シェイク・ワンダーランド
※子役時代の幻影が見える元子役な男主と、なぜかそれが見える入江のはなし
※ミュージカル『モーツァルト!』の内容を含みます
神の申し子、奇跡のひと。神が使わした小さなプリンス。――ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト!
彼にはまるで隕石のように宙から地球に落ちてきたかのような、目の眩むほどの輝かしい才能があった。人の叡智の及ばぬ美しい旋律で人を酔わせ、数多の人間を、そしておのれの人生さえも狂わせた。
彼はその才能によって輝き、そして最後はその才能に殺される。
彼の『才能』は子供の頃の姿をしていた。子供用にあつらえた白い鬘。本来なら聖職者や貴族にしか許されないはずの金の刺繍がふんだんに施された赤いコート。大人になったヴォルフガングがどんなに足掻いても越えられない。天才と呼ばれ、数多の人間から喝采を浴び、いっとう輝いていた頃の姿だ。
この役に台詞はない。けっして言葉を喋ることはない。ただこちらを見つめて、子供の姿で大人になったヴォルフガングを支配しようとする。
作中で『アマデ』と呼ばれる舞台装置、それが幼い名字名前の演じていた配役だった。
死に際のヴォルフガングは迫り来る死の匂いを感じながらも、ペン先をおのれの腕に突き刺して楽譜を書き込んでいた。まさしく心血を注いで最期の音楽を作り上げようと、おのれの血をインク代わりにしていた。あと少し、というところで血が一滴も残っていないことに気付く。
否、残っている場所がひとつだけあった。心臓だ。ヴォルフガングと『アマデ』はともにペンを手に取り、鋭いペン先を心臓に突き刺し――幕引きだ。
何の因果なのだろうか。ずいぶんと趣味の悪い悪夢だと思う。夢ならばさっさと覚めてほしい。
子役の競合は凄まじい。数年経てばすぐに新しい天才子役が表れて、いとも容易くお株を奪われる。予定調和のような荒波から弾き出されて子役を引退し、そこで出会ったテニスに惹かれてのめり込んだ。
たとえどんなに天才子役だと持て囃されても、歳をとってしまえばどこにでもいる平凡なただの子供だったのだと気付かされた。
十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人――とはよく言ったものだが、それを上回る速さで落ちぶれていく自分を認められなくて、別の何かで世界に自分を証明したかった。自分がけっして特別な存在ではないのだと、自覚したくなかったのだ。
しかしある日。かつて『アマデ』を演じた名前にも、ヴォルフガングと同じように子供の頃の姿をした幻影が見えるようになった。
彼は『アマデ』のように、物言わぬ子供の頃の姿で名前を支配しようとした。白い鬘を被り、金の刺繍が施された赤いコートを着た、名前の一番輝いていた子役時代の姿で。
はじめは悪夢でも見ているのかと自分を疑った。しかし悪夢のような幻影は消えることなく常に名前につきまとった。
彼はただ真っ直ぐに澄んだ瞳で名前を見てくる。奇しくも役と同じで言葉を発することはない。常に無言で向けられる無垢な視線に、気が狂いそうだった。
その視線を振り切るようにテニスに打ち込んだ。芸能界復帰を目論む親から物理的に離れるために死に物狂いで合宿所に潜り込んだ。逃げた先の合宿所の暮らしは想像以上の平穏をもたらしてくれた。
誰も自分のことを知らない。たとえ知っていてもいつぞやの大会で対戦した相手としか認識されない。誰も名前の輝かしくもおぞましい過去を知らないのだ。
唯一今もなお現役で芸能界で活躍している君島だけは僅かながら反応を見せたが、特段何か言ってくることはなかった。気付いているのかもしれないが、何もなかったように接してくれる。プロフェッショナルの気遣いは行き届いていて有難かった。
名前は同じ夢を見る同輩に混ざってテニスに明け暮れ、幻影からの視線から逃れながら忙しくも穏やかな毎日を送っていた。……あの日までは。
◆◇
入江奏多から接触されたのは、合宿に招集されてから数週間経ったある日の朝だった。
貴方の良き理解者。3番コートの陰の支配者。
テニスプレイヤーとしては些か小柄な見た目は合宿所のなかでは少し浮いて見えた。実力の底が見えない演技派で、柔和そうに見えてレンズの向こうでは案外鋭い視線をしているのが印象的だった。本能的に怖いという気持ちが湧き上がってくる、数少ない相手のひとりだ。
カフェテリアで彼が昨晩焼いたというパンを差し出されながら話しかけられ、そのまま朝食を相席することになった。有無を言わせぬ鮮やかな手法に内心舌を巻く。
「入江先輩。なにかご用でしたか?」
「僕は演技の勉強をしていてね。君の名前を偶然見つけたんだ」
「……は、い?」
「ちゃんと映像が残ってて安心した」
入江の言葉は容易く一番柔らかい所を突き刺した。その華奢な指で肋骨を掻き分けられて、心臓を握り込まれているようだ。
ああ、この人は知っている。知ってしまったのだ。名前の忌まわしい過去を。
演技なんて何年もしていない。取り繕う言葉は一向に浮かばず、言葉に詰まる。
指先は冷えていて震えが止まらない。マグカップを満たすコーヒーはぬくぬくと湯気を立てているのに、その温もりがこれっぽっちもわからない。
この短時間ですっかり追い詰められていた。
「すごい役者だったんだね」
「ッ、違う!……ちがい、ます!」
先輩相手なのに敬語さえ碌に使えない。噛み付くように言葉を被せる。
違う。決して天才子役などではなかった。ありふれた才能しか持ち合わせていない、極めて平凡な子役で、他人の才能の眩さに塗りつぶされて表舞台を去った。そんな人間は山ほど居る。自分は決して特別ではない。無惨に崩された有象無象の一角なのだ。
役者としての名字名前はとっくの昔に死んでいて、ずたずたになった亡骸で新しい役を羽織ろうと無様にもがいている。幼い頃の幻影に怯えながら、おのれの栄光を取り戻そうと暗闇であがく、ちっぽけな人間なのだ。
「そんなに卑下しなくてもいいじゃないか。いくつか見たよ。そうだね、特に『アマデ』の演技!すごく良かったよ。ひとつも台詞がないのに、訴えたいことがぜんぶ伝わってくる。僕も見習わないとって思ってね」
「……やめて、ください」
レンズ越しのまるい瞳がゆっくりと細められる。やめろ。やめてくれ。そんな見透かしたような目で見ないでくれ。
入江はよりにもよって『アマデ』が一番だと宣う。そうだろう。自分だってそう思う。そうでなければ、あの悍ましい幻影の姿はなんだと言うのか。
きちんと手入れされているであろう唇が笑みの形をつくる。その艶めきが照明を照り返してきらめく。シナプスが焦げつく。思考の泡が弾ける。
「本当に神の申し子みたいだね。そう、まるで……今も子供の姿で君に寄り添っているみたいだ」
「やめろッ!!!!!」
それ以上は耐えられなかった。
カフェテリアに叫び声が響き渡る。無意識に入江のジャージの襟を掴んでしまったが、強張った指は離したくても離せない。
直後に全身に襲いかかる沈黙の重さに気が狂いそうだった。無数の視線が肌を突き刺す。呼吸が早まる。痛いほど心臓が跳ねる。
やめろ。見るな。おれを覗くな。あばかないで。おねがいだから。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。吐いて、吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて――すぐに追いつかなくなって、たちまち小さく喘ぐようなものに変わった。酸欠で視界が霞む。身体が傾く。
その後のことはあまり覚えていない。
あまりの剣幕に驚いた周囲の人間が入江から引き離して、過呼吸で倒れた名前は医務室に担ぎ込まれた、らしい。後から人伝に聞いた。
医務室のベッドで目が覚めた。
すぐに気がついたスタッフが駆け寄ってきてあれこれと体調の確認をされたが、特段何もないと返した。しばらくすると白衣の長身の男――この合宿でメンタルコーチを務めている齋藤が入ってきた。
彼はこの一件でどこまで自分のことを知ったのだろうか。自分はどこまで闇を暴かれてしまったのだろうか。考えても仕方のないことばかり頭に浮かんでは消えていく。
「名字くん。キミは残念ながら謹慎です」
「……きん、しん」
ゆっくりと齋藤から告げられた処遇を反芻する。ひと単語口にするだけでやけにもたついた。ぜんぜん呂律が回らない。こんなことは初めての経験だった。
物心ついた頃から演劇にまつわる熱心な教育を受けてきた。よく聞き取りやすい声だねと褒められる。全てを捨てたはずの名前に唯一残った長所とも言える。
「おや。不満ですか?」
「いいえ、当然だと思います」
双方ともに三日間の謹慎。入江と鉢合わせないよう名前は別棟に移動せよとのことだ。
罰を受けるのは当然だと思う。そして犯した罪にしては軽すぎる処遇だとも。大きな揉め事を起こし、同胞に危害を加えた罰として合宿所を退去させられても文句は言えない。
未熟さゆえに騒ぎを大きくした責任は自分にあると思っている。どうしてもあのまま我慢できなかった。受け流すことができなかった。全て受け止めてしまって、決壊した。
「寛大な処分に心から感謝しています。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
深々と頭を下げる。
齋藤は小さく息を吐いてから、やや躊躇うように告げた。
「入江くんから伝言を預かっています。聞きますか?」
頭を下げたまま考える。
頷いてしまったほうが、きっと楽だ。入江の伝言を聞いて、それっきりになればいい。二度と業務連絡以外の会話しなければいい。騒ぎの元凶である自分はきっと来年は合宿に呼ばれないだろうし、それで終わりにできる。
けれど。けれども。
顔を上げ、小さく首を横に振った。
「……いいえ。謹慎が明けたら直接聞きます」
「そうですか」
もう一度お礼を言って医務室を後にしようと扉に手をかけようとしたところ、背後から名前を呼ばれた。ゆっくりと振り返る。
齋藤はいつもの柔らかい笑顔を消して、真剣な面持ちになっていた。しかしそれは一瞬で、たちまち元の顔に戻った。不思議に思いながらも言葉を待つ。釘でも刺されるのだろうか。
「good luck」
低く心地の良い声が届く。齋藤の意外な言葉に名前は瞬きをして、三度目のお礼を言った。
自室から少ない荷物を指定された部屋に運び込んで、三日間の謹慎が始まった。
比較的広い部屋が与えられている上位層の面々とは違い、下級コートの名前はずっと四人部屋で生活を送ってきた。図らずとも合宿初の一人部屋である。
「はーーー」
誰にも気をつかうことなく、大きなため息を吐く。
子役時代は母親が常に付きっきりだった。テニスに打ち込んでからは家ではご飯を食べて風呂に入って寝るだけの生活を送っていた。合宿ではなににつけても周りに誰かがいて、部屋には同室者がいた。だから名前の人生の中で、一人っきりの時間を享受できていた期間はあまりにも短い。
ふと隣を見た。そこには目を逸らし続けたものがいた。名前の子供の姿をした、忌まわしい幻影。
入江は言っていた。自分の演技を褒めるのに、台詞がなくても伝わってきたと。本当にそうだろうか。
幻影は相変わらず物言わぬまま、じっとこちらを見つめてくる。こちらも負けじと見つめてやる。幻影が現れてから初めてしっかりと顔を見たのではないだろうか。
子供らしい黒くてまんまるな双眸。確かこの時、右上の歯が一本抜けたんだっけ。地方公演真っ只中で、ホテルでティッシュを噛み締めて凌いだのを覚えている。小さな口はまっすぐ結ばれていて確認することはできなかったが。
どんなに無駄な問いかけなのだとしても、問わずにはいられない。
「お前は、なにを望んでいるんだ」
◆◇
入江は謹慎が明けて、件の後輩が訪ねてきたことに驚いた。まずは齋藤コーチから伝言を聞かなかったことに。――そして、彼の隣にぴったりと寄り添っていた子供がいなくなっていたことに。
「えっ?きみ、その……」
「ああ、本当に見えてたんですね。入江さんは凄いなあ」
慌てて部屋中を見渡すけれども、あの子供はどこにもいない。彼のかつての子役時代、『アマデ』の姿をした幻影。きっと彼と入江にしか見えない、不思議な存在。
たまたま彼が子役だったことを知って、片っ端から出演作を見た。そして初めて『彼』が見えた時は我が目を疑った。彼に寄り添う子供の頃の『彼』は、入江の一番大好きな『アマデ』の姿をしていたのだ。本人と入江にしか見えていないことが分かって、浮かんだのは歓喜だった。
まるで同じだ。『アマデ』を認識できるのはヴォルフガングと観客だけで、『彼』を認識できるのは彼と入江だけ。まさしく『モーツァルト!』におけるヴォルフガングとアマデの縮図そのものだった。
こんな奇跡があっていいのかと震えた。興奮冷めぬまま彼に声を掛けた。柄にもなく舞い上がっていたし、なんとしても伝えなくてはという謎の使命感に燃えていた。
しかし入江は加減を間違えた。彼のキャパシティを見誤った。追い詰めてしまった。初めて人心掌握に失敗したのだ。近くで見ていた種ヶ島からは、はしゃぎ過ぎだと嗜められてしまった。
「『彼』、消えてしまったの?」
「はい」
消えてしまった幻影に戸惑う入江の疑問を、あっさりと彼は肯定した。
「なぜ?」
「おれが本当にやりたい事見つけたから、ですかね」
「……そうか。『彼』はキミに、思いを伝えられたんだね」
ようやくだ。『彼』が必死に伝えようとしていたことが、ついに届いたのだ。入江は目を見開く。
彼の反応からして、それなりの長い年月を共にしてきたのだろう。話しかけた時の彼は明らかに憔悴していた。『彼』の出現が子役引退と同時なのだとすれば、かなりの時間だ。その間ずっと彼は自分の影から逃れようと必死にもがいていたはずだ。どんなに孤独で、苦しかったろう。
だから、『彼』の訴えがどうしても彼に届いて欲しかった。その代償として想像よりはるかに彼を傷付けることになってしまったが。
「はい、入江さんのお陰です。ありがとうございます」
そう言って彼は頭を深々と下げる。慌てて入江は肩を掴んで頭を上げさせた。彼が謝る必要なんてどこにもない。むしろ初手で謝罪をせずに『彼』の話を始めた入江が悪手だった。
「ありがとうだなんてそんな、むしろボクが謝る方じゃないか!無遠慮に踏み込んで、キミを好奇心で傷つけて、本当になんてお詫びしたらいいのか……」
「怒ってませんし、謝罪も要りません。おれは入江さんに感謝しています。貴方がいなければ、きっとおれは一生向き合おうとはしなかった」
おれを、あいつを見つけてくれてありがとうございます――そう言って彼は笑った。
入江は初めて彼の偽りない笑顔を見た。ああ、見惚れてしまうほど魅力的だ。彼の成功を確信する。
「連絡先、教えてくれませんか。仕事が決まったら見て欲しいので」
「うん、うん……!絶対見るよ。どこにだって行くから」
「ふふ、ありがとうございます」
連絡先を交換して、握手をした。数日前は強張って青白く震えていた彼の手は、今は生き生きと輝いて見えた。いのちが満ちている。空っぽだった体に、再び火が灯されている。
これほど嬉しいことはないだろう。入江は目を閉じて彼の手を強く強く握った。閉じた瞼の向こうで、彼が小さく笑う気配がする。
その翌日、彼は合宿所を去った。
地元の駅から何度か乗り換えをして京都駅へ。スマートフォンをかざして新幹線の改札を抜ける。東京行きの列車の指定された座席に座って、二時間強。そこからさらに乗り換えを重ねて、ようやく入江は都内の劇場にたどり着いた。
ここがゴールであってゴールではない。
他の客と共に入場待機列に並び、順番がきたら係員にチケットをもぎってもらう。今度は物販の列に並び、パンフレットと彼が写っているグッズ類は全て購入した。肩から掛けたトートバッグに大事にしまう。彼が知ったら「それくらいお渡ししますけど」などと宣ってきそうだ。
彼の芸能界復帰は世間を騒がせることはなかった。子役上がりの肩書を持つ俳優はありふれているし、出戻りする俳優もさして珍しくないのだそうだ。ひっそりと舞い戻った彼は何年振りかのレッスンを再開し、オーディションを受けて、見事に役を勝ち取った。
復帰に際しての短い記事や、共演者とのインタビューも掲載されたが、大したPV数にはなっていない。だがこれでいいのだ。彼は過去の栄光を振りかざしはしない。
チケットに記載された席について、パンフレットを広げる。ぱらぱらとページを捲り、彼のプロフィール欄に目を向けた。そこには彼の今作に対する意気込みと、かつての彼の栄光が羅列されていた。そして末尾には、『今作にて芸能活動を復帰』と締め括られている。
思わず目尻が緩む。
ようやくここまできたのだ。彼が今に至るまでにどれだけ苦労したかなど、入江には分かるはずもない。
けれど入江は知っている。彼の幼い幻影を。大きくなった自分に必死に訴えかけるその横顔を。それは彼だって知らない、入江だけの特別な記憶だ。
「……!」
客席燈が徐々に暗くなっていき、ついに消える。訪れる沈黙。微かにモーターの駆動音がする。いよいよ待ち望んでいた幕が上がるのだ。
その向こうにはきっと、入江の知らない名前が待っている。
2025/02/22
自分でも驚いてるんですが、ネタを思いついてから書き終わるのに一年半くらいかかりました。怖。入江と同担とか嫌だなって思いました。
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