囀り



※ホラー? ホラー未満の何かです
※微妙にグロ













夢と現実の境界は、いつだってはっきりとそこにあった。
睡眠中にみる夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことを、明晰夢というらしい。睡眠中の些細なことは大抵すぐに忘れてしまうが、明晰夢と呼ばれる類のものに限っては、昔からはっきりと記憶があった。昔からずっと変わらない、なんの役にも立たない個性。

少し話がズレるが、おれはオカルトが大嫌いだ。血液型占い、誕生日占い、占星術、手相、風水――この世に溢れているスピリチュアルなものも同じく大嫌いだ。物心ついた頃からずっと、忌み嫌って生きている。
もちろん霊感なんてものも信じていない。しかし、幼い頃にいわゆる怪奇現象を体験したという『記憶』がある。怪異に遭遇したという『記憶』もある。
でもそれは――少なくともおれの中では、成長途中の脳が見せるまやかしのようなもので、みんなが騒ぎ立てるような代物ではないと思っている。成長する脳が完成するまでに起こり得る、バグのような。成長に伴ってまばらに発達した脳が軋んで生まれた泡沫のような。デバッグまでにある程度の年数を要するだけで、いつかは消えるものだと。子供にそういった話が多いのはそういうことが原因なのだと考えている。
そんなおれにも、そういった時期があった。
今と違って昔は市の中心から大きく外れた市営住宅に住んでいた頃のことだ。
いろんなモノやコトが『見えて』いた。――眠れぬ夜、天井に突如現れた亀裂が動き、歪な唇で早く寝るように説教されたりだとか。電柱の影にいる黒いコートの男が、特定の女性が通るたびに包丁を振りかざすが全く干渉できずに終わるのを何度も眺めていたりだとか。おれは当時市営住宅の四階に住んでいたのだが、三階から四階にかけての階段を登っている途中、唸るエンジン音にびっくりして振り返るとそこには古ぼけた旧時代の自動車が迫ってきたりだとか。思い出したらキリがない。
小学校中学年の頃に両親は念願のマイホームを購入したためその市営住宅からは引っ越したのだが、なんの因果かそれ以降そういった不思議な『記憶』は途絶えている。代わりと言ってしまっては何だが、定期的に明晰夢を見るようになってしまったのだが。
この話をすると、体験談はあるのに何故そういったモノを信じるに至らないのかと不思議がられてしまう。
正直馬鹿だなあと思ってしまう。それは全く違うのだ。おれの記憶と世界の事象とは、イコールではない。おれは、おれの記憶よりも数多の研究によって裏打ちされた世界の物理学的な法則の方を信用している。ただそれだけだ。


▽


今日も相変わらずぎらぎらと照りつける日差しが肌に突き刺さる。暑いを通り越して最早痛いの域だ。
空調設備のある教室内でも、一番窓際であるおれの席はそこそこに暑かった。エアコン真下の席のやつは寒いと嘆いていたけれど、そんなことは知ったことではない。おれが暑いんだから温度を下げろ。
午後の古典の時間ほど眠いものはない、というのがおれの自論だが、今日ばかりは暑くて意識を手放せないままぼんやりと黒板を眺めていた。
級友が教科書を読み上げている。朗々とした声は、ぼんやりとした意識の中でもすんなりと届いた。なんともよく通る、低くて心地よい声だ。
ページを捲る音。教師のスリッパの擦れる音。誰かがシャーペンをノックする音。一定に刻み続ける時計の針の音。教室内にあふれるさまざまな音の中で、彼の声は一番はっきりと聞こえる。
テニス部の真田。やや時代錯誤感が否めない彼とは、数回会話したことがあるかどうか、といった距離感である。
決して嫌っているだとか、苦手だとかそういうことはなく、ただ単に彼と何を話したらいいのか掴みかねている状態だ。
凛とした立ち姿で至極真面目に教科書を読み上げる姿を横目に、おれの意識は遠ざかってゆく。
その瞬間、おれの『夢と現実の境界』は崩壊した。

嗚呼、そこに――いる。

反射的に振り向くのを堪える。黒い靄かがったモノが視界の端をちらつく。そして女の声がおれを呼んだ。
おいで、おいで。おいで、おいで。
おいで、おいで。おいで、おいで。
とうに聴き慣れた声。その声の持ち主は、毎晩夢の中で熱心に自分に語りかけてくる女だ。
名前は知らない。顔はよく見えない。典型的な幽霊のイメージにありがちな白いワンピースではなく、黒いワンピースを着ている。恐らく、喪服なのだろう。
――此方に、おいで。
はっきりと誘われている。夢と現実の狭間から。こちらの世界にまで身を乗り出して。おれが欲しいと。
遠のく意識をギリギリのところで堪える。あやふやな認識の中で、真田の声だけがおれを『ここ』につなぎ止めてくれている。
何かを真田が口にした。そこだけは何故か聞き取れなかった。
しかし、その瞬間泡がはじけたように陰鬱な空気は消え、黒い靄も閉塞感も跡形もなく吹き飛び、いつもの教室に戻っていた。

「……?」

変化に戸惑っているのは自分ひとり。到底眠る気になどなれず、最後まで授業を受けることになった。


▼


明晰夢。夢が夢だと分かるだけであり、そこでの主導権は一切おれにない。
今日も女は楽しそうにおれに語りかける。おれは、文字どおりでも足も出ない状態でひたすら意味のわからない言葉の羅列を吹き込まれていた。
手足と脇腹には禍々しい杭が刺さっていて抜けない。赤黒い液体で描かれた魔法陣のようなモノの上で標本のように磔にされては、毎晩毎晩意味のわからない呪文を唱えられ、愛を囁かれている。
正直気が狂いそうだ。だが、ここで屈してしまったら夢に過ぎないという自分の考えを曲げるような気がして、何よりこの女の妄執に屈してしまうと思うと、なんとか寸でのところで踏みとどまっている。

「長かったわね」

女が微笑んでおれの頭を撫でてきた。意図がわからず惚けていると、赤い唇が重ねられる。

「すきよ、ずっと会いたかった」

女の唇が離れた瞬間、口からごぽりとナニかが溢れた。視線をそちらに向け、すぐさまに後悔した。肉片のようにも見えるそれは、無秩序に蠢いている。一見ミミズのようなソレは、おれの内側からわんさか這い出てきた。

「お゛、ぇ」

すべて吐き出さねば、と思ったがどうやらそれも悪手だったらしい。内側から食い破られる感覚。かあっと体の内側から熱くなる。夢の中のはずなのに、体温が上がった感覚を覚える。
吐き出したソレは腕や顔に纏わりつき、おれを喰い破りながら形を変えて皮膚と癒着してゆく。ーー変わってゆく、喰われて、作り替えられて、おれが、おれを保てなくなる。
腕はもうおれのものではなかった。自分とは全く異なる鍛え上げられた男性の腕が見えた。顔は確認できないが恐らくは……おれの顔はあの女の望む姿になっているのだろう。
滲んでゆく視界の向こうで、女は恍惚と微笑んだ。

「――××、お帰りなさい」


▽


朝を迎えた。ついに終わったのでは? と思ったが、そんなことは知らないと言わんばかりに朝がやってきた。アラームが鳴るまでもう少しある。二度寝するのも気が引けたので、少し早い朝ご飯にすることにした。
忙しい両親はとっくに家を出ているので、トースターに食パンをぶち込んでタイマーをひねり、冷蔵庫に買い置きしてあるアイスコーヒーをドボドボとコップに注ぐ。半焼けのトーストに無造作にバターを塗って、がぶりと齧り付いた。

「……味がする」

いまのおれにはそれさえも大きな心の支えだ。
いつも通り朝の準備を済ませれば、当然やることはなくなる。たまにはいいだろうと、そのまま家を出ることにした。
普段よりほんの少しだけ空いているような気がする電車に揺られて学校まで着いた。特に何もなく、門を潜る。
朝練をしている運動部を横目に、下駄箱まで行こうと踏み出した瞬間、目の前の景色が変わった。黒い靄、反響するいつもの声。

「わたしを置いて、どこに行くの」

いつもは穏やかなのに、いまは怖いくらいだ。怒っている。当然だろう、本来ならば昨日で終わるはずだったのだ。
重圧が全身にのし掛かる。とてもじゃないが立っていられない。ふらふらと座り込んでしまった。いつもの時間ならば人通りがあるが、今日は早く来てしまったので誰もいない。誰も助けてくれない。ああ、何もかもが噛み合わない。やはり普段しないようなことはすべきではなかったんだろう。
視界の端に白にモノが見えた。黒いワンピースは、白いドレスに変わっていた。クソ、そういうことかと呻く。
脳味噌を掻き混ぜられたように視界が激しく揺れる。おれの体はいつまで持ち堪えられるのだろうか。昨日みたいに真田が助けてはくれないだろうか。そんなことを思いながら必死に身を捩る。
ふいに視界に入ってきたスポーツシューズに、おれは救いを求めるように顔を上げた。

「どうした…? ッ?!……名字、おい!名字!しっかりせんか!!」
「さな、だ」
「何があったのだ」
「たのむ、昨日みたいに、追い払ってくれ」
「何を言っている? 熱中症か?」
「ちがうんだ、たのむ、今じゃなきゃダメなんだ…っ、ぐ」

おれの願いが現実になったのか、真田が側にしゃがんでおれを覗き込む。譫言のように助けを求めるが、女が許すはずもない。真田には干渉できないのか、おれの首を締め上げてきた。みるみるうちに血の気がひいてゆく。
おれの様子に只事ではないと察してくれたのだろう。真田の表情が変わった。覚悟を決めたみたいな、頼もしい顔だ。

「消えろ!! 名字に触るな!!! 」

よく響く声だった。がつんと頭を殴られたような衝撃に思わず目を閉じる。しばらくして目を開けると、先程までの重苦しい空気は消えていた。女の姿もない。視界は元通りになった。
ゆっくりと立ち上がり、ズボンの汚れを払う。

「……ありがと、助かった」
「うむ。しかし、俺は夢でも見ていたのだろうか? 何もいない筈なのに急にお前の首がな、只事ではないと思ったのだ。不思議なことが起こるものだな」
「待て、アレ、見えてなかったのか?」
「そうだ。名字の首に不可思議な跡が現れたからああしたまでだが」

満足げに真田が頷いた。このドヤ顔である。
しかし見えてないとは。所謂0感、というやつか。いやいや、そもそもおれはオカルトなんて……
いや、今はそんなことを考えたって仕方がないか。

「うん、夢を見てたんだ。長かったよ」

そう呟けば、真田は複雑そうに笑った。

「よく耐えたな」

その言葉に力なく頷いて、おれたちはしばらくそこに立ち尽くすのだった。


2020/09/09

霊感ゼロの真田弦一郎の喝で悪霊退散させたかったなどと供述しており…


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