夏の終わりと風の行方



※『赤い糸に縊ったけ』のつづき






 燃えるような夕陽が傾いて、ようやく日が落ちようとしていた。築何年か分からないほど古い我が家の縁側に腰掛けて、母親の家庭菜園を意味もなく眺めている。連日の猛暑で心なしか萎びているような気もするが、まじまじと見たのは今日が初めてなのでわからない。
 漆のお盆に乗ったふたつのグラス。氷が溶けて薄まった麦茶。時折吹く生ぬるい風は、隣に座った佐伯がうちわで扇ぐことによって生み出されている。瞳は弧を描いたまま、俺を見つめて離してはくれない。

「佐伯。それ、楽しい?」

 視線を向ければ、ゆっくりと瞳が細められる。

「うん、楽しい」
「あっそ」

 無駄に決まった顔で即答しないでほしい。顔がいいだけに反応に困る。耐えられずまた視線を逸らした。
 会話が止まる。しかし、俺の頬に届く生ぬるい風は止まない。
 数多の女の子の恋心を弄んだ罪深い佐伯の逃避行に巻き込まれて、何故かその佐伯に告白された。そして俺はそんな佐伯を呑気に家に招いている。
 まったく整合性が取れていない。自分でも自分の行動がわからない。はっきりと拒めばすべて解決するのだろうか。
 いや、絶対にしない。これだけは断言できる。絶対にしないから困っているのだ。
 佐伯はこんな程度で諦めたり気持ちを終わらせたりするような柔な奴でなない。それを身を以て知っているからこそ、俺はこうして先延ばしの一手を打たされているのだ。あーあ。
 とりとめもない思考は夏の暑さに霧散する。思わずこぼしたため息は、のぼせるように熱い空気に混じって消える。
 佐伯の手が伸びてきた。気温よりずっと熱い指先。視線で追いかけて、諦めるように目蓋を伏せる。小さな笑い声が鼓膜をくすぐった。
 俺の頬をゆっくりとなぞって、佐伯は笑う。長年のテニスと海遊びで出来上がった手だ。この手が美しい砂の塔を作り上げるのを何度も見てきた。

「あれ、ちょっと白くなってきた?」
「引退したからな」
「初めて見るかも」
「もう遊んでるだけで許される歳でもないだろ」

 もうただの無邪気な子供と言い張るのは難しいだろう。
 この冬には受験が控えている。慣れ親しんだ友人と離れ離れになる可能性は大いにある。今までみたいに海開きと共に砂浜を駆け回るだけでは許されない。そんな歳になってしまった。

「名前はいつも俺らよりちょっとだけ大人だ」
「そうか? てかちょっとってなんだよ」

 ムカついたので肘で小突いてやる。佐伯はそれを咎めもせずに笑って受け止めた。

「本当に助けられたから。ありがとう」
「……別に」

 六角中テニス部の全国大会初戦での事の顛末は、同級生と会話をしていれば嫌でも耳に入ってくる。俺はすれ違いざま、お前偉いなと笑って肩を叩いたんだっけ。曖昧な記憶を辿る。記憶のカケラを水底からゆっくりと掬い上げる。
 ああ、思い出した。今にも泣きそうな佐伯を引退したはずの部室に連れ込んで、しばらく意味もなく隣で座っていた。ただそれだけだ。
 俺の部室の秘密の合鍵。先輩たちから代々受け継いだそれを、最後の夏を終わりにしたくない俺はしょうもない未練から鞄から取り出せずにいた。俺たちの夏はとっくに終わっていたのに。手放したら本当に終わったのだと突きつけられるのが嫌だったから。
 だからあの日、これで最後にしようと佐伯を招き入れたのだ。
 俺が気持ちの整理を付けるための儀式のようなもの。佐伯はそれに付き合わされただけ。それ以上でも、それ以下でもない筈なのに。

「佐伯がこんなに趣味が悪いなんて、知らなかった」
「ひどいなあ」

 薄茶の瞳をまんまるにしてから、佐伯は不敵に笑った。俺の頬に張り付いていた髪をそっと退けて、指先で汗を拭う。俺は黙って目を伏せた。

「俺は世界一見る目があると思ってるんだけど」

 馬鹿なやつ。
 言いかけた言葉を飲み込んで、目を開く。いつどこで何度見ても男前な顔をしている奴。視線が合えば、慣れ親しんだはずの顔面が優しく溶けた。
 知らなかった。そんな顔もできる奴だなんて。――嘘だ。佐伯の本性とでも言うべき仄暗いところに、俺は昔から気付いている。

「佐伯はさあ」
「うん」
「好きって言ってくる女の子たちじゃ、駄目だったわけ?」
「駄目でしょ」
「あは、即答だ」

 可愛い子から美人な子まで、よりどりみどりだろう。あんな男に愛を請われて頷かない理由がない。無駄に男前で、一見爽やかで外面はいいけど、意外とガサツで、かと思えば謎の拘りと執着心を抱えているし、それを隠そうとはしない。
 うーん。冷静に考えると、事故物件かもしれない。構ってちゃんなところもあるし、メールを無視して寝落ちした次の日はダル絡みが激しくなるし。端的に言って面倒くさい男。

「名前」
「うん?」

 永遠に続くんだろうか。俺が頷くまで。仮に頷いたとしても、死ぬまで続くのかもしれない。
 指を絡められる。暑さで溶けてしまいそうだ。逆の手で薄まりきった麦茶を飲んだ。ぬるいし、ほぼ水に近しい味がした。
 嫌なところはたくさん思いつくのに、拒むまでの理由は思いつかない。とうとう俺も末期かもしれないなと思いながら、俺は分かりきった続きの言葉を待つ。

「好きだよ、ずっと前から大好きだった」

 大した取り柄もない俺に必死に愛を乞う男は、やはりカッコ良い。
 こんな俺のどこが良かったのだろう。考えても分からないし、多分死ぬまで分かり合えない。佐伯虎次郎という男は出会った時から未知で出来ている。
 それでも、離れるのは惜しい。ぐちゃぐちゃになった濁流から唯一拾い上げた俺の感情。今の時点の俺が返せるたった一つの答えだ。
 指先を握り返す。張り付いた手汗はもうどちらのものか区別がつかなくなって、ただ熱だけがそこにある。

「ねえ、佐伯。俺めちゃくちゃ熱いんだけど」
「名前?」
「それ……やめるなよ」

 うちわを指差す。佐伯は目を丸くしたのち、泣きそうな顔で笑った。

「うん、わかった」

 生ぬるい風がようやく再開した。俺はまた目を閉じて、その風を受け止める。ささやかだけど、なくなっては困る小さな風。

「大好き、名前」
「知ってるよ」



# 男主
約5年くらいは佐伯からの粘着を受けている。スルーを決め込んでいたら痛い目に遭った。

5年ぶりにサエにめろめろになった記念です。やばい、好きすぎる。


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