トリコロールの悪魔



※続き
※レボライで大和祐大が青学ジャージ着た記念の怪文書




 ああ、川の流れのように。その人は引退試合を終え合宿から姿を消して、再びふらりと現れた。
――いつもの場所で待っています。
 スマートフォンに表示された文字列に名字は目を見開いた。通知に既読をつけないまま勢いよく走り出す。朝より重たく感じるラケットバックを引っ掴み、日々の厳しいトレーニングでくたくたな身体を叱咤しながら、いつもの場所へと急ぐ。
 合宿所の外れにあるコートは、宿舎から一番遠く皆使いたがらないためいつも空いている。幾度となく名字はそこで敗北を突きつけられてきた。

「大和さん!」
「そんなに急がなくてもよかったんですよ、名前くん。元気そうでなによりです」
「大和さんも、お変わりなく」

 息を切らしながら名前を呼べば、ふわりと優しい微笑みが返ってくる。大和祐大、名字のテニス人生を語るのに欠かせない人だ。
 名字は中学で大和と出会って薫陶を受け、共に闘い、彼を追いかけて高校を選び、彼と同じく日本テニスU-17選抜に呼ばれるために死に物狂いで努力してこの合宿所にいる。彼に出会わなければ今の自分はないとはっきり言える。名字にとって一番大切な人。
 尊敬してやまない元・部長であり、名字の一歩通行だと思っていた恋心が何故だかどうして結ばれた相手でもある。大和の優しさにつけ込んで思い出を貰おうと思ったのだが、同じ気持ちを返してくれた。
 いまだに実感が湧かないのは、四年近くになる歳月によって拗らせてしまったからに他ならない。やはり夢だと言われても、完全に否定することはできないだろう。このことが大和に知られたらまた怒られてしまうだろうが、現実と夢の狭間を彷徨っているような浮ついた気持ちでこの数週間を過ごしていた。

「いつもありがとうございます」
「俺がやりたいからやってるんです。他の人には絶対にあげません」

 肘のリハビリを終えた大和の復帰戦の相手はいつも名字だ。中学からずっと続けている、ふたりの密かなルーティン。こればかりは誰にも譲れない。このためだけにテニスに打ち込んでいる訳ではないが、モチベーションの一番大きいところを占めているのは事実だ。
 名字の息が落ち着いてきたところで、大和が目配せをする。それに小さく頷いて、ラケットを構えた。

「そろそろ始めましょうか」
「はい、大和さん」

 絶え間ないラリーの応酬の末に、名字のラケットが虚しく空を切った。空振りの感触と背後に打球が跳ねる音。――幻有夢現、それは鮮やかに名字に敗北を叩きつける。
 幻のボールにラケットを振らされた回数など、とうの昔に忘れてしまった。いつ見ても美しくて惚れ惚れする。
 毎回今日こそはと思って挑んではいるが、戦績は芳しくない。肘の怪我があってもそれを補うテクニックと視野の広さに翻弄され続けている。名字の一番近くにある越えたくて堪らない大きな壁だ。
 コート脇のベンチに並んで座って体を休める。秋の風は身体をほどよく冷やしてくれるので好きだ。

「一段と腕を上げましたね」
「本気で思ってます?」

 胡乱気な視線を向けるが、大和は柔和な眼差しで応えた。
 名字がこうして大和の前で色々な表情を見せてくれるだけで大和は嬉しくなる。今までは無理して笑みばかり作らせてしまったから、これからは沢山の表情を見たいと思う。大和とふたりきりの時は、取り繕わないありのままの名字でいてほしいのだ。

「勿論。今日が一番危なかったですよ」
「そうですか」
「もっと自信を持ってください」

 尊敬する大和にそこまで言われてしまっては、引き下がるしかない。さらに赤くなった頬を見られたくなくて、思わず顔を背けた。
 そんな名字の子供っぽい行動に大和はくすりと笑って、自分より幾分低い頭を撫でてくる。子供扱いされたことよりも久しぶりに大和に触れられたことの方が嬉しくて、名字は黙ってそれを受け入れた。

「君の成長が楽しみですよ」
「ありがとう、ございます」

 手のひらの温もりの心地よさに名字の瞼がとろんと落ちる。その隙を見逃さず、大和はすかさず名字の瞼へキスを贈った。
 限界まで大きく見開かれた瞳が大和を映す。

「……ッ! 大和さん?」
「可愛いところもありますね」
「やっぱり馬鹿にしてる」

 つんと尖らせた唇は名字の癖のひとつであり、大和にとって格好の獲物だ。こんなに無防備に晒されていて狙われない訳がない。
 この子はそんなことも分からないのだろうか。自分の感情にはとことん素直なのに、自分に向けられる感情など一切ないと思い込んでいる。想いを通わせたあとも、あまり実感が持てないのか不思議そうにしている時がある。
 愛おしく思っている大和の気も知らないで。なんて罪な子だ。思い知らせるようにそれも奪ってやる。名字の肩が大きく跳ねた。
 まるで勝手に飼い主に触られた猫が威嚇するかのようだ。怒っているのは分かるが怖くはない。ただ可愛らしいなあと思うだけだ。思わず目元が緩む。

「なんですか急に」
「可愛かったのでつい。駄目でしたか?」
「いや駄目でしょ、ここ外なんで」
「じゃあ、夜。部屋で待ってます」

 がらりと大和の雰囲気が変わって、名字の喉からはつかえるような返事が出た。心臓の拍動がやけに頭に響く。

「……は、い」

 慈しむような恋人の顔から、真剣な表情に切り替わる。まるで試合の最中に見つめられているような気分だ。そんな顔で見つめられては、とてもじゃないが嫌とは言えなかった。はじめから言うつもりなどなかったけれど。
 書類やら手続きやらがまだ残っているらしい大和は、戸惑う名字を置いて先に行ってしまった。ひとり取り残され、ベンチの上で小さく縮こまる。
 何故最後にあんな顔を見せたのか。どんな意味があるのか。なにか大事なことを隠されてはいないか――ぐるぐる回るネガティブな思考に沈んでしまいそうになる。
 しかし名字とて只者ではない。大和を一番よく知っている自分に分からないのならば、もう本人に聞くしかない。大人しく夜まで待てばいい。そう結論付けて勢いよく立ち上がった。


▽△


 待つしかないとは言え、不安な気持ちがゼロになる訳ではない。浮ついた気持ちをなんとか抑えながら残りの練習メニューをしっかりとこなし、夜ご飯を食べ、規定の時間に風呂に入った。そして現在、指定された時刻に大和の部屋の前で待ち構えている。
 ああ見えて情に厚い中河内の計らいによって、同室の先輩達はしばらく席を外してくれているらしい。何をどう説明したのか気になるが、今の名字にはそれどころではなかった。
 ノックする拳が少し震える。

「失礼します」
「どうぞ」

 ドアを開けた名字の瞳に飛び込んできたのは、懐かしいトリコロールだった。鮮やかな青と白、ポイントカラーの赤。忘れるはずもない、昨年まで名字も着ていた青春学園中等部のテニス部のレギュラージャージ。実家に帰れば同じものがクローゼットの奥に仕舞ってある。
 ふわりと舞い上がったそれは、狙い澄ましたかのように名字の腕に収まった。

「……え?」
「懐かしいでしょう」
「ええ、まあ、そうですね」

 懐かしいのは事実だ。後輩にあたる中学生たちが初めてこの合宿所を訪れたときも同じことを思った。たった一年前なのに、遥か遠い昔のように感じたのを覚えている。
 それを何故、大和が持ち込んでいるのか。

「とある機会で着ることになりましてね。ボクだけじゃなく、名前くんにも着て欲しいなと思って」
「えっと、これを俺が着るんですか?」
「はい」
「…………」

 ちょっとよく分からない。自分も着たのだからお前も着ろと言うのはどういう理論なのか。しかも何故そんな真剣な顔で、割と下らない願いを乞うことができるのか。この原動力はどこから湧いてくるのか。名字にはすべてが理解できなかった。
 名字は大和に甘い。ちゃんと自覚もある。自分にできることならなんだってしてやりたいと思っているし、これまで様々なお願いに応えてきた実績がある。
 だが二年越しに、中学の時のジャージで所謂『彼ジャー』をする羽目になるとは思っていなかった。そして当時から大和の方が体格がいいので、確実に袖が余るのがほぼ決定している。彼ジャーに萌え袖。えーっと、何のプレイ? 思わず意識が遠のく。
 大和の方に向き直っても、期待に煌めかせた視線を向けられるだけ。ここで名字が嫌だと粘ったところで、消灯時刻間近になれば同室者が帰ってくる。こんな心底しょうもないやり取りを日頃お世話になっている諸先輩方に見られる訳にはいかない。
 この部屋にふたりきりになった時点で名字は詰んでいたのだ。今更気付いても遅い。もう腹を括るしかないのだろうか。

「……今日だけ、特別ですから」
「名前くん!」

 意を決して告げれば、目に見えて大和の表情が明るくなった。こんなことでそんなに喜んでいて、この先大丈夫なのだろうか。でも、喜んだ顔はいつ見ても良いものだ。大和にはつらい経験よりも多くの幸せを得てほしいと思うから。
 期待のこもった視線を肌で感じながら、ゆっくりと袖を通す。案の定、若干袖が余ったのが悔しい。ふたりの身長差は高校生になっても埋まることはなかった。勢いよくジッパーを首元まで引き上げる。照れ隠しに襟に口元を埋めた。
 名字を見つめる視線は痛いくらい突き刺さるのに、大和は終始無言だった。それがさらに恐怖を煽る。思わず声が震えた。

「な、なんとか言ってくださいよ……」
「やっぱり似合いますね」
「そりゃ去年まで着てましたし」
「いいえ。ボクは、ボクのジャージを着た名前くんが見たかったんですよ」

 果たしてそこに何の違いがあるのか。疑問には思ったが、名字はそこまで無粋な男ではない。大和が堪らなそうな顔でこちらを見つめてくる。それだけで名字は満足だった。理解はできなくとも、大和が望むなにかを与えられたのであればそれでいい。
 名字は両腕を広げて大和を呼んだ。

「見てるだけでいいんです?」
「……よくない、です」
「あはは」

 やや緩慢な動作で大和が近づいてくる。名字はそれを笑って抱き止めた。少し高い位置にある顔に、自分の唇を寄せる。優しく啄むようなキスを何度も何度も贈った。無精髭がくすぐったいが、大和とキスをする度に触れているので今更無くなったらそれはそれで違和感を覚えるのかもしれない。
 愛おしげに細められた瞳は、名字のことしか見えていないのだろう。やはり夢じゃなく、大和は名字のことを好いてくれているのだと改めて実感して、くすぐったい気持ちになった。

「やっぱり大和さんって趣味悪い」

 キスの合間に悪態をついてみる。
 大和の眉根が寄った。ややぴりついた視線に、名字は鷹揚に目を眇める。

「こら、またそんなこと言って」
「だって」
「何度でも言います。名前くん、君はボクにとって心から信頼できる後輩で、可愛い恋人なんですから」

 不思議そうに見つめてくる名字の頭を撫でた。同じ合宿所のシャンプーの香りがふわりと漂う。
 大和の悪口が少しでも耳に入ろうものなら地の果てまで追いかけ回して力尽くで撤回させるような男なのに、何故自分のことを卑下するのか。大和には分からない。分からないというならば何度でも伝えよう。刷り込みがいつか自己評価に変わると信じて。その時が来るのを、隣でゆっくり待てばいい。
 名字はやっぱり趣味悪いですよと言いかけた唇を閉じる。大和の言葉を否定したい訳ではないからだ。
 しばらくの沈黙ののち、大和が静かに切り出した。

「名前くん。そのジャージ、貰ってくれませんか」
「い、いいんですか?」
「本当は引退の時に渡そうと思っていたんですが、青学の部長としてやり残したことがあったので渡せずにいたんです。でも、それも終わりました。今度こそ、名前くんに受け取ってもらいたくて」
「はい!……ずっと、大切にします」

 名字の瞳が潤んで、噛み締めるように呟いた。きらりと一滴のしずくが頬を伝い、照明の光を反射する。ああ、また泣かせた。
 名字が泣くのを見るのは、これが二度目になる。一度目は大和の肘が故障したのを知られたときだった。何も悪くないのに名字は自分のせいだと泣いていた。
 二度目も大和が泣かせたが、今日はきっと嬉し泣きだ。四年の月日を経て、ようやく過去を塗り替えれたような気がした。
 四年間、彼はずっと大和への想いを秘めていたのだという。どうしてもっと早く気付けなかったのだろう。こんなにも愛おしいのに。こんなにも心揺さぶられるというのに。
 涙を指先で拭いながら名字が笑った。

「大和さん、俺のこと好きですね」
「当たり前じゃないですか。でも、今度は事実なので許してあげます」
「やった〜」

 名字の表情が緩む。いつも柔和に笑っていることが多い名字だが、ここまで楽しそうに緩んだ顔を見れるのは大和だけの特権だ。

「大好きです、大和さん」
「ボクも大好きですよ、名前くん」

 額同士を合わせて伝える。何度伝えても足りないけれど、それでも言葉にする。気付くのは遅かったが、気付かないままよりずっといい。大和の腕の中で、鮮やかなトリコロールのジャージを着た名字がいる。気付かないままだったら、こんな光景は見れなかったかもしれない。
 幸せを噛み締めながら、大和は腕の力を込めた。



2022/10/18

初日に青学ジャージ着た大和祐大が出てきてガチ泣きしたおたくの怪文書。ドストレート「大好き!」に無事死亡しました。
前作は男主が押してたけど今作は大和が押してる。押されると途端によわよわになっちゃう男主が書きたかった。


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