伏黒恵の弟は(後編)

東堂先輩のお陰で宿儺の器を殺さずにすんだ。どこか安心している自分がいる。

「宿儺の器はあの馬鹿が何とかするだろうし、颯は呪霊でも狩ってなさいよ」
真依さんにそう言われ、大人しく言うことを聞くことにした。恵くんを倒さなければいけないのだけど、加茂先輩が無駄にやる気だし、真依さんは真希さんと戦いたいみたいだし。
楽な方に逃げた気もするけど、理由を話せばきっと直哉くんも分かってくれるはずだ。分かってくれるといいなあ。


ふと背筋が凍るようなゾクリとした不安が駆け巡った。
僕にはわかる。とても強力な呪霊がこの近くにいるのだ。呪霊の探知能力に関して僕の右に出る者はいないだろう。
怖い。逃げたい。怖い。

けれど恵くんに何かあったらと考えると逃げるという選択が出来なかった。
ここには真依さんも真希さんもいる。
皆に伝えるか?いやそれより呪霊の足止めをしなければ。姉妹校交流会は監視されているから先生たちも気づいているはずだ。
この呪霊を倒せたら今度こそ直哉くんは褒めてもらえるかな。
五条さんも迎えに来てくれるかな。


┈┈┈┈┈

狗巻がその呪霊を認識したとき、傍にはボロ雑巾のように打ち捨てられた禪院颯の姿がそこにあった。
「ッしゃけ!」

その姿を見た狗巻は思考を巡らす。
そして一瞬のうちに判断した。ここで彼を連れて逃げるよりもこの呪霊から引き離す方が先だと。
そして距離をとった先で仲間たちと合流し、呪霊との交戦が始まった。


途中で気を失った狗巻だったが、西宮に運ばれる中僅かに意識を取り戻した。それは禪院颯の存在を誰かに伝えなければという使命感によるものだったのかもしれない。そしてそれは確かに西宮へと伝わった。
加茂と狗巻を運び終えた彼女は颯の元へ向かう。真依とはまた違う禪院家の被害者。思うところが無いわけではなかった。

そこに辿り着き彼の姿を視認した時、西宮は言葉を失った。あまり長いとは言えない付き合いだが、彼がここまでボロボロになった姿を見たことがなかったのだ。臆病で小心者の颯が何故こんな姿になっても逃げなかったのか。それが西宮には分からなかった。

┈┈┈┈┈

東京校の勝利で幕を閉じた姉妹校交流会だったが、大団円では終われなかった。
禪院颯が一向に目を覚まさないのだ。
彼を家入に託し、庵は生徒を連れ東京を後にする。
五条や恵のいる東京校に置いていきたくはなかったが、他人に反転術式を行使できる家入の存在はあまりにも大きかった。



颯の眠る部屋に一人の男が入ってきた。
「颯、強くなったね」
そう言って未だ目を開けない颯の頬をするりと撫でると、やがて彼の腰に縋り付いた。
「…ごめん。ごめんね。怖かったでしょ。でもね颯。無理に立ち向かわなくても良かったんだよ。逃げても良かったんだよ。臆病なくせに頑張っちゃってさ」
男は、五条は颯があの家でどんな扱いを受けていたのか知っていた。真希に全て聞いたのだ。
どれだけこの子をあの家から攫ってやろうと思ったか。しかし約束を反故にすると割を食うのは五条ではなく恵だろう。
恵のために五条は颯を捨てた。そうするのが最善だと思っていた。そう思いたかった。

今の颯にあの頃の面影はない。恵とは正反対で無邪気に笑っていた颯を五条が殺したのだ。
「もう待たないでいいよ。ごめんね」
それは訣別の言葉だった。

男は部屋を出ていった。
意識の無いはずの颯の目から一筋の涙が零れ落ちたことには誰も気が付かなかった。

┈┈┈┈┈

これは夢だ。幸せだったあの頃の夢だ。
夢の中では僕とお姉ちゃんと恵くんの三人で一緒にご飯を食べていた。僕の嫌いな人参を恵くんが食べてくれて、お姉ちゃんに怒られて。
でも僕が頑張って食べると二人は褒めてくれたっけ。偉いね、凄いねって。
恵くんは口下手だからあまり褒めたりしないけど、僕よりちょっぴり大きくて暖かい手で頭を撫でてくれた。

五条さんと会ったのはそれからすぐ後だった。
1ヶ月くらいしか一緒にいなかったけど、一緒に泥団子を作ってくれた。ツルツルにする方法を教えてあげると、僕より楽しそうに作ってた。
人に何かを教えるのが初めてだったから、楽しそうな五条さんに僕も嬉しくなって沢山作ったんだ。
五条さんが落として割れちゃったけど、それすら面白かったなあ。


お姉ちゃんが口を開く。
「颯はいらない子ね。残ったのが恵で良かった」
恵くんも
「俺の弟が出来損ないで恥ずかしいんだよ」
五条さんも
「お前なんか迎えに行かないよ。雑魚だしね」

直哉くんは褒めてくれるよね。僕頑張ったんだ。
「役に立たん癖に何言うとんねん」

何で。僕逃げなかったのに。怖くて怖くてたまらなかったのに。それでも頑張ったよ。
何で誰も僕を褒めてくれないの。


──「もう待たないでいいよ」
それは確かに五条さんの声だった。ずっと待ってたのに。心のどこかでは五条さんがいつか迎えに来てくれるって思っていた。そうでもしないと苦しかった。
どうして。何で僕じゃ駄目なの。
ずるいよ恵くん。

┈┈┈┈

「颯ちゃん、迎えに来たで」
男は颯に繋がるコードを全て外すと、彼を抱き上げた。
「こんなもんに繋がれて可哀想に。颯ちゃんは俺とあの家におる方が幸せやのになぁ」

「な、んであんたがここに?」
恵が颯の様子を見に行くとそこに一人の男がいた。
隠しきれない動揺を何とか抑え込み、警戒しながら尋ねる。
「何でもなにも颯ちゃんは俺のやし。取り返しに来ただけやで」
颯の所有権は確かに禪院家だ。恵は何も言えなくなり口を噤んだ。
「それに颯ちゃんは色々と都合がええねんなぁ。ほら女とちごて孕まへんから」
男の言葉に恵は頭に血が上るのを感じた。
「颯に何したんだよ!」
「何ってわかるやろ?颯ちゃんは別嬪でよかったなぁ」
それは殺意だった。恵は目の前の男を殺したくて仕方なかった。
「…なら俺がそっちへ行けば颯の代わりになりますか」
どんなに弟が辛かったか。苦しかったか。それを思うと自己犠牲も厭わなかった。
「恵君は嫌やわ。相伝も持ってへん颯ちゃんやから可愛いのに」
「なら!颯に何もしないで下さい。これ以上弟を苦しめないで下さい」
「それはできひん相談やね。それになあ、悟くんはもうとっくに颯ちゃんのこと諦めとるで」
息を飲む恵に対し、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる男。
「可哀想やね。颯ちゃん。誰からも愛されず利用されて、飽きたらぽいとほかされて」
恵は男をキッと睨みつけて部屋を後にした。このまま男と会話を続けても煽られるだけだと理解したのだ。



颯を抱えた男は帰路に着く。機嫌良さげに鼻歌を口ずさみ、腕の重みに笑みが零れる。
「可哀想で可愛い俺の颯ちゃん。俺が飽きるまでずっと一緒やで」
そう言って腕の中の愛しい玩具にそっと口付けした。

──颯は未だ目を覚まさない。



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