短すぎた逃避行


「今日もまかないは持ち帰られますか?」

 バイト終わりにジェイド先輩に尋ねられ、私はすかさず「はい」と答える。ジェイド先輩は微笑んで頷き、私が手渡したタッパーを受け取った。
 ジェイド先輩は普通。私の稀有だったのかもしれないというほど、彼からの好意が強くなっている兆候は見られない。拍子抜けするくらい今日の態度もあっさりしていて、昼食を誘われることもなかったし、いつもと変わりない対応だ。私はそれが気になって仕方がなくて、バイト中もチラチラと横目で先輩の姿を確認してしまったほどだった。

 今日はオープンからの出勤だったため、ジェイド先輩たち複数人の寮生を残して先に退勤する。

「お先に失礼します」
「はい。またお願いしますね。熱いので気を付けて」
「ありがとうございます」

 ジェイド先輩が持たせてくれたタッパーと共に、この前スープを頂いた時のような手紙がついている。私がびっくりして見上げると、先輩の目が私に何らかの期待を訴えかけていた気がした。


『明日、夕食をご一緒しませんか』

 部屋に戻って手紙を開けた私は頭を抱える。明日は断る理由もなかった。どうしたら……。
 でも、これで応えてしまっては、彼の、いや私の魔法の思う壺。何もなしに嘘をついて断る勇気もなく、卑怯だと思いつつも私はジャミル先輩に連絡を取った。スカラビアに遊びに行きたいと伝えると了承をもらえた。そして私はジェイド先輩からの誘いを断るためにメッセージアプリを開いた。履歴は魔法をかけてしまった翌日の『大丈夫ですか?』というメッセージで止まっており、心がざわつく。

『お誘いいただきありがとうございました。すみません。明日は難しいです』

 いざ送信すると、鼓動が早くなるのを感じた。嘘を吐くのは苦手だ。ジェイド先輩にユニーク魔法について一度尋ねられた時も、こんなに心臓が嫌な動きをした。どうしてこんなに嫌な思いをしないといけないのか、私の怒りの対象は自分の力そのものだった。この力さえなければ私は今頃、楽しくアルバイトを終えて、また次回ジェイド先輩に会える日を心待ちにしていたんだ。……両親から邪魔者扱いされることもなかったし、進学前だって有意義な記録を綴っていけたはず。

『残念です。また今度』

 部屋でまかないを食べ終わり、期末テストの対策を進めていると、ラウンジの営業が終わったのだろうジェイド先輩から返信が届いていた。それ以上言及されることもなくたった一言返ってきた言葉が目に焼き付いて、その「また今度」はあるのかとばかり考えた。望んでしまってはいけない次回。これがイカサマ無しの本物の好意であればこれほどまでに嬉しいことはないだろう。
もしもばかり考えても仕方がない。期末テストでいい結果さえ残せたら、とりあえずは大丈夫。これに集中していたら安心。この苛立ちもすべて消えてしまって、ジェイド先輩への気持ちも消えてしまって、そうしたらきっと平和な日常へ戻れるんだ。



 今日の目覚めはよかった。またここではないどこかへ行けるという安心感。そんな場所を提供してくれる人たちに何かしないといけないと思って、購買部で材料を調達し焼き菓子を調理室で作ることにした。小麦粉の分量を量っていると、ジャミル先輩を始めとするスカラビア寮生が調理室にやってくる。

「あ、ジャミル先輩」
「なまえじゃないか。今日の食事を作りに来たんだ。お前はここで何を?」
「スカラビアのみなさんにお菓子でもお持ちしようと思って、作っていたんです」
「なるほど。しかしだな……」
「はい?」
「いや、せっかくだ。オレにも手伝わせてくれ」
「はい。あの、私も食事の準備を手伝ってもいいですか?」
「そうだな。じゃあこの後もよろしく」
「はい!」

 ジャミル先輩たちもここで料理を作っていたらしく、偶然ではあったが手伝いもできてよかった。何かをしてもらってばかりというのはすごくむず痒くて、自分にできることがあるのは安心する。ジャミル先輩と話して、カリム先輩はジャミル先輩が作ったもの以外食べないと知ったからなおさらだった。
 私は菓子を一通り作り終えると、ジャミル先輩の指示通りに野菜の下ごしらえを行った。先ほどまでの甘い匂いとは一変し、調理室ではスパイスの香りが漂い始める。その香りで肺を満たすように呼吸をすると、先日の記憶を思い出されてこの後の夕食のことで胸がいっぱいになった。

 料理が完成すると、私はそのままスカラビアに向かった。前と同じようにカリム先輩が笑顔で私を迎えてくれる。

「また来てくれたのか! ありがとな」
「こちらこそ、急に言ってすみませんでした」
「謝るなって。今日も楽しんでいってくれ」
「はい! ……それとこれ、みなさんで食べてください」

 先ほど作った大量の焼き菓子を差し出すと、「これなまえが作ったのか?」とカリム先輩は戸惑う。でもその後にジャミル先輩が「オレも手伝ったから安全だ」と言ってくれてたのでそのまま受け取ってもらえた。テーブルにはたくさんの料理が並んで、談話室は今日も賑やかだ。今日は私も少し手伝ったおかげか、前よりも手が付けやすい。……しかし、焼き菓子の味見をしたせいなのだろうか。それともジェイド先輩への罪悪感だろうか。お腹がいっぱいになるのが早かった。私の手が進むのが遅くなったのを感じて、カリム先輩は「デザートにするか?」と問いかけてくれたので、首を振る。

 自分で望んできた割には気分が上がっていない。どうしてもジェイド先輩の誘いを断ったことが頭から離れずに、もやもやしている。前はここに来たらジェイド先輩のことなんて忘れられていたはずなのに。……これは断っても問題なかったんだ。きっと先輩もそんなに気にしていない、と自分を納得させるようにたしなめるも、ここに来ていることがバレてしまったらという不安はぬぐえない。

「なまえ、今日は何がしたい?」
「えっ?」

 唐突にカリム先輩からそう聞かれて、私が楽しみきれていないことが伝わってしまっているのではないか。

「ゲームがしたいとか、踊りたいとか、なんだって付き合うからな」

 優しいカリム先輩に、申し訳なさで私の胸がぎゅっと締め付けられる。自分の思いを伝えたって、カリム先輩には他人事だ。ここで重苦しい話を持ち出したって、楽しくないだろうし。……そう考えると、何も言葉が出てこなかった。
 私から何も回答がなかったからか、カリム先輩は少し悩んでしまった。でも数秒後には何か思いついたようで、私を宝物庫と呼ばれるところに案内した。オクタヴィネルでは聞かないようなワードに私は疑問を抱きながら廊下を歩いていくと、カリム先輩はある扉を開ける。灯りがつくとまぶしいくらいに光る金や宝石や布の数々、無知な者でもその価値がわかるくらいには高価なものが並んでいた。

「……すごい」
「あ、いたいた」

 そういうとカリム先輩は1枚の絨毯を、手招きする? するとその絨毯はひとりでに動き始め、私たちの前に現れた。

「……え」
「これは魔法の絨毯だ」
「そんなものがあるんですね……」
「よし、乗るぞ」
「ええっ!」
「いやなこと忘れたいんだろ。オレが忘れさせてやるよ」
「でもこれ結構……」
「オレを信じろ!」

 カリム先輩は私の手を引っ張って、一緒に絨毯に乗った。分厚い布が空中を浮いているんだ。大丈夫なのか。大丈夫だと言い張るカリム先輩の身体を掴んで震えていると、魔法の絨毯は宝物庫を抜け出して、空へと舞い上がっていく。
 ある程度上昇を続けた絨毯は、高度を保ったままゆっくりと空を進んでいく。ゆっくり目を開けると、周りには星空が近づいていて、下へと視線を向けると、スカラビアの丸くて赤い屋根が見えていた。

「まだ怖いか?」
「す、少し……」
「ははっ。でも慣れてきただろ?」
「少しだけ……」

 魔法の絨毯は私たちを気遣うようにゆっくりと飛び続ける。生ぬるい風が私の頬を撫でる。下さえ見なければ不安は生じないことに気づき、私は自分を囲む夜空を眺めた。遠くに感じていた星たちが、こんなにも近くに感じるなんて。手を伸ばしても届くわけではないけれど、何億光年もの光が私を取り囲んでいて、自分の悩みがなんだか小さなものに思えるような気もした。

「綺麗です」
「そうだろ! こんなに綺麗な景色を見てると、嫌なこととか忘れたりしないか?」

 ……嫌なこと。ジェイド先輩の顔が浮かんだ。嫌、ではない。先輩のことが嫌なわけじゃない。でも忘れるために、自分の思いを消そうとするためにここに来た。一瞬でも私は、吐き出して楽になりたい気持ちになった。でも、すぐ会った人に言えるはずもなく、カリム先輩やジャミル先輩だって身の危険を乗り越えて楽しく振舞っているんだ。そんなの、この数日で嫌というほど滲み出ていたじゃないか。私なんて、こんなことで悩んでいる場合じゃなかったんだ。

「……はい。忘れられました」
「ならよかった!」


 魔法の絨毯を下りる間際、カリム先輩は「悩み事があったらいつでも言えよ。オレたちはお前の味方だからな」と声をかけられた。カリム先輩の瞳はいつだって力強い。強い意志に私は圧されてしまう。


「今日は、ありがとうございました」
「なまえさん」
「……え?」

 妙に聞き覚えのある声だった。

「なまえ。副寮長がお前を心配して迎えに来たそうだ」
「……ジェイド先輩」

 どうして。ジャミル先輩が、ジェイド先輩の後ろから現れた。ジャミル先輩は今日私が急にここへ来た理由なんて知らなかっただろう。気まずい雰囲気を出すわけにもいかず、私はただただ先輩の足元をじっと見つめていた。

「帰りましょう」
「は、はい」

 その声は、冷たいような気がした。私は近づいたジェイド先輩の顔を見上げられないまま、挨拶をしようと振り返る。カリム先輩が私を元気づけるように「またな!」と手を振っていた。私は軽く会釈をして、スカラビアの人たちに見送られた。ジェイド先輩と共に。

 私は意識してジェイド先輩の一歩後ろを歩こうとする。しかし、先輩は私にいつも通り歩調を合わせて、私と共に廊下を歩んでいくのがなんだか気持ち悪かった。

「とても、楽しんでいらっしゃいましたね」
「……はい」

 先輩の言葉に含まれた棘が私の胸をちくちくと刺す。先輩には今日の予定を言わずに誘いを断ったけれど、罪悪感は拭えない。

「昨日……僕は、貴方に予定が何もないことをわかった上で、お誘いしたんです」

 ジェイド先輩は、ジャミル先輩のもとに連絡が来ていないことを日中確認したうえで、私を夕食に誘ったと言った。その淡々とした説明口調から、彼が少しでもいい気分ではないことを悟らずにはいられない。

「……すみません」
「……どうして、僕のことを避けるんですか」

 鏡舎に入り鏡の前に立つと、ジェイド先輩は私の目の前に立って問いかけてきた。どうして避けるかって、それは貴方に魔法をかけてしまったから。私たちは一緒にいては幸せになれないから。それを伝えるべきなのに、私は勇気が出せないまま先輩の前に立ち尽くして顔を伏せた。人気のない鏡舎のなかはとても静かで、壁に灯された灯りだけがゆらゆらと揺れている。


「僕のこと、嫌いですか」
「いえ、そんなわけないです……!」
「でも、貴方は僕から逃げてしまう。どうしてでしょう」
「……」

 どうせ気にしていないと思っていた。だからまさか、こんな問いかけをされるとすら予想も出来なくて、私は相変わらず逸らした目を左右にキョロキョロと動かすことすらできない。

「何も、言ってくれないのですね」

 ジェイド先輩の低い声が、震えているような気がした。こんな声は初めて聞いた。私は驚いて彼の顔を見上げる。彼は眉をひそめて、まるで寂しがる子供のような顔をしていた。

「……なまえさん」
「はい」

 私は何も言葉が紡げないまま、先輩の言葉に応えることしかできない。

「僕は、貴方のことが好きです」
「……ハッ」

 私は息を吸ったまま硬直してしまう。ジェイド先輩は私の手を握る。

「ずっと……貴方のことばかり考えてしまうんです」

 先輩の色素の薄い左目が灯りに照らされて、光っている。その目が怖い。

「僕のそばに、いてもらえませんか」

 拒絶するなら今だ。心の中で声がした。手を振り払えば逃げられるかもしれない。ここで断ったら、それが否定になって、終わるかもしれない。

 だから、今だ。

 今しかないんだ。


 そのとき、鏡舎の外から人の笑い声が聞こえた。心臓が大きく跳ねる。うねるような気持ち悪い跳ね方をする。反射的に息をひそめて、身体を縮ませた。

――あり得ないって!!
――いやホントなんだって、ヤバくね?
――だとしたら幻滅するわ、サイテー

 ……私のことを言っているんだ。私が変に目立ってしまったから、こんな言われ方をしないといけないんだ。これでもし私が問題を起こしてしまったら、この悪口は広がって気づいたらみんなが言いはじめて、私の居場所は、もうどこにもなくなってしまうんだ……。息が詰まる。呼吸ができなくなる。鏡舎の前を笑いながら通り過ぎていく生徒。私は完全にその気配が消えるまで、目をぎゅっと閉じたまま耳を澄ませていた。……すると頬に温かいものが触れる。目を開けると、先輩は片方の手を私の頬に添えていた。
 私はそのまま先輩の目を見つめてみた。夢でも見ているんじゃないか。いや、もはや夢であってほしいとさえ思った。私の手と頬から感じる先輩の体温、心のどこかで望んでいたものが今、目の前にある。このまま振り払ってしまえばどうしようもない孤独が待ち受けているに違いなくて、私はそれがすごく怖くて、口を開いた。

「……はい」

 私の答えを聞いて、ジェイド先輩はいつになく頬を赤らめて、眉をひそめたまま口を少し開いた。私の頬から離した手をそのまま口元へ運び、どういう顔をしたらいいかわからない、という表情だ。初めて見るジェイド先輩の表情。恋人になった特権を強制的に手に入れてしまったという、後悔が瞬時にのしかかる。

「ありがとうございます……」
「はい……」

「すみません。柄にもなく嫉妬心をむき出しにしてしまって。でも……これからは僕と一緒なんですよね」

 握られていた手の力が強くなるのを感じる。そこから伝わってくる熱が、もう嬉しいのか悲しいのかわからなくなってしまって、ただただ縋りたいという感情だけが頭を占めていた。

「帰りましょう。オクタヴィネルへ」

 ジェイド先輩に言われるがまま、手を引かれて鏡を潜り抜ける。そのまま私たちのフロアへたどり着き、既に人通りも絶えてしまった暗い廊下を歩んでいく。2人で歩んだ初めての道だった。


-7-


 

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