息をひそめて


 それからまた数日経って、学内で彼を観察することや、彼を発見できるタイミングを見つけることも容易になってきていた。これくらいがいいと思っていたはずなのに、欲望を抑えきれないまま定位置だった大食堂前の廊下や運動場だけでなく、彼の教室や授業なんかにもこっそりついていくようになっていた。いつも歩き去っていく彼の大きな歩幅や、軽やかに運ばれる長くてすらりとした脚、涼しげな美しいお顔とすれ違うだけではなく、もっと近づいてみたいと思ってしまっている。

 教室の壁に入り込んで彼を見つめてみると、ほどよく締まった背筋はすらりと伸びていて、たまにペンの上部を顎に添えて考え込む姿なんかは美術品でも見ているような心地だった。
授業で先生から発言を求められたとき、初めて彼の声を聴いた。広い教室に反響する、心地よい波長のテノールボイス。その甘くて優しい響きは、私をもっと深い沼地へ引き込んでいった。私はゴーストなのにくらりとしてしまって、教室の壁にかかっている肖像画に驚かれてしまった。保健室を勧められたけれど、丁寧にお断りした。


 次の授業は、私が楽しみにしていた美術。彼は前回から胸像をデッサンしている。鉛筆を走らせる彼の繊細な指の動きから、彼が非常に器用な男性であることがわかって、彼のことがますます好きになった。彼の、胸像を見つめる真剣で熱いまなざしに見つめられてみたかったので、授業前にこっそり、彼がデッサンしている胸像に乗りうつってみた。

 ……想像以上に私は度胸がなくて、緊張しいだと乗りうつってから気づいてしまった。だって山の上では基本的に隠れて過ごしてきたから、誰かと交流する事なんてほとんどなくて。だからこんなに、見つめられてしまうだけで緊張してしまう。いや、見つめているのは私の「ガワ」の方なのに、彼の瞳は私ごと見透かしてしまいそうなほどにまっすぐで、胸像ごと顔が赤くなってしまわないように必死にごまかした。いえ、私の顔ずっと真っ青なんだけど、それくらい緊張しているってこと。私、こんなに男性から熱い視線を向けられたのは初めてだった気がする。記憶はないけど、きっと私は今と変わらず奥手な女性だったに違いない。

 ジェイドさんは、デッサンの手を止めると、近くの席でデッサンをしている、赤髪の小さな男の子に声をかけた。

「リドルさん」
「なんだい、ジェイド」
「この胸像を見ていただけませんか。今日は、表情が硬い気がするのですが……」
「これは石膏でできているんだよ。表情が変わるなんてそんなわけないだろう。ボクにはこの間とまったく同じに見えるよ」
「おや、そうですか。僕の目が疲れてしまっているのかもしれないですね」
「わかってて話しかけただろう、ジェイド」
「リドルさんがあまりにも真剣な表情でいたのでついつい。」

 一瞬、バレてしまったのかと思って、息が止まりそうな心地で、喉元を押さえた。それからも、胸像から出てしまったらバレてしまうかもしれないから、結局胸像から抜け出せずに、授業のチャイムが鳴るのを待つほかなかった。好きな人に見つめ続けられるというのも、苦しいものなのだと思い知らされた。


 その後は、廊下の壁際にケイトさんと合流して、お話をしていた。

「またなまえちゃん隠れちゃって。そろそろジェイドくんに話しかけてみてもいいんじゃない?」
「私ゴーストだし。きっと引かれちゃうと思う」
「たぶんそれはないと思うよ。むしろ興味深く観察されちゃったりして」

 そんなに気になるなら、ケイトさんに対してみたく、お話してみればいいじゃないというのがケイトさんの意見だった。ただ、お話してみても、性格の相性とかそういうのが悪かったらもっと落ち込むし、お話が弾んだとしても、私は欲張っちゃって接点を求めて彼に迷惑をかけるような気がした。

「……キノコを、あげてるの」
「え、ジェイドくんに?」
「うん……」

 その代わりに、私は彼が活動している『山を愛する会』の幽霊部員として活動を始めた。山を登る彼の3歩後ろで、危なそうな蛇や虫を追っ払ってみたり、彼の籠にこっそり、見よう見まねで収穫したキノコを一緒に入れたりした。もちろん私たちには会話もないし、そもそもジェイドさんは私のことを認識すらしていないけれど、私は彼と一緒に動いている感覚がすごく楽しくて、幸せだった。

「ただ、この前私が入れたキノコが毒キノコだったらしくて、フロイドさんがあたっちゃったみたい」
「わ! フロイドくんご愁傷様……。ジェイドくんも気が付かなかったんだね」
「たぶん自分が採ってるって安心していたからかもしれなくて、すごく謝りたい気持ちはあるんだけど……」
「ま、初対面で兄弟に毒もっちゃってごめんね。はシュールだよね〜〜」
「だからいっそ私はやっぱり見てるだけがいいと思う。幽霊部員も楽しいし」
「うんうん。けーくんはなまえちゃんのこといつだって応援してるからね! でもオレにも協力してもらえるとうれしいかなー……」
「明日の小テスト、252ページから257ページまでで問題作るって、たまたま先生の資料が見えちゃった」
「マジ!! なまえちゃんさっすが〜〜! ありがとう!」

 ケイトさんが私や肖像画のロザリアちゃんによく話しかける理由がやっとわかって、私もケイトさんにお世話になっている分お返しするために、授業の情報はきちんと頭に保管しておいた。私は私なりに、ずる賢く成長してきている。


-4-


 

text