劣情は誰にも渡さない



おれの前にふらりと現れた名も顔も知らぬ彼女は、小さく会釈をして隣に腰を下ろしてきた。ここは中学校の屋上であり、さらに補足するならば現在は授業中だ。そのためおれたち以外に人はいない。当然だろう。
サボり行為という一種の罪を共有したかのような、なんとも言えないバツの悪そうな表情を浮かべている。皆が揃って身につけているセーラー服のスカーフは几帳面な形で結ばれていた。

「……ねえ。名前、聞いてもいいかな」
「おれは迅悠一。きみは?」
「名字なまえだよ。よろしくね」

彼女がこちらを覗き込んでくる。
どうして君はここにいるのだろう。本来ならば、教室の窓際で真面目に授業を受けているのが様になるような女の子だった。

「……戻らないの」
「うん、いいの」

戻らないのかと尋ねてみたが、首を振って否定された。どこか遠くを見つめながら、「おかしなこと言うかもしれないけど」と前置きしてから小さく呟いた。

「……妹がいるんだけど、この街は危ないって言うんだ」
「どうして?」
「わからない……ついこの間いなくなっちゃった。探してるんだけど、見つけられないの」
「……妹さんは正しいよ」
「……え?」
「未来が視える、って言ったら……どうする?」

彼女は暫く考え込んだあと、弱々しく首を横に振った。

「……しらない」

それきり会話は続かなかった。彼女はコンクリートの地面を、おれは流れていく雲の欠片をぼんやりと眺めていた。
授業終了のチャイムが鳴ると同時に立ち上がった彼女が微笑みながら小さく手を振る。それに手を振って返して、視線を空に戻した。そこには青い空が広がっているだけ。
脳裏に焦げ付く瓦礫の山を掻き消すために、ゆっくりと瞼を閉じる。彼女の微笑みと瓦礫の山が重なって、ついにはふいと消えた。

しかし彼女と会ったのはそれきりで、彼女と再会するより前に学校は近世民によって破壊された。名前と顔。それ以外のことを、おれは知らない。


▽▲▽


彼女と再会したのは、ボーダーが街にとって当たり前の風景と化して、新規に隊員を募集し始めて少し経ってからのことだった。正確には視えた、と言うべきか。ほんの少し先の未来で、彼女は入隊式訓練生の列に並んでいた。長かった髪が短く切られていたのが何故か残念に思えて、何もない筈の胸が痛んだ。
偶然を装って再会して、それとなく理由を尋ねれば、彼女がまた笑った。彼女の微笑みは、あの時から一切色褪せていないように感じた。

「悠一くん、あのね。私嬉しいの」

彼女が一歩、おれとの距離を詰める。点と点が結びついて、脳裏で新たに生まれた未来に吐き気がした。

「あなたは、かみさまだったんだね」

おれは、この行き場をなくした儚い感情を捨てるタイミングを完全に見失ってしまったのだ。最後は劣化して、いつか消えてくれるだろうか。
おれには全く見当もつかない。おれはかみさまじゃないから、そんなことは分からないのだ。



2015/07/08
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