:: 19:りっぱな人間
世界は案外脆かった。随分あっさりと崩れてしまった。それを唯一耐えたとされている日本だって、何かが起これば崩れてゆく。
シビュラのもとに育まれた人類もやはり脆かった。絶対的に崇められていた神話は崩壊し、信託の巫女は地に伏し腹から血を流す。空っぽの身体からは何が生まれ出でるのだろうか。
織は次々とネットに上げられる動画を見つめていた。検閲や削除をプロテクトするグソンのプログラムにより、この動画たちは日本に廻り続ける。恐ろしいことだ。
この恐怖は伝染する。取り返しのつかない病となって人々を蝕んでゆくのだ。それはきっと、死に至る病だ。
織は見飽きたのか嫌気が差したのか、手元に置いてあった本を開いた。栞を抜き取り、続きの文字を追う。
あるところに差し掛かったところで、織は同じ空間で作業をしていたグソンに話しかけた。
「ねぇ、グソンさん。"りっぱな人間" って何だと思います?」
「それを俺に聞きますか?」
「……ただの余興ですよ。で、どうなんです?」
「さっぱりです」
織ははなから期待していないとでも言いたげに薄く笑って、文字に視線を落とす。
「狂人日記、ご存知ですか?」
「さぁ……」
「昔の"中国"で書かれた作品です。これは作者の魯迅が愚かな人民の目を覚ますための、啓蒙活動のツールだったんですよ」
「へぇ」
「文学によって彼は腐敗した中国を変えようとした」
「今じゃできそうにありませんねぇ」
織もその意見には賛成だ。昔とは状況が全く異なるため、文字という現実味を持たせる幅が少ないツールでは、現代人の精神には届かないだろう。だからこそ槙島たちは、恐怖や危険を伴う現実性のあるものを植え付けている。
出来れば、それは暴力的でない方がずっといい。しかしそれは空想上の理想論に過ぎない。猟犬として飽きるほど社会を見てきた。不可能だということを知っている。
「そんな狂人日記から槙島さんみたく引用してみましょうか」
父母が病気になったら、子たる者は自分の肉を一片切り取って、よく煮て父母に食わせなければ、りっぱな人間ではない
『狂人日記』魯迅
「今はそんなことしなくたって、サイコパスさえクリアなら "りっぱな人間" だとシビュラが言ってくれますけど。いや、そこまでしてまで立派だと言い張る意味はない世界になったんです」
「……俺、何かアンタの恨みでも買いましたっけ?」
「言ったでしょう。余興だって」
妖しく微笑む織に、グソンは背筋を凍らせた。僅かながらに悟ったのだ。織が自分のことをどう思っているのかを。
織は先程のことは何とも思っていないのか、また椅子に座って読書中だ。どうやら動画はお気に召さなかったらしい。苛々をさりげなく向けた時の表情とは相まって、本を読む彼の姿は生き生きとしている。数分前のの狂気に満ちた表情が嘘のようだった。
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地上40階からの眺めは朧だ。落ち着きのあるBGMを聞き流し、織は窓の外を見つめていた。
織が外の世界に出てから気付いたこと。それは、窓からの景色が案外好きだということだった。窓という枠に切り取られた景色が好きだった。恐らく潜在犯として外界と碌に接してこなかった期間が長かったせいだろう。
槙島と織、その向かいにはグソンが座っている。グソンは落ち着かないのか、やけに饒舌に話し始めた。
二人の会話には参加せず、会話がBGMと同化していくのを遠くに聞いていた。織はマドレーヌをひとつ手に取り口に含んだ。優しい甘さが口の中に広がる。
これからの予定と彼らの話の内容を比べて内心くすりと笑ってしまうのだ。何だか、まだこの国が平和で、この先穏やかな人生が待っているんじゃないかとさえ思えてくる。
これはいけないと思いつつも、こんな心理状況を楽しんでいる自分がいた。
バスからの景色も新鮮だ。護送車には当然窓がない。そういえば、窓の景色がみえる乗り物に乗るのは幼少期以来だった。少し高い眺めがいい。
「何か面白いものでもあるのかい?」
「別に」
「でも、君の顔は随分楽しそうじゃないか」
「馬鹿にしてるならはっきり言えばいいのに」
「してないよ」
「槙島さんにしては下手な嘘だね」
「……これは手厳しいな」
軽口を叩き合っているうちに目的地についた。厚生省本部、ノナタワー。絶大な権力の大きさとこの国の繁栄を示す、平和と安寧のモチーフ。この中にはこの国の全てを司る巫女が眠っている。
見上げればかなり高層ビルだった。このアングルで見るのは初めてのように思われる。
となりで槙島が笑う。
「さぁ、それでは諸君。ひとつ暴き出してやろうじゃないか。偉大なる神託の巫女のはらわたを」
織もつられて小さく笑みを作った。彼ならきっと来てくれる。その時は――
「……待ってるから」
/20130428
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