天使の囀り
呼ばれた声に応じるも、彼から返事はこない。その代わりに、強く腕を掴まれた。
つま先が向かう方向はわかっている。寂しくて空っぽな俺の家だ。あれこれ考える間もなく、あっという間に到着してしまう。
空いている方の手で慌てて鍵をあける。間髪入れず、有無を言わさぬ強さで引き込まれた。
そんなに焦らなくたって、俺は逃げたりしないのに。
扉が嫌な音を立てて閉まると同時に肩を掴まれ、壁に押し当てられる。
そうしてようやくかちあった視線に、脳の奥がびりりと痺れた。――切羽詰まっていて、俺のことしか見てないような白石の顔。こんな顔、とても久しぶりに見た気がした。
あの頃、俺が白石の一番柔らかいところに付け込んで、知られぬよう掻き乱していた頃の顔だ。忘れるもんか。死ぬまで忘れてやるもんか。
「なあ…榮」
「うん、白石」
「榮っ、榮…!」
壊れたように白石が俺の名前を呼ぶ。
できるだけ優しく彼に言葉をかけて、元からとち狂っている俺は、首元に忍び寄る指先に知らないふりをして微笑んでみせるのだ。
「……うん、いいよ」
「榮、堪忍な」
「きて、白石」
白い指先が、喉元に食い込んだ。
息が半ば強制的に吐き出され、そして吸い込めなくなる。ちかちかと視界が白く瞬いて、体がぐらつく。立っていられない。
壁伝いにズルズルと座り込むと、白石に所謂マウントポジションを取られたのがわかった。
「っ、く…ぅ……!」
聞こえるのは、白井がひたすらに俺の名前を呼ぶ声と、わずかに俺の喉から空気が漏れる音。
暗い部屋にはそれだけが響いていた。
酸素を求めて唇がだらしなくひらく。呼ばれている声に応じようとしても、何もかもが痛みと苦しみに支配されて、全て白く溶けてわからなくなってしまう。自分の家にいるのは明白なのに、まるで別の場所にいるようだ。
そう、俺はこの時確かに、完全に白石に支配されていた。恍惚に脳が塗り潰される。
ついには痛みさえ手放した。朧げな意識が拾える情報は、ひとつふたつと次々に減ってゆく。
無意識に白石の腕に縋っていた指が、力が抜けたためにするりと離れた。ごつりと派手な音を立ててぶつかった硬くて冷たいフローリングの感覚は、もはや俺の脳には届かない。
ただ、名前を呼ぶ声だけがかすかに聞こえる。
それさえ途切れたら、俺はどうなるのだろう。
この秘めた関係が何も知らない他人に晒されて、どこかの誰かが知りもしないのに被害者の少年は〜だとか、加害者の少年は〜だとか、あることないこと騒ぎたてられるのだろうか。
どこかの誰かに可哀想だと涙を流されるのだろうか。どこかの誰かが白石を責め立てたりするのだろうか。
――それは困る。これは俺が勝手に彼を陥れて、俺が仕向けて、そして何より、俺が望んだのだ。
俺のつくった、俺のための楽園。壊すのは、俺でなくてはならない。俺だけのもの。
「……榮!」
ふたたび浮き上がる意識。急に吸い込んだ空気に激しく噎せた。
背中に手が回って、先ほどまで俺の呼吸を奪っていたその手で優しくさすられる。顔を覗き込まれた。どんな顔をしているんだろうか。
「う、ぁ……白、石」
「榮っ…!」
彼は泣いていた。真っ赤に目を潤ませて、きれいな雫をはらはらと落としている。
俺を今の状態にしたのは間違いなく白石なのに。それがなんだかおかしかった。
「あかん、榮、ごめ、ごめんな、おれ、おれ……ッ!」
「俺は大丈夫だってば」
首を絞められるのは分かっていたと言えば目を見開いて、さらに目を潤ませた。
持ち掛けたのは俺だ。やってしまえと無言で唆したのは俺だ。最近全くしなかったとはいえど、終わりを取り決めた覚えはないし、当然あの約束は有効だろう。
白石はなんにも悪くない。
ただ、殺されては本末転倒だからそこまではしないで欲しい。俺は彼を救いたいのであって、奈落に突き落とすような真似はしたくないのだ。仮に、彼が一時的にであれ救われるのだとしても。
こうやって傷付けられたあとは、彼は決まって俺を抱きしめる。潰されそうになるくらい、つよく、きつく。
正直こっちの方が痛いんじゃないかと思う時もあった。今回は流石にさっきの方が痛かったけど。こうされるのは結構好きだ。
「……榮」
弱々しく名前を呼ばれると、なんだかそれだけで全てがどうでもよくなる。縋られている自分に、俺は全身で喜びを感じている。
ああ、コレが欲しかった。
「榮、すき、榮、榮、きらいにならんでや、榮、すき、すき、榮、榮」
「大丈夫。俺は白石のこと、好きだよ。なにも心配しなくていいから。俺を信じて」
「ああ、ああああ……」
そうやって繰り返し繰り返し呼ばれる名前は脳内で反響して、まるで何か別物の音のように感じた。
2016/10/23
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