笑う月
あの日、白石が榮の家に泊まった日以来、ふたりの関係は少しだけ進展した。体に優しく触れるようになった。
手のひら、髪、頬、肩…彼は好んで自分に触れてくる。それが榮は嬉しくて堪らなかった。
ある日外に出ると、そこには蝶の死骸が転がっていた。
かわいそうに、生まれる時期を間違えたのか、それとも冬を越そうとして越せなかったのか。冷たく乾いた冬の風に嬲られて、脆い体躯がかさりと移動する。そのうち粉々になって、榮以外の誰にも知られることなく朽ちてしまうのだろうか。
そこまで考えを巡らせて、白石の飼っているカブトムシのことを思い出した。カブリエル、彼は元気だろうか。朝、顔を合わせたらそれとなく聞いてみようか。
冬を越せないのは生まれ持ったさだめだとして、もし生まれる時期、あるいは場所を間違えたのだとしたら。ふいに自分と重なって見えて、微かに喉が震える。
――おなじ。じぶんとおなじ。うまれるべきではなかった、いのち。
違う、やっと自分を必要としてくれる人が現れて、いや、彼を自らそう仕向けたのであって…ぐるぐると変な方向へ回る思考を無理矢理遮断して足を踏み出した。
このままでは遅刻してしまう。遅刻したら、彼は自分のことをきっと心配する。だから榮は、どうにかして行かなくてはならない。
ふと見上げれば冬の白んだ空に薄く三日月があった。もう少ししたら消えてしまう夜明けの月だ。その丸い笑みに、榮はつられて自嘲の笑みを零す。
ああ、今日はまだまだ終わらない。始まったばかりだ。気怠さを白い息とともに吐き出して前を向く。
この先に、きっと、彼が待っている。そう思うだけで心が軽くなるような錯覚が生まれ、榮を笑顔にさせた。
教室に入ると、彼は近くの席の男子と談笑していた。邪魔をするなんて無粋な真似はしたくない。特別なにかするわけでもなく、おはようと声をかけてくれる級友におはようと返して自分の席に向かう。
ふと視線を感じて顔を向けると、白石と目があった。瞬きでそれに応えれば、色素の薄いひとみが柔らかく細められる。
「榮」
「おはよ」
「おはようさん」
そうだ、彼に何か言わなければ。
口を開く前に朗らかな口調で話かけられる。
「なあ、春休み。どっか行かへん?」
「…春休み? まだ先じゃない?」
「んなもんあっという間やっちゅうねん! なあ謙也」
「せやせや、ボケっとしとったらすぐやで」
「そんなもんか」
「おお、そんなもんや」
「それもそうだね。何しよっか」
「せやから、どっか行こう言うてるやんか」
「ええなぁ、それ! 俺も混ぜてや!」
一気にテンションが上がるのがわかった。盛り上がりを見せる二人をそっと見遣る。
忍足くん、いや、彼には謙也くんと呼べと言われている。謙也くんと白石との付き合いは、俺よりも遥かに長い。いくら俺が彼の『特別』になったって、謙也くんが大切な親友であることは、変わりようのない事実だ。
俺は決して謙也くんを疎んじているわけではない。
実際彼は愚直と言っていいほど真っ直ぐで、裏表のない性格で、明るくて、面倒見がいい。
隣にいて苦にならない貴重なタイプだ。いままでこんな人が周りにいなかった俺は、彼と一緒にいてとても楽しいと思う。
俺は、わりと彼のことを好いているのだ。
「なあ、こことかええんちゃう?」
「んー俺、大阪は詳しくないから任せる」
「ほな、メジャーなとこから潰すのがええな」
「せやな! 」
ああ、それでも。
どこかで妬む自分がいる。自分が嫌っているのは、紛れも無い自分だった。ぐるぐると腹のなか、誰にも明かせない感情が渦巻いては沈殿してゆく。
ひとり目を閉じる。朝に見上げた月が脳裏に浮かび上がり、俺を嗤った。
2015/11/09
2015/12/31 加筆修正
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