アリスのカメラ
今夜は一段と冷える。冷え切った指先を炬燵の中へ押し込んでほう、と息を吐き出す。
「おつかれさん。ありがとうな」
「ん」
白石の労いの言葉に薄く笑って身を縮こませる。いつもは大したことないのに、今日ばかりは寒くて寒くて困る。
「あ、そうだ。風呂沸かしてくる」
「おおきに」
漸く温もりを取り戻した体が再び外へ出されて、まるきり失念していたなと思う。何故一度で済ませなかったのか。気が緩みすぎている。浮かれているというべきか。
幾ら部屋を暖めたところで廊下は寒いまま。しかし風呂に入らないというのも無理な話であり、客人にそういった類のことを手伝わせるのは気が引けた。
風呂の準備をして戻ってくると、白石は炬燵の上に置かれた蜜柑を剥いていた。整った指先が橙の皮に沈んで、果実を露わにする。この蜜柑は白石の母親が手土産にと持たせてくれたものだ。
「おかえり」
「ただいま。それ、甘い?」
橙の玉は見たところ瑞々しく、とても美味しそうに見えた。柑橘類のいい香りがする。
「どうやろ。…んー、めっちゃ甘いで」
「ちょーだい」
「ほな榮、あーん」
「……ん」
まずは味見からしてくれた。
彼の指に摘まれた一房を唇で受け取る。甘い汁が袋から破れて、じんわりと舌に馴染んだ。これは美味しい。いい貰い物をしたものだ。
「あまい。おいしい」
「榮は甘いのが好きなん?」
「うん、甘いのがいい」
「酸っぱいのもええけどな」
「俺はワガママだからね」
自分も食べようと新たな蜜柑に手を伸ばした。皮を剥けば同じようないい香りが広がる。
一房口に含めば、白石のものより酸い味がした。けして不味いわけではない。ただ、白石の方が美味しかった。思わず顔に出てしまい、それを目敏く見ていた白石がおかしそうに口角をつり上げた。
「なんや、酸っぱかったんか? ほら、こっち寄越しや」
「…へ?」
手のひらの蜜柑は白石の手によって攫われる。代わりに白石の剥いたものがころんと載せられて、思わず白石の顔を見遣った。
「ワガママな榮、珍しいし可愛えやん」
そう言って笑う彼に釣られて笑う。
惚けているうちに自分が剥いた蜜柑は白石の口の中へと消えていってしまった。
「…ばかじゃないの」
俺は、ほんとうにすごく我が儘だよ。そうは言えずに飲み込む。
ニコニコと笑う白石の視線に促されて甘い蜜柑を頬張った。ああ、甘い。甘いのは好きだ。
綺麗に蜜柑を完食し、相変わらず楽しそうに自分を見つめる白石へと視線を戻した。
「蜜柑ありがと。お母さんにもお礼言っといて」
「任せとき」
家に来たばかりの時はあんなに畏まっていたくせに、今の彼はよく笑う。自惚れたくなるのを堪えて、そっと目を閉じた。
▼△▼
風呂にも入って、暫くは炬燵でポカポカ温まりながら下らない話に花を咲かせていた。榮が甘いココアを作れば彼はまた子供のように破顔して榮を褒めた。
健康的な中学生であるふたりは日付が変わる少し前に就寝する準備を始める。
まず初めに客人用の布団で寝ることを提案したが、彼にあっさりと断られてしまった。自分が布団で代わりにベッドで寝てはどうかという代案は、同様に却下される。
「別にええやん、同じ布団で。榮もあったかくなってええやろ」
「えー、よくない」
「榮、ほんまにあかん…?」
「……っ、あかんく、ない」
「ほな一緒に寝ようや」
「うん」
しおらしい表情に騙されて布団に潜り込む。二人分の重さを受けてベッドが軋んだ。
狭いが、確かに暖かい。人肌をすぐ近くに感じて安心する。
触れたかった温度がすぐ隣にある。その事実に心臓がとくりと動いた。30分も経たないうちに寝息が聞こえてきて、小さく寝返りを打つ。彼の寝顔を盗み見て、細やかな優越感に浸った。
「…ごめんね」
返事はない。いいや、返事なんか欲しくない。
それでも胸の内にとどめておくことはできなかった。溢してしまいたかった。
「愛情さえくれればきっと誰でもよかったんだ」
「俺が榮を愛してるのが分かれば、俺だけ愛してくれるん?」
「……な、おき、て」
「こんな状況で寝るなんて勿体無いやろ」
至極楽しそうな顔で、逃げようとした俺の手を掴む。その目が、続きを言う以外許さないと言っている。
何も考えられず、浮かぶままに言葉を紡いだ。ひどい言葉だ。
「愛して。おれを、あいして。おれは、そういうひとが、すき」
「その言葉だけで十分や」
「……なんで。怒って、ない?」
「怒ってへん。好きになってくれる人が好きっちゅーことやろ? 何も悪いことあらへん。俺、榮が好きやで」
「…しら、いし」
震える声で名前を呼べば優しく抱きしめられて、堪えきれない嗚咽がこぼれた。ぐちゃぐちゃの脳内が幸せだと啼き喚く。
視界は水の膜で歪んで、彼の存在以外は何もかもわからなくなる。見慣れた天井も、遠くにあるはずの家具も、わからない。彼以外、自分の世界にいない。
薄暗い多幸感に榮はまた涙を零した。
2015/11/09
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