月は無慈悲な夜の女王
温もりを失いかけている指を擦り合わせて、榮は玄関の扉を開ける。そして真っ先に空調の電源を入れた。ついさきほどまで無音だった暗い部屋に機械の駆動音が響き、次に遅れて部屋の明かりを灯した。
榮の背後に立ち、不安げに視線を彷徨わせている少年は、いつもの凛々しさは何処へやら。借りてきた猫のように大人しくなっていた。
「お、お邪魔します…」
「畏まったって、此処には誰もいないんだけど」
「それは、わかっとるけど」
情けないくらいに眉を下げて堪忍な、なんて言う相手に強くは当たれない。色々言いたいことはあったが榮は大人しく引き下がることにした。きっとなにか、思うところがあるのだろう。処理しきれない大きな感情と向き合おうとしているのに、そこへ水を差す気にはなれなかった。
榮の住むアパートに客が招かれるのは、親族を含めてでさえ初めての事だった。自分以外誰も踏み入れたことのなかった場所にはじめての他人が入ってくるという感覚は、榮にはくすぐったく感じる。
けして冷え切った家庭環境を嘆いているわけではないし、自分の狭すぎる友好関係にまったく不満はない。自らの意思で選び取ったものだからだ。折坂榮という人間は基本的には他人に無関心で無頓着なのだ。そして一定の人間にのみ、その狭き門を潜らせ、甘い錯覚を引き起こし、さらなる深みへと引き摺り込むのが半ば無意識にやっている榮の常套手段だった。
そんな榮が入学以来興味を持ち、そして不意をついて接近し、するりと心を掠め取ることに成功したのが、表面的には同級生、事実を言えば恋人である白石蔵ノ介であった。
一見白石が榮を押しているように見えるが、実はそうでもない。好きになるように仕向けたのも、心の隙間にうまく入り込んで一線を越えさせたのも、すべて榮だ。
最初にあんなことまでしたのだから部屋に上がるくらい大したことはないのでは、と榮は思う。
しかし白石が案外初心で奥手な男であることもよく知っていた。あの時は精神的な余裕がなく、あっけなく自分の言葉に従ってくれたものの、それ以降は親しい友人がする程度のことしかしていない。
部屋に招いたこともなければ、あれ以来キスもしていない。だから今日色々な期待を込めて白石とお泊まり会まがいの事をする、つもりでいた。
榮はふてくされたように唇を歪め、小さく舌打ちをした。白石に対してでない。自分の手際の悪さに苛立っているのだ。
強行手段に出ないのは、自分が最も忌み嫌う親を無意識のうちに反面教師にしているせいか。忌々しい血の繋がりを振り切ってしまえたら、どんなにいいだろう。
「ね、白石。ご飯つくろう。手伝ってほしいな」
白石が自分のことをどう思っているのかよく知っている。距離の取り方心の癒し方揺さぶり方、彼の闇を見つけた時から全部学習した。だから、こっちを向いてほしい。
白石はかなりの間を空けて小さく頷いて顔を上げた。ああ、ようやく目が合った。それに満足して榮はにっこりと笑みを作った。
▼△▼
あれこれ調理を進めていくうちに、通常運転とはいかなくとも幾分かマシになった白石の横顔を盗み見る。
一人用のキッチンに二人で並んで食材を切っていく。それを白石が鍋に入れる順番ごとに分ける。
「…共同作業、やなぁ」
恍惚とした表情で白石がこちらを向く。
この程度で?! うっかり包丁を取り落としそうになったのを堪え、ふわりと笑って見せた。
「白石さえよければ、また今度もやろう」
「おおきに!約束やで」
その一線は、あまりにも曖昧で脆い。薄皮一枚で分け隔てられている。
最後の食材を切り終えて、煮立った鍋の蓋を開けた。立ち込める湯気を確認して作業を進める。
「榮は手際ええよな」
「ん? これでも毎日料理してるからね」
「弁当、作ってくれてもええんやで」
「それは白石のお母さんに申し訳なくなるから嫌」
「あかんの…」
明らかに気落ちしている白石。素直に褒めてくれるだけでいいのに、何故断りにくい話題を振ってくるのか。
「そのうち食べたくても食べられなくなるんだからさぁ、今のうちに食べときなよ。そのあとは俺が作るから」
「ほんまに?」
「ほんまに」
「…わかった」
その気持ちは嬉しく思う。けれども、食べたくても食べられなくなるものを今すぐ捨てさせるようなことは出来なかった。
自分は母親の手料理など、一度たりとも食べたことがない。寧ろ母親の母乳で育ったのかさえ疑問だ。もし難なく出ていたら「勿体無いから」と飲ませてもらっていたかも知れない。あの人はそんな程度の人だ。
自分と不確定な未来での約束を取り付けたのに満足したのか、白石はなんだか緩んだ顔をしている。部屋に入ったときの緊張感など欠片も感じられない。いつもの彼に戻ったようで安心した。
そのあと無事に完成した鍋をテーブルの上に敷いた鍋敷きに乗せて、炊き上がったご飯をよそったお茶碗と、箸とお玉を準備する。男二人で囲う食卓は、華やかさはないものの、栄養や味、ボリュームには太鼓判を押せるほどだ。
他愛もない話をしながら鍋をつつく。育ち盛りの男子二人の手にかかれば、半刻も経たないうちに鍋の中身は無くなってしまった。
客人である白石をなんとか押しとどめて自分は洗い物へと移行する。慣れてしまったこの作業。リビングからはテレビの音が漏れて聞こえるが、彼の声は聞こえない。
「…つめたい」
洗い物を終えた手は、この部屋に戻ってきた時よりも冷たくなっていた。この手を差し出したら、温めてくれるだろうか。
2015/10/08
←:back:→
≫top