山の麓まで下りると、山の入り口近くにある古びた公園に駆け込んだ。そこの東屋で雨をしのぎ、ジェイドさんは、ポケットに入れていた湿ったタオルハンカチで、顔や頭の水を拭く。私たちはしばらく黙って、一向に落ち着かない雨音を聞いていた。
ジェイドさんが、口を開く。
「先ほどは大丈夫でしたか」
「あ、はい……」
先ほど、というのは、山頂でのできごとだろうか。雷鳴を聞いたとき、一瞬ジェイドさんが見えなくなって、私の身体はくっきりとした存在感があったことを思い出した。もうゴーストとしての姿に慣れてしまっていたけれど、もとは私も生きた人間だったんだ。今までこんな現象はなかったのに。なぜかこんなときに限って起きてしまったみたいだった。
「怖い思いをさせてしまいました。すみません」
「いえ、ジェイドさんのせいじゃないですし……雷が怖かっただけですよ」
「自然とは時折、僕たちに牙をむくこともあります。僕も天候には気を使っていたはずなのですが、まだまだですね」
ジェイドさんは、眉を寄せながら私を気遣う言葉を言ってくれる。すごく優しい人だ。その優しさを向けられると、うれしいけれど心の底がかゆくなった。
「今のはいきなりでしたし……ジェイドさんが無事でよかったです。本当にここは、苦労することが多くて」
「山暮らしも素敵だとは思いますが、長い間ここにいらっしゃるようですね」
「たぶん、ずっとここで暮らしていたわけではなかったと思います。でも記憶もないし、学生も来ちゃうしで、怖くて山から出られなかったんです。最近になってやっと下りられるようにはなったけど、夜には家に戻っています」
「家? もしかして……中腹にある小屋のことでしょうか」
山の中で家のような見た目をした建物は小屋しかなかったし、ジェイドさんもよく見かけていたんだと思う。すぐに想像がついたようだった。
「そうです、私の、ここでの家です。夜はそこで寝ています」
「確か、そこが一番の恐怖スポットだと学生間で噂になっていますが、まさか」
「学生が度胸試しの一貫で入ってこようとするので、いっつもいたずらしてるんです」
「フフ、貴方もなかなか悪い人だ」
そう話しているうちに私たちの空気も、また和らいだ。降りしきる雨の中で、私たちは今日の収穫を一緒に観察しながら出られるときを待つ。……もし人間の姿だったら、ジェイドさんの手を取ることができたんだろうか。その長くて骨のしっかりした手の感触を知ることができたのかもしれない。キノコを触る彼の手を見ながら、そんなことを考えていた。しかし、沈黙の時間が続くとむずがゆくなってしまい、彼について聞いてみることにした。
「ジェイドさんの家はどこにあるんですか?」
「実は僕、人魚なんです。珊瑚の海というところから来たんですよ」
「……」
びっくりした。彼の胴体が魚のようだなんて、こんなに山に登れるほど二本足で生活しているから想像つかない。
「え、人魚。今の姿は……」
「これは魔法薬で姿を変えている、いわゆる仮の姿なんです」
おとぎ話でも聞いているような心地だ。彼の人魚としての姿を想像してみる。きっと、海の中でもきれいで、優雅に泳いでいるのだろう。私の知らない、美しくて遠い海の中で。
「山が好きなのは、行ったことがなかったからですか?」
「それもありますね。海の中では見られないものがたくさんありますから」
「でも私からしたら、海って想像しかできなくて、すっごく素敵な場所だと思います」
「ええ、もちろん僕も故郷が好きですよ。暗くて寒い場所ですが、陸に劣らない魅力は語りつくせません」
「いいなぁ……」
山の頂上から麓までと、最近ナイトレイブンカレッジを行き来できるようになったとはいえ、自分のテリトリーはその限りだった。自分の知らない場所に行くって、すごく素敵なことだと思う。
雨が落ち着くと、ジェイドさんは「キノコは湿気に弱いので、早く連れて帰らないといけません」と言いながら帰る支度を始めた。
「今日は私も家に帰ります。もう暗いので」
「ええ、お互い今日はゆっくり休めそうですね。お付き合いいただきありがとうございました」
「ジェイドさんも、今日はありがとうございました。……初めてお話ししたのに、とても楽しかったです」
「そういえば、僕たち初対面でしたね……是非またご一緒してください」
「ぜひ!」
ジェイドさんは私に軽く手を振ると、学園へ戻っていった。私も、後ろを振り返り、小屋を目指して進んでいきながら、今日起きたあまりにも現実味のない経験を思い出す。初めて私の目を見て話してくれたときのこと、私の話を聞いてくれたこと、一緒に「山を愛する会」として活動できたこと、そして山頂でのできごと……たくさんの感情があふれていく。ここにいて、こんなに心が動くこともなかったような気がする。それは喜びだけでは片付けられないものだということも胸の痛みが表している。ただ……ジェイドさんという存在が、私の中で輪郭の強さを増していくことだけよくわかった。
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