スタートダッシュ


 6時30分。スマホのアラーム音に起こされる。夢すら見ずに熟睡していた。昨晩は何も準備せずに眠ってしまったため、授業の準備を急ぐ。

 いつものように、部屋にストックしているダージリンのティーバッグを開封し、カップを用意する。テーブルに備え付けた電気ケトルでお湯を沸かした。紅茶を飲むというのはジェイド先輩をリスペクトして取り入れたルーティーン。先輩だったらきちんと取り寄せた茶葉から入れるだろうけど、私はなんちゃってなので、この習慣を恥ずかしくて口に出せない。
 お湯が沸くまでに顔を洗ったり、身支度を整えたりしていく。制服は他の生徒と同じもの。入学時に、学園長から女性仕様も手配できると言われたが、変に目立ちたくなかったから他の生徒と同じように男性用のまま。スラックスを穿いてベストのボタンを留める。身支度が整ったところでお湯も沸いたようだ。初めてのアルバイト代をはたいて購入した、少しよさげなティーカップに紅茶を淹れる。いつか、ジェイド先輩と2人でゆっくりこの部屋で紅茶を飲むことを期待して購入したティーセット。乳白色の陶器の上部に青の花柄が入っている。紅茶をゆっくり口に運んで、今日のスケジュールを思い返した。しばらくは座学が続くしラウンジのシフトも入っていなかったから、普段通りに過ごしていれば、ジェイド先輩には会わなくて済むはず。食欲がなくて、朝ごはんも食べないまま教室へ向かった。


 1年生のうちは自由選択の授業も限られる。同じ教室で受け続ける授業も今の私にとっては気分が楽。黒板や先生を見てはノートを取り、きちんと授業を受けていますというアピールをしながら、ノートの端に自分の思いを吐き出した。

 ジェイド先輩は先日の記憶がないという。ならば、先輩が自覚もなく私の魔法について知らない間に、彼にかけてしまった魔法を解かなければならない。よく魔法が解ける条件として挙げられるのは、時間の経過。どのような魔法でもイマジネーションの強さや持ち主の力、相手の抵抗によって効果にも終わりはある。それに、この魔法を使ったのは1度だけとはいえ、解く方法がないわけでもない。それは、私が相手を拒絶すること。確か、前に解けたのは私が相手を拒絶したときだったから。でも、拒絶ってアバウトだし、あの時は相手と付き合っていたし。ただの先輩と後輩という関係で、私がジェイド先輩を拒絶するってどうしたらいいんだろう……。


 午前中の授業が終わった。なるべく1人になれるように早く食堂に向かって食事を済ませて、昼休みは中庭の木陰で昼寝とかしてしまおう。そういう学生生活も、悪くないような気がするから。読書とか始めてみたりして、そしたら有意義な時間が過ごせたと思えるし。私は早歩きで廊下を行く。教室から食堂までは一直線。それを振り返ることもなく進んでいく。

「なまえさん」
「はいっ」

……反射だった。背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえ振り返ってしまった。

「昼食をご一緒しても構いませんか」

 ジェイド先輩がいつも通り目を細めて私に微笑みかけた。私は笑顔をつられつつ、「いいですよ」と言いそうになるのをこらえる。

「次の授業の準備で急いでるので、あんまり……」
「僕も午後一番の授業が飛行術なので、少し急ぐんです。一緒ですね」

 ジェイド先輩の誘いを断り切れず、私は食事を共にすることになった。ジェイド先輩はいつものようにトレーにたくさん思い思いの食べ物をよそう。私はなんだか食欲がないものの、ジェイド先輩にまた元気がないと思われてはいけない。普段自分が食べていたメニューを思い出しながらよそった。準備ができると向かい合わせにテーブルに座って食事をとる。
 食事中のジェイド先輩は、普段と変わりないような調子で私に話しかけた。昨日のように私のユニーク魔法や、先日のことを訪ねてくることも無い。周りに人がいるからだろうか……でも、なんだかジェイド先輩の視線が気になった。談笑しながら私を見つめて来る視線が、私の頭の中までのぞき込まれている気がして。いつも以上に私は目を合わせないように細心の注意を払う。

「なまえさん」
「はい」
「フフ、口にソースが……」

 向かいの先輩が少し立ち上がり、私の顔をのぞき込む。右手に持ったナプキンで、私の口の端をそっと優しく拭った。先輩と目が合って、先輩がおかしそうに含み笑いをしながら座りなおした。大きく跳ねる心臓。周りの学生も楽しそうに食事をしていて、その笑い声が嫌に耳につく。

 食事を終えて、食堂を出るなり私たちは別れた。正確には、私がジェイド先輩を撒いた。運動着をとりに自寮へ戻る先輩の背中を見送った。

 放課後が来ると私は図書室に向かった。人の精神に作用する魔法についての本を探すためだった。実践魔法が得意な癖に、自分のかけた魔法すら解けられないなんて恥ずかしいことこの上ない。他にヒントがないか探したかった。入学以来、何かしら課題が出ない限り立ち寄ることのなかった図書館。地理学、心理学、魔法史学、などジャンルごとに並んだ棚を見て、ある程度の目星をつけては様々な本を漁った。「精神・催眠」という如何にも怪しげなジャンルの本が並んでいる場所を見つけ、タイトルや要約を見て気になるものはパラパラとめくる。しかし、どの本を見ても魔法にかけるうえでの注意であったり、魔法のかけ方について書いているものであったり、もうかけてしまった者への対処法などは見当たらない。私が本棚の前で落ち込んでいると、後ろから話しかけられた。

「なまえさんではありませんか。そのようなニッチなジャンルの本棚の前で何をしてらっしゃるんです?」
「あ、アズール先輩……」

 振り向くと、アズール先輩が興味深そうに私を見つめていた。よりにもよって、アズール先輩に見られてしまうだなんて。私の状態がバレてしまっては困る。アルバイトを無断で休んだ上、右腕である副寮長に魔法をかけてしまったなんて知られてしまったら……いつ学園長にまで話が飛んで両親に気づかれてしまうか。この状況で最も、に思えるかもしれない言い訳を必死に探した。

「この間は、無断欠勤してすみませんでした。……先日ここあたりでボールペンを落としてしまったので、探しに来たんです」
「貴方にしては珍しいので僕も心配でした。顔色も優れないし何かと災難続きのようだ……お手伝いしますよ」
「いえ、結構ですよ! ありがとうございます」
「そうですか。では、次休む時はせめて連絡を」
「もちろんです……」

 アズール先輩の去っていく足音が遠くなるのを感じながら、図書館に来るのも控えようと思った。今日も自室でゆっくり過ごそう。夕食は購買で適当に購入して、私はオクタヴィネル寮へ戻った。

 自室に戻り、ティーカップを食器棚の奥にしまう。部屋の中にあるジェイド先輩を思わせるものはなるべく封印した。テーブルの上に教科書やノートを広げて、授業の復習や宿題に取り組む。魔法に頼らずに自分の力を示すことのできる勉強は、私にとって魔法に代わる武器だ。宿題が落ち着くと、明日の授業の準備もして予習を始める。このままいけば今回はもっとテストの順位も上がるかもしれない。

 充実した勉強時間を終えて背伸びをする。そしてベッドに向かってスマホの充電コードをつないだ。ピカッと画面が点灯する。誰からもメッセージが届いていないことを確認して安心したのもつかの間、明日がモストロ・ラウンジの出勤日であることを思い出した。シフト一覧を確認したところ、明日はジェイド先輩がホール担当。アズール先輩の発した「災難続き」という言葉が、脳内で再生された。


 寝起きはもちろんよくなかった。ジェイド先輩を避けようとすればするほど、避けられない現実が決まっていたかのようにやってきてしまう。無断欠勤してしまった身分で休むことも出来ず、フロイド先輩から与えられた「ラストまで」というペナルティもきっちりこなさなければならない。私が担当するのは基本接客であるため、寮生と交流があっても業務連絡程度ではあるが、ラストまでとなると話も変わってくる。だいたいジェイド先輩はラストまで店にいるからだ。

 放課後が訪れ、私は18時入りだったため夕食を軽くとってからモストロ・ラウンジへ向かった。まかないをいつもなら頂くが、これからはなるべく先輩たちと接触する時間を少なくしたい。先にご飯を食べて、さらにはタッパーを持参して早く退勤できるよう対策をとった。

「お疲れ様です」
「ご苦労様です。今日は元気そうですね」

 ジェイド先輩にすれ違いざま話しかけられてビクつきながらスタッフルームに入り荷物を整理した。寮服を姿見の前で正して、深呼吸してタイムカードを切る。きちんといつも通りの時間にタイムカードを切る事ができた。
 私は仕事に没頭した。誰よりも早くオーダーにお応えし、片付けも積極的に動いて、みんなの迷惑にならないように動く。幸いにも今日は客の入りもよく、途中で顔を見せた支配人であるアズール先輩も、その繁盛ぶりにやや満足げな顔を浮かべた。
 ラストオーダーも終わり客もまばらになってきたころ、店じまいが始まる。早入りしていた寮生たちは早々に退勤し、ジェイド先輩と私だけが残った。店じまいも終盤に差し掛かったころ、ジェイド先輩に話しかけられる。

「食事の準備も出来ていますから、いつでもどうぞ」
「あ、あ、あの今日は持って帰ります! ありがとうございます」
「おや、そうですか。是非ご一緒にと思っていましたが、残念です」
「すみません」
「気にしないで。では容器を持ってきてください。僕が詰めておきます」
「ありがとうございます」

 本心とは違うそっけない態度をとったことに、胸が痛んだ。本当は2人きりでソファに腰掛けてご飯を一緒に食べたかった……。いや、やめないと。これからはこういうことをしていかないと、ジェイド先輩のためにもならない。スタッフルームからタッパーを持ってくると、ジェイド先輩が詰めてくれた。私は帰る支度を済ませると、タッパーを受け取りに先輩に近づく。先輩は私を労わるように、優しく声をかけてくれた。

「今日は元気そうで安心しました」
「はい。楽しかったです」
「楽しいのが一番です。しかし病み上がりなのですから、辛かったらいつでも言ってくださいね」
「大丈夫ですよ、気にしないでください」

 私の態度はよそよそしさを増し、ジェイド先輩の手元にあるタッパーばかりを眺めていた。早くそれを持って帰りたいと暗に伝えるように。

「……わかりました。けれど決して、1人で無理はしないで」
「……」

 ジェイド先輩は私にタッパーを手渡すと、そのまま受け取った私の両手を包み込むように触れた。手袋越しではあるけど先輩のぬくもりが両手の甲から伝わってきて、「1人で無理はしないで」という言葉が私の胸を締め付けた。目頭が熱くなってきたのを誤魔化すように、目をつぶった笑顔でジェイド先輩に「ありがとうございます」と述べた。しかしまだジェイド先輩の手は外されることはなく、私が目を開けると、先輩はまるで私をかわいがるかのような瞳孔の大きくて丸い目で見つめてきていて……。あ。

「お心遣い、感謝します。では、これで」

 私は足を数歩そのまま下げるようにしてゆっくり後退し、ジェイド先輩に軽く会釈をしてその場を走り去った。私の焦る足音と、大きく動く心臓の音ばかりが頭の中で響いていた。


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