゃなくて。今は知らないけど、彼奴人間とか人型の呪霊に手出せねえから安心していいと思う」
「なら楽勝ね、見つけた人が相手すればいいわけだし」
禪院先輩から放たれた事実に驚くが、確かに釘崎の言う通り“楽勝”だろう。
考え込む伏黒の表情がやけに気になった。




┈┈┈┈┈┈

楽巌寺学長が両面宿儺の器を殺せと命じた。
怖いと思う。平気で人を傷つけられることが。

あの家では暴力が罷り通っていた。姉と兄と三人で暮らしていた僅かな期間だけが僕の平穏だった。
直哉くんは好きだけど、怖い。
直哉くんに嫌われるのはもっと怖い。
もう僕には直哉くんしかいないから。

宿儺の器を殺すのも、恵くんを倒すのも怖い。
恵くんなんて大嫌いだけれど、暴力は嫌だ。けれど直哉くんが褒めてくれると言うから頑張るしかない。今度見限られたら僕の居場所がなくなることはわかっている。
でも人に殴られるのも蹴られるのも痛くて辛くて哀しい。それを誰かに向けなければならない。
ぐるぐると思考が回る。でもとだっての堂々巡りだ。

「ほら行くわよ」
真依さんに声を掛けられ、思考を正す。

両手で頬を叩く。大丈夫。
僕は恵くんに勝って証明しなければ。僕の価値を。




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