冷たい方程式
歯型を付けられるのは楽しかった。
紛れも無い快感だった。それが薄れないうちに上書きを強請るのも楽しかった。笑みを浮かべながら指の腹でひとつひとつ確かめる。
これは榮に対する白石の執着のあかし。密かなふたりの関係を物語る確かな存在なのだと。
しかし、終わりはある日突然やってきた。
白石が大規模な合宿に参加することになったのだ。当然榮との接触の機会は絶たれ、愛しい跡はだんだんと薄くなり、そしてついには消えてしまった。
悲しいと思った。
そして、自分に寂しい思いにさせないようにと律儀に楽しそうなメールを毎日送ってくれる彼が信じられなくなった。手をすり抜けた感覚を覚えた途端に、彼を信じられなくなってしまった。自分を本当に求めていないような気がしてならなかった。――そして、そんな自分が憎らしいと思った。
いや、本当はわかっている。種明かしなんてするまでもない。
榮の愛は一方向で、依存をしているのは榮だけだ。彼は本当は榮など必要としてない。そう思い込ませていただけだ。
疑念を抱く前に耳元で囁いて、また思い込ませての繰り返し。距離が離れてそれが出来なくなった今、彼を繋ぎ止める手段はない。
ああ、ついに夢が醒めたのだ。
共依存に見せかけていただけ。榮にとってとても都合の良いしあわせな夢は、ここでおしまいなのだ。
リアリストの自分は、長くは続かないと分かっていた。無邪気な子供の自分は、それが永遠に続くと願っていた。
この身がふたつに割れてしまいそうな感情をなんとか飲み込んで、携帯の画面を見る。もうすぐ合宿から帰ってくるらしい。それにおかえり、とだけ返してベッドに放り投げた。
不思議と涙は出なかった。
▽▲▽
季節はすでに夏から秋へと移ろい、中学校生活最後のイベントを満喫すべく、学生たちは校舎に笑い声を響かせていた。
メインイベントと言っても過言では無い。中学生最後の文化祭が近いのだ。
みんなが楽しそうに準備に奔走している頃、彼は帰ってきた。
世界一になった有名人だし、文化祭の準備で各方面から引っ張りだこな状態で、帰ってきた初日以外大した会話をした記憶がない。ただ「おかえり」と「優勝おめでとう」と伝えるだけで終わってしまった。
今日もあちこちから色々な声が聞こえる。遠くでそれを聞きながら、屋上のフェンスに凭れ掛かる。ああ、楽しそうで何よりだ。
榮はどこか冷めたような目で、手元のプリントを見つめていた。進路希望調査。最終学年にはお馴染みの紙である。
今手元にあるのは何枚目なのか失念してしまったが、毎回白紙で出しては担任を困らせている。
お前なら何処にでも行けるというのは、榮にとっては何処にも行けないことと同義だった。
何にでもなれるモノは、結局は何にもなれないまま終わる。方向性が無いものは、結局どこにも辿り着けはしないのだ。
わかっているからこそ、尚更どうしたらいいかわからない。
「……あみだかなあ」
「んなアホな」
紙から視線をあげると、そこには白石が立っていた。クラス企画絡みだろうか、今日の榮の役目はもうないはずなのだが…。
「白石、どうしたの」
「その紙や。はよ出してくれって先生が」
「…ああ」
「期限昨日までやで」
「今度こそどこか書けって言われてたんだけど、まだ決まらなくて」
「せやったら、俺と同じとこ書いたらええやん」
そういう事、どうしてさらっと言ってしまうのかなあ。
「…だめだよ、終わりにしないと」
思わず口走った言葉に後悔するより早く、喉元に白石の手が伸びてくる。
ああ、しまった。
弁明よりも早く気道を圧迫され、息がつまる。潰された蛙のような声が漏れて、視界が激しく揺れる。そのまま馬乗りにされて、更に重さがかかった。
「なんで、なんでや、榮。なんでそんなこと言うん? なあ、榮」
自分の言い訳なんか聞く気なんてない癖に。どうして尋ねてくるのだろう。
無音で笑って、首を絞める白石の手に自分の手を重ねて力をかける。
そうだ。
その手で殺して欲しいような、その手を汚して欲しくないような。いつも揺れていた思いがあったけれど、そうなのだ。どれを選んだとして、帰結する先は同じだ。
どうしようもなく投げ出したい。すべてを、努力して積み上げてきたすべてを壊してしまいたい。それを自覚して、また笑ってしまった。なんて愚かしいのだろう。
だいすき。
声にならない声で囁いて、目を閉じる。名前を呼ぶ声が遠ざかってゆく。
さあ、次はなんの夢を見ようか。
2018/08/31
←:back:→
≫top