きみの吐いた息がほしい
※自傷行為の描写あり
荒北が自分のアパートに戻ると、名字はいたって真面目な顔で課題を進めていた。名字のおかえりという声ににただいまァと返して、帰り道に買ってきた某チェーン店の弁当をテーブルに置いた。
「適当に買ったぜ」
「俺好き嫌いないから大丈夫。荒北ゴチです〜」
「おー。んで、優秀な名前クンはどんだけ進んだのォ?」
からかい半分で名字の手元を何気なく覗き込んだが、その量に圧倒される。この男がこの数時間で進められるとは到底思えない。
「……は?」
「本気でやったんだよ? ちょっと褒めてくれたっていいんじゃない?」
「……オレの知ってる名字と違ェ」
素直な感想に、名字はケラケラと笑った。いつもはやる気が微塵もでないから全部後回しにしてるだけだと言って、こちらを見遣る。
「ね、俺に任せてって言ったでしょ。久しぶりに頑張ったらお腹すいたなぁ。ご飯にしよ」
「……んー」
とりあえず晩飯を済ませて、そのあとまた課題をふたりで進めた。軽くシャワーを浴びたあと日付が変わるまで進めるつもりだ。
異変というか、それに気づいたのはこの時だった。
――名字の左肘。手術痕と、その傷を上塗りするような火傷の痕。
今まで気にしたことがなかったそれに、荒北は興味を持った。季節もあるだろう。そこは夏以外の季節は普段から服で隠れる部分だ。
「なァ、名字。課題とは関係ねェんだけどよ」
「んー?」
「肘、何やったワケ?」
名字が顔を上げ、不思議そうに荒北を見た。ワンテンポ遅れてからああと呟いて、自分の傷をなぞるのを何となしに目で追った。
――野球肘。
簡潔に一言呟かれた答えに目を見開く。
「……や、荒北から肘壊したって聞いた時、まるきり同じでアタマ固まっちゃって言いそびれたんだよね」
「中二のとき?」
「そう。投球制限ぶっちぎったら、俺の筋と骨がぶっちぎれたっていうね」
手術はしたがあくまで日常生活を送れるレベルに戻すためのものであり、名字名前の輝かしい野球人生は完全に断たれた。その後は荒北と同様、投げやりな生活を送ったという。
ただ荒北はリーゼントで原付爆走という古典的なヤンキーになったが、名字は違った。
とにかくその傷跡を消したかったと彼は言った。色々と試して最終的に手を出したのが所謂根性焼き。熱いのは一瞬でも意外と深刻な傷になる。繰り返すうちに感覚が麻痺していき、どんどん傷痕がひどくなっていくとともに、手術痕が紛れたように錯覚した。
他にも喧嘩に明け暮れ複数個所骨を折るなど、彼は自分の体をとことん痛めつけることに執心した。それしか考えられなかったのだと言う。
「俺を正したり、導こうとする人は現れなかったよ」
彼はそう言って天井を仰いだ。
「……俺は荒北が眩しいよ。羨ましいんじゃなくて、ただ眩しいんだ」
表情はわからない。ただ静かで、ひどく優しい声だった。
その日はもうしばらくの間課題を進めて、ふたりして泥のように眠った。
△▼△
翌朝荒北が目を覚ましたとき、名字はまだ穏やかに眠っていた。
どちらがベッドを使うかで揉めた結果雑魚寝したのだが、案外体は軽い。首を回せばバキバキと派手に音が鳴った。
とりあえずコーヒーを淹れるため緩慢な動きでキッチンに向かう。ふたりぶんのコーヒーを持って戻ってくると、名字がちょうど起きたところだった。泊まるのは初めてではないので、名字の寝起きの悪さもよく知っている。
「ハヨォ〜」
「……ん、ん……あらきたぁ、おはよ」
「目ェ覚めたかよ」
「……もうちょい……んー」
ふらふら起き上がり、眠そうに目をこすっている。お前は子供かと突っ込みたくなる行動だが、名字の寝起きはだいたいこんな感じだ。この状態の名字をキャーキャー騒いでる女が見たら可愛いというのか幻滅するのか、知りたいような知りたくないような気持ちになった。
コーヒーと買い置きしていた菓子パンを朝食にする。朝から料理なんてする気になれない。
「……あらきた、俺さぁ。きのう言い忘れたことがあるんだよね」
普段よりさらに間延びした声で名字が話し始めた。パンを咀嚼しながら続きを促す。
「ンだよ。さっさと言えよ」
「……俺、自転車乗ってる荒北がすきだよ」
覚醒しきってない顔でふにゃりと笑う。
さらりと告げられた内容に、荒北の思考がぴしりと固まった。
「……名字?」
「だから俺、がんばるね」
何を頑張るのだろう。課題? それとも別のことか?
ただやけに真剣な声色で、そのくせその緩みきった顔で告げられた言葉に荒北はひどく動揺した。彼の言葉はいつだって唐突で、訳も分からないまま荒北の心を揺さぶる。この感情をなんと呼べばいいのか。彼は何者で、何をしたいのか。全部を知りたい。
わかることはただひとつ。
――きっと、引き合うのだ。同じモノは、引き合うさだめにある。
荒北が歩む可能性のあった道を歩んできた彼だから、彼が歩む可能性のあった道を歩んできた荒北だから。
今にも船を漕ぎそうな頭に手を伸ばす。かき混ぜるように髪を乱した。
くすぐったそうに笑って、その顔をこちらに向けた。
「ねぇ、荒北。やっとわかった?」
名字は至極楽しそうに笑っている。あの時も、あの時も、あの時も、そして今も。同じ顔だ。
ああ、今ならその意味がわかる。
2016/09/07
ソジーの錯覚=カプグラ症候群とも。家族・恋人・親友などが瓜二つの替え玉に入れ替わっているという妄想を抱いてしまう精神疾患
アイソトープ=同位体
ほんとは似てるけど似てないはずだったのに、「似ている」「俺たちは入れ替わってもおかしくない」と思い込んで共依存にハマる話
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