ジェイド先輩と遭遇する機会も少なくなった。そもそも先輩は学年も違って授業が被ることも多くないし、副寮長としての務めもたくさんあって忙しい。そこに私が手伝うと言って着いて行っていたために接触することが多かったんだ。連日気合を入れてジェイド先輩を避けんと奮闘していたのに、ここ数日は廊下ですらすれ違うこともなく穏やかな日を過ごしている。身勝手ながら、物足りないような寂しさを感じる。とはいえこの後は錬金術の授業。さらに明日はモストロ・ラウンジの出勤日でジェイド先輩も一緒。会えていなかった分、先輩の変わりようも心配だった。
錬金術の授業が始まり、また私はバイパー先輩と同じ机に座る。前のようにジェイド先輩と視線が合うことは今の時点ではない。
「今日もよろしくお願いします。バイパー先輩」
「ああ。よろしくな」
「早速、薬品取ってきます」
「なまえ、ちょっと待て」
「はい」
棚に向かおうとしていたところをバイパー先輩に止められ、手招きをされる。意図がつかめないままバイパー先輩に近づくと、先輩は私を見ながら自身の首もとを指さした。
「……?」
「しょうがないな」
先輩の伝えたいことがよくわからなくて少し首をかしげると、先輩は私の首もとに手を伸ばし、私の実験着の襟を正してくれた。どうやら襟が内側に入り込んでいたらしい。
「よし。これでいい」
「すみません。ありがとうございます」
自分で気を付けているつもりが、このように襟が内巻きになっていたり、シャツのボタンをかけ忘れてしまったりすることが度々ある。こういうとき、いつもジェイド先輩が気づいてさりげなく正してくれていたっけ。……ふと思い出して、ジェイド先輩を探した。私の視界のなかで、先輩はペアを組んでいる人と笑いあっている。
――本当はあそこに私がいたはずなのに。
「考え事か? 手元に注意しろ」
「! はい。気を付けます」
集中できない。ジェイド先輩のことが気になる。そこにいるのに会話はおろか目も合っていない。この状況を望んでいたはずなのに、なんだかすっきりしない。でも、バイパー先輩に迷惑が掛からないように実験に取り組まないと。胸の奥底から噴き出してきそうな感情を押し込んで、目の前で沸き立つ鍋に向き合った。ゆらゆらと揺れていた煙が、一瞬だけ大きくうごめいたように見えた。
今回も私とバイパー先輩のペアは、授業時間内にきちんと実験や片づけをすることができた。バイパー先輩は本当に要領がよい。こんな副寮長がいるスカラビア寮もきっと素敵なところなんだろう。2回だけのペアワークだけで交流が終わってしまうのはもったいない。
「これで授業は終了だ」
クルーウェル先生は授業時間ぴったりに話を終わらせて、チャイムが鳴った。私はジェイド先輩を見ないようにと意識しながら急いで荷物をまとめ、バイパー先輩にお礼を言う。
「ペアを先輩と組めてよかったです。また機会があれば是非」
「俺もお前と一緒でよかった。礼を言う。じゃあ……」
「ジャミルーー!」
教室の外から、勢いよくバイパー先輩を呼ぶ声が聞こえた。バイパー先輩は一瞬「げっ」と言うような反応をして廊下を見る。私もつられてその方を見ると、頭に大きなターバンを巻いた、白いカーディガンの学生が教室に飛び込んできた。
「カリム! 薬品の片づけが終わってないところもある。危ないだろう」
「すまん! さっきの小テストの点数よかったからジャミルに一番に伝えたくてな!」
「そうか、それはよかった」
「やっぱりジャミルは流石だな……ん? 隣の子は新しい友達か?」
「俺とペアワークをしていたオクタヴィネルの1年だ」
「初めまして。なまえです……」
私がターバンの人の勢いに流されるまま自己紹介すると、彼は私の手を掴んで「俺はカリム・アルアジーム! スカラビア寮の寮長だ。ジャミルが世話になったな!」と元気よく挨拶。
「この人が、寮長さんなんですね」
「ああそうだ」
「なんだかアズール先輩と雰囲気も違うので新鮮です」
「それもそうだな……なまえ、この後は寮の宴の準備なんだ。失礼」
「お! そうだジャミル。せっかく知り合ったんだからなまえをもてなそう! ジャミルも世話になったしな」
「なまえの都合だってあるんだぞカリム……」
「そちらがいいのであれば、ぜひ……」
「お、本当か! たくさん食べて歌って踊ろう! じゃあ放課後迎えに行くからよろしくなー」
バイパー先輩と並んで、アジーム先輩も機嫌よさそうに去っていった。ノリだった。この勢いに乗ってしまったほうが、気がまぎれるかもしれないから。宴、というのはオクタヴィネル寮ではない文化だし。
改めてノートなどを抱えて教室を出ようとすると、ペンケースからペンが落ちた。それを拾おうとしゃがむと、私よりも先に黒い手袋をつけた大きな手が、それを拾い上げる。
「……ジェイド先輩」
「おや、どうしたんですか。目を丸くして」
避けているはずのジェイド先輩。でもこうやって近くにいて、彼の声を聞いて、彼の顔を見ると、私の意識は自然と高揚するようにプログラミングでもされているんじゃないか。
「い、いえ、ありがとうございます」
「はい。お友達ができてよかったですね。しかし、夜遅くまで遊びすぎないように気を付けてください」
「はい」
私はジェイド先輩からペンを受け取り、見上げることなく頭を下げて教室を後にした。前のように顔を見て、ジェイド先輩の好意が増えていることを確認するのが恐ろしかった。今日はスカラビア寮にお邪魔して、なるべく忘れよう。今起きた本当だったら嬉しいような出来事も、無かったことにしてしまおう。
……暑い。熱砂に囲まれたスカラビア寮は、カラリとした暑さに包まれている。制服のまま来てみたが、早速上着を脱いで腕に引っ掛ける。隣を歩いているバイパー先輩はノースリーブの寮服に着替えており、やはり寮服も夏仕様みたいだ。こんなところにオクタヴィネルのかっちりと着込んだ寮服で来てしまったら、と考えると恐ろしい。
放課後、迎えに行くと言ってもらったもののどこで待っていればいいのかわからなかった。鏡舎でアジーム先輩を待ちわびていたが、実際迎えに来てくれたのはバイパー先輩。「カリムは談話室で待たせている。刺客が来ると危ないからな」と言われ、「刺客」という漢字が変換できないくらいにその言葉の意味が分からなかった。でも、バイパー先輩の話を聞いているうちにその意味が十分すぎるほど伝わってきた。迎えに来たというのもそういう役回りなのだろう。
他寮への訪問は、ジェイド先輩の後ろに引っ付いて届け物をするくらいしか経験していなかった。鏡舎も使い慣れていないため、不慣れさをバイパー先輩に見られて苦笑される。得体の知れないものに飛び込むという感覚はあまり得意じゃない。そんな反応をしていると、「入学式前の”扉”も怖かったか?」と聞かれ、答えられなかった。私は新入生と同じ9月入学ではあったが、私は”扉”とやらを介さずに普通に馬車に乗って両親とやってきたからだ。闇の鏡に見てもらうのは、式前にこっそり行われた。結局入学後のテストで成績優秀者として名前が知られてしまったらしく、かえって目立ってしまったけど。儀式に公式に参加していると女性であることが目立つと思われたための計らいか、私の世話役という厄介払いを調達するための前準備であったようにも思えなくもない。そのことを上澄みだけ伝えると、バイパー先輩は「特別入学、というやつか……」となんだか顔を曇らせた。それは、私の入学した経緯も周りの生徒のように誇れるようなものでもないし、その反応こそが一般的で正しいものだと否定する感情すら湧かなかった。
「バイパー先輩が迎えに来てくださって助かりました。他寮へ遊びに来るというのは初めてなので」
「まあ、縁の有無は人に寄るからな。……言おうと思っていたんだが、ジャミルでいいぞ」
「わかりました。……ジャミル先輩」
「おっ! 主役の登場だな。おーい!」
開放的な談話室に入ると、アジーム先輩が大きく手を振って私を迎え入れてくれた。私はいつの間にやらいつから計画されていたかわからない宴の主役扱いをされているらしい。同じように涼しげな寮服を身にまとった学生たちも私を歓迎した。慣れない感覚でむずむずする。
「アジーム先輩。今日はありがとうございます……」
「カリムでいいぞなまえ! 今日は音楽隊も美味い飯も準備バッチリだ! 存分に楽しんでくれ」
「ありがとうございます」
ジャミル先輩からひたすら大きいテーブルに案内されて、私は着席した。するとこれは何人前なのか見当もつかないほどの大皿料理が運ばれてくる。普段あまり嗅ぐことのないような、スパイスの香りが鼻を刺激した。知らない食堂に来たみたい。こんなに食べられるのだろうか。最近食欲がなかったから胃が縮んでいる気がするし。
「遠慮せず食べてくれ」
「はい……。いただきます」
周りで奏でられる異国情緒あふれる音楽の音圧に鼓膜を揺さぶられ、どれを食べようか目の前に広がる大皿たちを目の前に悩んでいると、ジャミル先輩がスープを運んできてくれた。少しずつ口へ運ぶ。……美味しい。近くにある皿から料理を取っては、次々に口へと運んだ。美味しい。料理だけじゃない。空気や、楽しそうに過ごす周りの人たちの笑顔が、談話室を照らす灯りが、全部が美味しい。映画の中にでもいるような気分だ。
……しばらく食事をこうやって楽しめるような環境ではなかった。もちろんジェイド先輩たちと共にする食事は楽しかった。緊張したけど。でも、この前ジェイド先輩との昼食は本人に申し訳ないが楽しめるものではなかったし、実家に帰ってもこんな賑やかな風景は見られない。こんな楽しいオアシスのような場所が、この学園内に存在していたなんて思いもしなかった。
カリム先輩は、この学園ではあまり見ないタイプの眩しい笑顔で私に話しかけた。彼の気楽さは、私には到底持ち合わせられないもので、浄化されていく気分。ジャミル先輩の悩みの種はこの人なんだとすぐにわかったけど、これくらい笑顔が素敵で、純粋な人だったらお世話してあげたいっていう気持ちにもなるのかな。いいな。なんだか羨ましい。
ここにいると、何も考えなくて済んでしまいそう。壁のない談話室からはもう1等星だけでなく6等星くらいまできれいに輝き始めるほどには夜の時間が進んでいるのが見えて、時間が止まればいいのにとさえ思う。すごく気が楽で、ここにいたら、ジェイド先輩のことだって忘れられるかもしれない。
「――だってさ、な、なまえ! ……なまえ?」
「あっはい」
お腹がいっぱいになってしまって、慣れない環境に完全に飲み込まれてしまっていた。夢を見ていたような感覚になり、意識が飛びかけていたことに気づく。
「ははっ。さては眠くなったんだなー? ウチの空き部屋を用意させるから休んでいいぞ」
「自室に戻らないと叱られちゃうので、今日はここで……本当は、まだまだいたいくらい楽しかったです」
「本当か? また是非来てくれ。いつだって大歓迎だ!」
「ありがとうございます」
「カリム。彼女を見送ってくる」
「任せたぞ、ジャミル!」
カリム先輩は終始歪むことのない口角の見事な上がり具合だった。私もカリム先輩に負けないように手を振って、ジャミル先輩に連れられてスカラビア寮を後にした。
「楽しんでもらえたか?」
「もちろんです。なんだかいろいろ忘れられて、夢を見ているみたいでした」
「そう言ってもらえるとカリムも喜ぶ。ペアワークは今日で終わりだが、また遊びに来てくれ」
「ぜひ。もう明日にでも行きたいくらいです! でもこんな大掛かりなことをいつも?」
「そういうわけじゃないんだが、何かとイベントが多いんだウチの寮は。ただ、定期的にすることで寮生たちの統率も高まるしな……これはオレの連絡先だ。また遊びたいときは連絡するといい」
「! ありがとうございます」
ジャミル先輩が、メモに連絡先を書いて渡してくれた。連絡先の交換というものもアルバイト関連の学生としかしていなかったため、喜びが隠せない。ジャミル先輩は鏡舎まで見送ってくれた。
「本当は部屋まで送り届けるべきなんだが、他寮だからな。すまない」
「こちらで十分です。また遊びに行きます。ありがとうございました」
鏡舎を抜けてオクタヴィネルへ戻ってくると、胸やけに襲われた。見慣れた道のりと、慣れない純粋な楽しさへの違和感が露わになる。入学したときはこの水槽に囲まれた廊下も幻想的で夢みたいと思っていたのに、数か月経っただけなのに今ではただの現実だ。スカラビアの風景だってずっとそこにいれば現実になる。どこへ行ったって現実、そんなことはわかっている。でもここではないどこかへ逃げ出してしまいたいとばかり考えていた。2年生のフロアに辿りつき、私の角部屋を目指す。ジェイド先輩たちの部屋の前を通るとき、私は息を止めて忍び足で進んだ。私の気配がバレませんように。頭の中だけは夢を見たままで眠らせてくださいとお願いしながら通り抜ける。
何事もなく自室にたどり着いて、扉を静かに閉める。少しがっかりする気持ちの変化に苛立った。好きな人のことを避けられるわけないじゃないかという駄々をこねる私と、そうやっていると時間だけが過ぎて今にもジェイド先輩との関係が危ぶまれるぞと警告する私が、天使と悪魔のように争う。生憎、私はどちらの味方にもなってやれなかった。ベストのボタンをゆっくり外しながら浴室へ向かい、おもむろにシャワーを浴び始める。宴の非常な楽しさがシャワーによって洗い流されて、祭りの後の物寂しさだけが水滴となって身体にまとわりつく。それを丁寧に拭って、自分の身体を労わった。
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