陽気な上級生たちの談笑が聞こえ、私は目覚めた。熱く腫れぼったい瞼をこすり、スマホを見ると、午前10時すぎ。充電されないまま一晩放置されたスマホの電池は心もとなく、画面に表示されたたくさんの通知が、私を憂鬱にさせた。……昨日はバイトの日だった。フロイド先輩から着信が10件。メッセージアプリの通知も2通。1通はジェイド先輩から『大丈夫ですか?』。もう1通はフロイド先輩の『ぜってー絞める』。
……休校日でよかった。
喉はカラカラで、飲み込む唾も詰まる。学生服のシャツも皺だらけ。これからどうしよう。とりあえずメッセージの返信をしなきゃ……。
フロイド先輩には……『すみません』。体調崩してとか、スマホを無くしちゃってとか、付け足したほうがいいだろう。ジェイド先輩には? 『大丈夫じゃないです』しか思いつかない。昨日の記憶がよみがえり、いろんな感情が私の体の中でぐちゃぐちゃになる。冷静になろうとスマホを充電コードにつなぎ、洗面所に向かう。鏡に映る私の顔もぐちゃぐちゃだ。顔を洗って部屋着に着替える。グラスに水を注いで、一気に飲み込んだ。この胸の中の暗い気持ちが流れることは無かった。
時間だけが過ぎていく。落ち込んだ気持ちとは裏腹に鳴るお腹の音が、お昼時の到来を告げた。ベッドに腰掛けていた私の視線の先には、机の上に転がるマフィン。おもむろに取って、包みを開けて頬張ってみた。身体が栄養を欲していたのか、糖類がびりっと舌から神経を刺激して、バターの香りが鼻腔からじわりと浸透する。……このマフィンは、一昨日ジェイド先輩と作ったもの。ラウンジ店頭で販売する洋菓子の試作品だった。私の部屋の中にはこのようにジェイド先輩を思わせるものが存在していて、ジェイド先輩の姿を思い起こすたびに、胸がキリキリと締め付けられた。
先輩は私に恋をする。対象の人物を自分に夢中にさせてしまう、それが私のユニーク魔法というやつだ。もう、ミドルスクール時代の二の舞だ。もしこの魔法が、ジェイド先輩や周囲の人間に知られてしまったら……。もう問題を起こさないようにと、わざわざ両親がこの辺鄙な土地に私を追いやったのに。そもそも私は詠唱なんてたくなかったんだ。もう使わないと誓ったのに……。
バンバンバン!
部屋の扉が乱暴に叩かれる。身体がきゅっと固まって、そのあとの声がもっと私の身体を強張らせた。
「ねーなんで昨日サボったのー? 絞められたいの?」
フロイド先輩。2番目に会いたくない人だ。……そういえば、返信すらできていなかった。居留守もできないので、扉を蹴り破られる前に恐る恐る扉に近づく。私がドアノブに手をかけるのと同時に、扉が開かれた。その勢いで私は後ろに跳ねる。部屋に入ってきたフロイド先輩の目はギラついていて、間違いなく機嫌が悪い。慌てて謝罪の言葉を探した。
「ご迷惑おかけしてすみませんでした。急に体調が悪くなって……あの」
「いつも時間通りに来るのに連絡もないからマジで心配したんだけど。アズールもジェイドも気にしてさー」
1番に会いたくない人物の名前を耳にして身体がビクつく。ただでさえシャワーを浴びていなくて気持ち悪い身体が、またじっとりと濡れる。
「聞いてんの?なぁ」
「は、はいすみません。気を付けます」
「次、ラストまで働いてもらうから」
「もちろんです」
「変な汗かいてるよ、ホントに大丈夫? はいこれ、ジェイドから」
「えっ」
フロイド先輩は私に紙袋を突き付ける。
「ありがとうございます……」
「じゃ、お大事にー」
私が紙袋を受け取ると、フロイド先輩が部屋から出ていき、扉が勢いよく閉まった。ふっと力が抜けて、ふらつく身体をベッドに誘導する。紙袋の中身を取り出し、保温性の容器を開けると、湯気と共にトマトの酸味のある香りが溢れた。中には野菜と鶏肉と小さなショートパスタが入ったトマトスープ。そして、手紙が入っていた。開けてみると「これを食べて、元気を出して」と一言、丁寧な文字で書かれていた。
ジェイド先輩はどういう気持ちでこれを? ……というか、これは魔法にかかってしまった効果がもう出てきているということ? 昨日の記憶が嫌でも思い出された。あの時の先輩の目もギラギラとしていて、なんだか怖かった。そうだ、あの時先輩は何かを呟いて、そして私は詠唱したのだった……。
なんだかカロリーをたくさん消費した。頂いたスープを食べないという勇気もなくて、食べる。身体が温まって気だるい眠気が訪れた。しかし容器を洗いながら、これを持ち主へ返さなければならないというミッションが与えられていることにも気づく。気を遣われているのか、いじわるをされているのかわからない。しかし、昨日からジェイド先輩のメッセージを既読無視してしまっているから、このままでいいわけがない。……ジェイド先輩に会って、どう話したらいい? もし魔法の効果が表れてしまっていたら? そう思い悩んでも時間は進む。この小さな問題から解決することにした。
ジェイド先輩とフロイド先輩の部屋は、私の部屋と同じフロアにある。私の部屋はこのフロアの角部屋で、何かあったときに先輩がいつでも対応できるようにとジェイド先輩の計らいによって用意されたものだ。
近距離ではあるが部屋を出ることには変わりないので、シャワーを浴びる。そして容器を紙袋に入れなおして、部屋を出た。いつもは軽い足取りで歩んでいた短い距離、もっと長かったらいいのに。それくらいジェイド先輩に合わせる顔の種類やかける言葉がわからない。いっそのこと不在だったらいい。そう思っているうちにも先輩の部屋に着いてしまった。深く息を吸って、吐いて、扉を叩く。
「ジェイド先輩……いらっしゃいますか」
いませんように。いませんように。願いながら数秒扉の前で立ち尽くしていると、扉がゆっくりと開いた。
「はい。いますよ。なまえさん」
ああいた。扉の隙間から部屋を覗いてみるとフロイド先輩は不在らしい。「どうぞ」と部屋の中に招かれそうになるが、部屋の中に入る気にもなれなかった。
「いえ、これを返しに来ただけなので……ごちそうさまでした」
「わざわざ返しに来てくださったんですね。ありがとうございます。美味しかったですか?」
「はい。元気出ました。ありがとうございます」
私は先輩と目を合わせられないまま、紙袋を押し付けるように手渡しして、じりじりと足を後ろへ動かす。
「じゃ、じゃあ……」
「昨日は、大丈夫でしたか」
「……」
「どうして?」この一言が喉につっかかって言えない。それを言い始めると、私のことも言わないといけなくなってしまいそうだ。ここで私の魔法について伝えて。私のことを好きになります。とか言えるはずがなかった。
「昨日のこと、覚えていらっしゃいますか」
「……え?」
質問の意図がわからない。先輩が、私に口を割らせようとしているのか、本気で覚えているのか。一瞬見上げて先輩の表情を見るけど、先輩の顔は何も語らなかった。
「貴方と資料作成をしたのちの記憶が思い出せなくて……何があったか覚えていらっしゃいますか」
ジェイド先輩は私のかけた魔法が何なのかを知らないままでいるんだ。どこから、説明するべきか。いや説明しないべきか。頭を回転させるも考えすぎていっぱいいっぱいの頭では何も紡ぎだせない。説明してそれで私の好意が知られたら? 最悪の事態しか考えられずに口をぱくぱくさせていると、フロイド先輩が帰ってくるのが見えた。
「ただいまー。あ、やっと元気出たんだ? よかったー」
「す、すみません私、用事を思い出して、これで」
「なまえさん?」
私は逃げるように自室へ戻った。
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