今日は、休校日。昨日の出来事などまるで知らないかのような、穏やかな朝。目を開けると、枕元にあるスマホが眩しく光っていて手を伸ばす。ジェイド先輩からのメッセージだった。
『おはようございます。昨日はよく眠れましたか?』
その瞬間に、記憶がよみがえる。耳から受け取ったジェイド先輩の好意、頬から伝わった熱。私ごと吸い込んでしまいそうな双の瞳。そのすべてを、リアルに思い出すことができた。私は、記憶の中の、呼吸の乱れた自分を眺める。嫌になるくらい冷静だった。
『おはようございます。はい、ゆっくり眠れました』
『それはよかった。今日は昼食をご一緒しませんか』
礼儀正しい挨拶を交わす。今日は夜にラウンジの仕事があるから、それまで一緒に過ごしましょうとのことだった。少し先の部屋にいるはずなのに、まるで隣で会話を交わしているような速度でメッセージのやり取りは進む。そのうちに、ジェイド先輩が気になっていたシーフードパエリアを一緒に作ることになった。
私が身支度を整えて調理室に向かうと、ジェイド先輩は先に到着していたようで、火のメンテナンスに来ていたゴーストとお話をしていた。ジェイド先輩が入り口に立っている私に気づいて微笑みかける。私はゴーストがにやにやしながらこちらを見て消えていくので、会釈をして先輩のもとへ近づいた。
「すみません。遅くなりました」
「いえ。つい浮かれてしまいまして、早めに来てしまいました」
ジェイド先輩は料理自体知っていたものの、パエリア鍋がないことを悔やんでいたらしい。最近、調理室にパエリア鍋が仲間入りしたことで作りたいという意欲に駆られたようだった。一緒に作ると言っても私は基本的に下準備をするくらいで、あれこれやりますよと名乗りを上げるが「危ないので大丈夫ですよ」と言われた。なんだか過保護。調理室で2人きりなのも、一緒に料理を作っていることも、2人の会話が流れるように紡がれるのも変わりないはずなのに。何かが違う。それはジェイド先輩がたまに私を見つめる視線が熱く感じたり、野菜の切り方を教えるときの距離が近い気がしたり、私が喜んでいたはずのそれらが今怖くてたまらなかったり、そういう感覚的なものだった。はたから見たらいつも通りに見えるかもしれない。でも私たちは変わってしまっている。
気が付けば魚介とサフランが混じった香りが私の鼻を刺激した。私は少し休憩してくださいと言われるがまま、椅子に座っている。先輩の後ろ姿を見つめていると、先輩がわずかに振り返り、ピアスを揺らしながら微笑みかけてきた。なんだか、有名な人が描いた絵を見ているみたいで、ぼーっとしていると先輩は私に近づく。
「5分ほど、蒸らせば完成です」
「楽しみです」
「ええ、そうですね」
先輩は私の隣に座った。普段だったら、先輩はこのような調理中の待ち時間にはレシピに書き込みをして、私はそれを興味深そうにのぞき込む。……しかし今日はそれができなかった。ジェイド先輩が私の顔を見つめていたから。
「どうか、しましたか?」
「……僕たち、お付き合いしているんだなと、思いまして」
恐る恐る訪ねる私に、照れ臭そうに笑う先輩。抑えきれない笑みのせいか、口の端からは鋭利な歯がこちらを覗いていた。普段凛としていた先輩が、あまりにもふにゃっと砕けた笑い方をするものだから、私はびっくりして顔をそらした。
「はい……照れちゃいます」
「本当に、照れ臭いです。フフフ」
この笑顔を、何の迷いもなく喜べたらよかった。……私が昨日、断っていたら。そもそも魔法をかけてしまわなかったら見られなかったであろう表情。2人きりだけの特別な時間。目をそらした先には砂時計が見えて、少しずつ時を刻んでいた。積もっていく砂のように、小さなことの積み重ねが今を作っていて。でも、その今がよく見えても、起きてきた小さなことは私には受け入れられない。あの砂が詰まってしまえばいい。緩やかに流れていく時間がいっそ止まってしまえば、幸せになれるかもしれない。こんなに綺麗な人の笑顔を、何の疑いもなく受け入れて味わえたなら。誰にも知られないまま2人だけで……ひっそりと生きていけたら。
ちょうど砂がすべて落ち切って、料理は完成した。
食堂の隅っこで、私たちは鍋と皿を並べて向き合う。食堂は休みではあるが、憩いの場所として開放されているため同じく昼食をとろうとする生徒が点在していた。私たちは目立たないように隅の席に座っていたが、匂いにつられて1人の生徒がやってくるのが見えた。
「こんにちは〜。あらおふたりさん。美味しそうなもの食ってるッスね〜」
「おや、ラギーさん。見つかってしまいましたね」
「こんにちは……」
彼の頭についた大きな耳がピンと伸びた。痩せた身体に不釣り合いなくらい大きな学生服を纏ったサバナクロー寮の生徒。たまに、ラウンジでもアルバイトとして見かけた気がする。彼は私に微笑みかけるとジェイド先輩に話しかける。
「モストロ・ラウンジの新メニューでしょ」
「よくわかりましたね。貴方の嗅覚の鋭さにはいつも驚かされます」
「またまたー。でもこんなにたくさん食べられて羨ましい限りッス。オレなんてレオナさんの昼食調達したものの、オレが食おうと思ってた分まで取られちゃって……腹ペコのまま歩いてたらついつい匂いに釣られちまったんスよねぇ」
「おやおや、それは災難でしたね……」
「このまま調理室でばあちゃんから新しく教わった山菜レシピを使って、昼メシ作るんで、さよなら〜」
「あ、あ……」
そういうとラギーさん、はポケットからメモを取り出して捲りながら去っていく。ジェイド先輩がよかったら分けてあげてもよかった。鍋いっぱいのパエリアはジェイド先輩なら食べられるが少し多いような気もしたから。それを見送るうちに変に声が漏れてしまった。それと同時にジェイド先輩がラギーさんを呼び止める。
「……ラギーさん。実はこのパエリア、作りすぎてしまったんです。それに今後お客様にお出しするために、試食してアドバイスを頂けませんか?」
「なるほど、事情が事情なんだから協力するッスよ勿論……レシピ2つでどうッスか」
「構いません」
「シシッ。じゃあお皿持ってくるんで!」
再び調理室に向かうラギーさんの足取りは、先ほどよりも軽やかだった。
「彼がお持ちのレシピは低コストで質も保証されている良いものばかりなんです」
「そうなんですね……」
ラギーさんはお皿を持ってくるとジェイド先輩によそってもらって、「感想楽しみにしてくださいね、あ! お嬢ちゃん、デートの邪魔してごめんねー」と私をからかいながら、満足げに席を後にした。私は普段なら熱くなるはずの顔が冷め切っていくばかりで、急いでジェイド先輩に視線を戻す。ジェイド先輩は私が食べられる量のパエリアをよそっている最中で、眉を寄せて申し訳なさそうにしている。
「すみません、量が減ってしまいました」
「いいんです。多いなとは思っていたので、ジェイド先輩なら食べきってしまうとも思っていたんですけど」
「そのつもりでしたが、よい収穫もありましたし、満足です」
改めて食事を始める。鍋はまだ熱くて、パエリアはまったく冷めていなかった。互いに感想を言いあいながら、口に運んでいく。2人で美味しいものを食べるという時間がたまらなく好きだったはずなのに、先ほどのようにジェイド先輩の知り合いに見られてしまったら、怪しまれてしまったらと考えると、適度に柔らかく調理されたはずの米も喉に詰まりそうだ。
食事を終えると、ジェイド先輩はラギーさんからもらったメモを眺めていた。
「よかったですね。新しいレシピが手に入って」
「嬉しいです。……貴方は先ほど、ラギーさんに分けようと考えたでしょう」
「わかっていましたか?」
「ええ、貴方は素直な子ですから、よくわかります。声にはなっていなかったようですが」
少し笑われて、私は恥ずかしい気持ちになった。
「ラギーさんも、勝算があって僕に近づいたんです。善意だけで分け与えていたら、返って怪しまれたかもしれません」
「……そういうの、慣れてなくて」
相手が困っていたら手を差し出す。それは両親からの教育だった。自分が無害であること、有能な人間であることを知ってもらうために気を付けなければならないことだった。だから今のような借りは返さないといけないという感覚が、どうも掴み切れないときがある。オクタヴィネルに所属することになったにもかかわらず。
「しかし、貴方が故郷で魔法薬を作っていたときは、すべて善意というわけでもなかったのでは?」
「それも。そうですね……」
私の故郷は、魔力を持つ者が他と比べて少ない町だった。両親はそこで唯一魔法が使える町医者として名が知られており、効果が高い魔法薬を求めて外部から受診に来る患者も多い。私も魔法薬をお遊び程度で作っていると、周りの同級生たちから頼まれて、魔法薬をあげることが多々あった。記憶力がアップする薬、足が速くなる薬、惚れ薬など……薬の勉強は好きだったし、同級生から頼りにされるのが嬉しくて、質を上げていくと同時に、対価としてお金などをもらうことが増えていたのは事実だった。
「善意というより……相手が喜ぶのを見ると、安心するんです」
「大変慈悲深いですね。オクタヴィネルにぴったりだ」
「そうですか? それならいいんですが……」
「来ていないと、今こうやって一緒にいられなかったかもしれません。僕は本当に嬉しいんですよ」
まっすぐに見つめられて、私は今度こそ顔が熱くなった。一身に愛情を受けるということに慣れていない未熟さに、この刺激は強すぎる。私はジェイド先輩のためにと仕事の手伝いを買って出てきた。そこから得られる柔らかい微笑みが欲しかっただけなのに、こんな刺激を一度得てしまったらこれからどうなっていくのか……あれ? 私魔法薬の話、ジェイド先輩にしたことあったっけ?
疑問と共に最後の一口をゆっくり飲み込んだ。飲み込んだ後も、喉に感覚が残ったままで何かを主張しているようだった。片づけを終えると、ラウンジに赴き開店前のテーブル席でテスト勉強をする。ジェイド先輩は、成績は良さそうだがあまり数字を気にしない人らしかった。それ以外に秀でているところがたくさんあるのだから、気にしなくてもいいのだろう。そういうところが羨ましい。一方、私は努力をして数字によって価値を示していかなければならなかった。ここに来てよかったと思ってもらえるように、人間として優秀だと思ってもらえるように、その意欲こそが私を勤勉にさせる原動力だった。ジェイド先輩はそんな私をずっと応援してくれた。わからないところは丁寧に教えてくれるし、疲れそうなときには紅茶を淹れてくれるし、つきっきりの家庭教師みたい。先輩は私の相手をしながら自身の仕事をしている。少し興味を持ってのぞき込むと、ハロウィーンウィーク開催の概要だった。
「……そういえば、ハロウィーンもうすぐですね」
「ええ。僕とアズールも実行委員です」
「マジフト大会に引き続き、忙しくなりそうですね」
「この学園はイベント目白押しですからね。賑やかなのはいいことですが、なまえさんと過ごす時間をとれるように努力します」
「……ありがとうございます」
「さて、そろそろ開店準備の時間ですね。名残惜しいですが、今日はここまでにしましょう」
ジェイド先輩は「よく頑張りました」と言って、私の頭をゆっくりと撫でる。大きい手にすっぽりと私の頭はフィットして、その接触が鼓動をよけいに早くした。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。楽しめました。また連絡します」
「はい……お仕事頑張ってください」
「頑張ります。では」
ジェイド先輩は私を部屋の前まで送ってくれた。軽く別れの挨拶を交わすと、先輩は自室に戻る。これから寮服に着替えて店を開けないといけなかったのに、もっと早くに勉強を切り上げればよかったと少し申し訳なくなる。部屋に入り、ベッドに腰掛けて深呼吸する。私は夢見ていた先輩との時間を、撫でられた頭を押さえながら思い起こしていた。上手く振舞えただろうか? もっといい動きや返答があったんじゃないか? 反省会をしては次回他の人に見られたとき、違和感のないような動きをしないと。それが今できる最善だと思って。
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