バベルの眺望



部室を出ようと扉を開いた名字さんが空を仰ぎ鼻をすんと鳴らして呟いた。若干厨二臭いような行動だが、何故か様になるのが名字さんだ。

「……雨の匂いがする」

雨の匂い? 彼の言葉を脳内で反芻する。戸惑っている俺たちに向かって「お前らも早めに帰れよ」と告げてそのまま扉をバタンと閉めた。
雨の匂いというものが気になって、慌てて名字さんの後を追う。彼はイヤホンと音楽プレイヤーを鞄から取り出している最中だった。俺の姿に気がつくと、へらりといつもの笑みを浮かべて柔らかい声で俺の名前を呼んだ。

「赤葦、どうしたの」
「名字さん」
「んー?」
「……雨の匂いってなんですか」

俺の問いかけに、細められていた目を見開いて、そっかと言葉を零した。その横顔がどこか寂しげでどきりとした。まずいことを言ってしまったのかもしれない。

「都会人にはわからないんだよなぁ」
「……は?」
「雨の匂い」
「俺にはわかりませんが……」
「雨が近いと独特の、なんつーの、匂いが変わるんだよ。でも言葉でなんて言ったらいいのかわかんないんだよねぇ」
「……はぁ」
「説明できなくてごめんね」
「別に大丈夫です」
「その割には珍しく悔しそうだけど」

表情の強張りを指摘されて気恥ずかしくなる。別に悔しいわけじゃない。それに、誰のせいだと思っているんだ。

「……っ」
「べつにさ、わからなくたって困らないっしょ?」
「はい」
「じゃあその顔なんとかなんないの、怖いんだけど」
「普通です」
「うそつけ、このやろう。んな下らないことで……あ、わかった」
「はい?」
「お前の髪の毛の跳ねでなんかわかる気がする。今度からよく見ておこう」
「は? どういうことですかそれ」
「赤葦のくせ毛と湿度の因果関係を見出そうという画期的な試み……?」
「やめてください」

目の前の名字さんは至極楽しそうに笑いながら鞄から折り畳み傘を取り出した。ぱっと紺色の傘が開く。彼の言う通り、雨が降り出してきた。

「ほら、言った通りだ」

俺の方に傘を傾けてどこか得意げな顔をする。頭を下げて素直に傘に入れさせてもらう。鞄の奥底に眠っている折り畳み傘には気づかないふりをした。


/2015/05/06
←:back:→
≫top
ALICE+