Tempest 2




「忙しかとやろう?さつきさぁ、いつまででんご城下におったらよかよ」
桐野先生のお世話には私がいますから。

桐野に昼餉を持って行くのに土間を出ようとした時、戻ってきたりんとばったり出くわした。
手元を見るなりぱっと弁当を奪ってそう口にしたりんを、さつきは本当に目を丸くして見つめてしまったのだった。
なんと言うか、普通に驚いている。
東京にいた時、あの時の雪緒が言うセリフとしてならまだ分かるが、今、桐野の隣にいるさつきの立場には名前がある。
正真正銘赤の他人であるりんにそんな事言われる謂れはない筈だ。

「……りんさんはいつお帰りに?桐野からも早くご自宅に戻るよう言われているでしょう。若い女性がいつまでも男世帯にいるものではないと思いますよ」

我ながら意地悪な言い方だとは思うけれど、これぐらいは言わせてもらいたい。
常識的に考えて至極真っ当な言い分だろうし。

しかしりんはそれには応えず、ふんっと顔を背けて開墾地の方へと行ってしまった。
本当に一体何なんだろう。

目的は誰がどう見ても桐野だろうけれど、
(目的って言ってもねえ……)
婚儀を挙げていないとはいえ、ここでのさつきの扱いは妻だった。
桐野の態度がそうであったから自然周囲もそのようにさつきをそう思っていたし、そう扱っていた。
本当に、ただ婚儀を挙げていないだけだ。
それにりんが誰に聞いても、さつきを桐野の妻だと答えるだろうと思う位の実績は積んでいる、つもりだ。

(奥さんがいる所に敢えて来るって、……愛人狙い?)
愛人って。明治風に言うと妾なのか。嫌な響きだ。

(ていうか二号さんって普通男の人が黙って余所に作るもんじゃないのかな)
少なくとも何の関係もない女が、妻がいる家にまで押しかけてなるようなものではないと思う。

「うーん……」

りんは昼からも桐野にべったり、夜も従僕たちの白い目に晒されながら夕食の場を共にして、その上今日はここに泊ると言い出した。しかも言って聞かない。
そうして彼女は就寝の間際まで桐野の傍にいた。

桐野にきつく窘められなければ一緒に寝ると言い出したんじゃないかと思う。
さつきが不在の間、桐野が幸吉らの室に行かなければ確実にそう言い出していただろうと、本当に頭が痛くなってしまった。
男の方からするとこれはどー見ても据え膳ってやつだ。鴨ネギだ。いただきますされるやつだ。
桐野が身持ち固くいてくれたから何も起こらなかっただけで。

(か、顔が引き攣る……)

若者や従僕たちの手前、苦笑いで済ませているけれど。
さすがにちょっと待てよと思うし、心に波が立つ。
小さな子供ならかわいいが、二十を幾つか超えた女だとこちらとしては苦笑で済まされる話にはならないのである。


「きいさん、ちょっといいかな」
夜、布団の上で不機嫌丸出しで声をかけたさつきに桐野が苦笑した。
「言いたい事は分かる」
「ハイ」
「なんもナカ」
「分かってます。でもさーぁ……」

さつきは俯いた。
桐野はりんに再三帰れと言っている。それを聞かないのは彼女なのだ。
日中に従僕を遣って彼女の親戚宅に引き取ってくれとも伝えていたのだけれど。

(………)

さつきに仕事があるように桐野だって暇ではない。
監督する若者は増えているし、最近では城下からの訪問客と室を締め切り人を払って話をしている事も、逆に桐野が城下に赴く事も増えていた。

理由は聞かなかったけれど、私学校の事について話をしているのは薄々気付いている。

偶然なのかどうなのか、前に幸吉と城下の空気が怖いという話をしてからだ。
それから城下に行くまでの道中で、また城下で、感じる空気の重さが少しずつ変わってきた気がする。
何かあったのかなと桐野に聞いた事もあったけれど、今思えば家に来る人たちや桐野が”何か”していたのだろう、多分。
そしてその”何か”は明治九年の今でも続いている。

(西南戦争は明治十年だった……)

東京で捨ててきた筈の、ひとつの不安。
小石と一緒に捨てたつもりで薩摩に来たけれど、実際にはそうはならなかった。
江藤新平の運命を悟った時、江藤の死の予見と共にさつきはぞっとしたのだ。
このまま時間が過ぎると戦争になるんじゃないかと思って……桐野の未来が見えた気がして、それからというもの不安は常に隣にあった。

だから、開墾社の若者たちの言動を見ていて怖くなった。
できる事は少なくても、影響力はないかもしれないけれど、足元にある不安定要素をこのまま放置していてはいけないと思った。
その頃には幸いにも収入があったから、少し窮屈な思いをしても、それを最大限に利用することにしたのだ。
それが今に繋がっている。

明治九年、だ。
少なくとも桐野たちが戦争に繋がるような動きをしているようには見えない。
それに私学校や若者たちの雰囲気が柔らかいものに変わってきていることを考えても、現段階ではその選択肢はないのだろう。
ということは。

(……今って西南戦争が起こるか起こらないかの正念場なんじゃないの……?)

少なくともこの状態は維持しなければ。


「さつき、すまん」

話の途中で黙り込んだからか、心配して桐野が顔を覗き込んでくる。
怒っていると思っているのだろう。

(確かに怒ってはいるんだけどね、りんさんに)
「あー……あのね、」

桐野には今、女の事にかまけていられるような暇はない筈だ。
こんな事でこの人の手を煩わせるのは間違っていると思う。

「言いたいこと沢山あったんだけど、なんかもう良くなっちゃった」
「さつき」
「あ、我慢してるとかじゃなくてね、あの子に構ってられる程暇じゃないっていうか。きぃさんもでしょ?」

開墾は肉体労働だ。開墾地に出た時は流石に疲れて帰ってくることが多い。
欠指のせいでヒヤッとする事もあると聞いている。色々と気苦労がある筈だ。
それに何より御城下の案件が重くて、女を追い払う事に労力を使うのが面倒なのだろう。
……それは思っても口にはしないけれど。

「……」
「まあ、でも、ね……ヤキモチを焼かないというのは中々難しく……」

そっとあらぬ方向を向いたさつきに桐野が小さく笑う。
おいでと手を広げられたのでその胡座に跨ると優しく背中を抱かれ、桐野の唇が瞼に触れた。
それから鼻先、頬へと移り、最後耳朶へと与えられたキスがくすぐったくて首を竦めれば、桐野が耳元でくつくつと笑う。
こつんと額と額を合わせて睫毛が触れそうな近さで見つめ合えば、桐野の瞳がやんわりと細まってそのまま唇が重なった。
角度を変えて唇を食み合う間に、しゅるしゅると桐野が寝巻の共紐を解いていく。
それがぽいと布団の外へと投げ出されると、厚みのある手が素肌の上を這ってさつきの肩から寝巻を落とした。
もう一度軽く唇が合わさる。

「……浮気したら許さないから」

そう言った途端、ふっと彼の視線が襖の方へと逸れ、そしてすぐにさつきへと戻ってくる。
どうしたのかと思ったけれど、桐野がいつものように口角を上げたので何も聞かずにそのまま視線を合わせた。

「出来っと思うか?」
「思わない……だってきぃさん私の事すごく好きでしょう?私だけでいいって言うくらいだしね?」
笑われてしまった。
「信じてます」
「よし、もっと信じられるようにしちゃろう」
「言い方が!おじさん臭い!」

そのまま鎖骨を唇で吸われ、さつきは身を捩りながら笑った。







「さつきさん、先生の事ほんま堪忍な」

幸吉の言葉を聞き返せば、彼は今の状況をとても心配しているらしい。

「出て行くとか言わんでね」
「言わない言わない、それに分かってるよ。昨日きぃさんとも今それどころじゃないよねって話したしね」
「でもあの人のやってることはあんまりや。今日かて……」

台所を勝手に使って朝餉から昼の準備まで整えて、桐野の朝の給仕までしていた。
家にいる時はどれもさつきがしている事だ。出過ぎてると言う幸吉の気持ちはよく分かる。

「でもさあ……私思うんだけど、私がいる時にあれ……あの子のしていることって」
「女中?」
「……じゃない?」
「せやけど……あの人さつきさん押し退けて先生の奥さんになりたいんちゃうかなあ」

目を見開いてしまった。
奥さん?

「そ、それは考えてなかったな」
愛人じゃなくてそっちか。
「さつきさんが手薄な所から家に入ってこようとしてるんやと思う」

そう言われて、ああなるほどそれなら納得できる、と思った。

「それに昨日の夜寝所覗いとったって先生言うてたよ。どういうつもりなんやろね。それにさつきさんおらんかったら、」
「え?」

思わず幸吉を遮るようにして驚声を被せてしまった。
寝所に来た?知らない……
そう言えば昨夜桐野と話している時、彼の視線が不自然に逸れた瞬間があった。
りんに気付いていた上で抱いたのか。
中々いい性格してると思うけれど、桐野もまあそこそこイラついているのだなと思う。

「でもウチに来たって意味ないのにね。先生は家事できる人が欲しいんとちゃうのに」

びっくりした。
桐野にはそう言われていたけれど、幸吉にまでそう言ってもらえるとは思わなかったから。
「ありがとう……」
核心的な事を身近な人が分かってくれているのは嬉しい事だった。

「あの人が何したって先生は近所の娘としか思わんと思う。でも、そしたら次はきっとさつきさんトコに行くね」
「うーん、そうだね……」
いつものパターンってやつですね。
雪緒の事が思い出されて苦笑してしまう。

「でも今日こそ帰したいって、山下様に間に入ってもらいに行くて言うてはったから。もう大丈夫かなあ」
そうなの。
「でも何もされんように気ぃつけてね、さつきさん。それに明日また御城下やんね?明後日は先生もそっちの予定やけど」
それまでに何とかして欲しいという幸吉にさつきも同調した。


幸吉の言う通り桐野はりんを相手にしていなかった。
上野の屋敷にいた時、幸吉は桐野のそれまでの屋敷にいた女性達の扱いを、
「いつもはもっと放置。あ、そんなんおったんか、そんな感じ」
そう言っていたけれど、ここ二、三日眼前で展開されているのは正にそれだ。

桐野に何かをしようとしてもさらりと躱されて、りんからしたら取り付く島もない感じだろう。
自然、真逆の扱い(当然なのだが)を受けているさつきへのりんの態度は刺々しく毒々しい。

とは言え彼女は日中は桐野と行動しているし、帰ってきたら桐野がさつきといようとするので、ありがたくもりんとふたりきりになる事は殆どなかった。
なので桐野には気の毒だなと思いつつ、そして面白くはないにしろ、さつき自身は被害をあまり感じてないと言うのが本音ではあったし……
それだから笑っていられた。



だから翌朝、まさか家を出る間際にりんに心を抉られる事になるとは思っていなかったのだ。
早い時間に開墾地に出掛けた桐野を見送り、じゃあ自分も行こうとなった時に奇襲された形だった。
りんの姿を見なかったし、桐野の後を追ったのだろうと完全に油断していた。

「さつきさあ、……」
「あー……うん、大丈夫大丈夫。心配かけてごめんね」
さつきを心配して何度となく様子を窺ってくれる常次郎に却って申し訳なさを感じてしまう。
「あん人、自分を何じゃち思うちょるんじゃ」
(ホントそれな)
常次郎が吐き捨てた台詞にさつきは返事はしなかったけれど、内心では大いに同調していた。


貴方(おはん)、ほんのこて良かご身分ね。炊事も洗濯も何もかも、先生んお世話何ひとつせんで、ほんのこて自分ん事だけ。もう帰ってこんでよかよ。医学校ん事しかせんならご城下に住めばよか」

土間の上り框に荷物を纏めて、常次郎を待っていた時だった。
入ってくるなりそんな言葉をぶつけてきたりんに抱いた感想は、
(一体何を言ってるんだろうこの人)
だ。

唖然としてりんの顔を見てしまう。
桐野とさつきの間の決め事にりんから口を挟まれるような謂れはない。
ムッとしたのだけれど、

「好きな時に帰ってきて(うち)がおっとにこれ見よがしに夜は抱かれて、気が済んだらまた医学校。ウィリス先生ん手伝(かせ)と言うけど向こうで一体何しちょるんだか。貴方東京ん女郎やったんやろう?」

一時期よく言われていたキーワードを久しぶりに聞いて顔が引き攣る……と言うよりも、強張った。
様子が変わったさつきに、目の前の女が勝ち誇ったようにニコニコと笑いながら口を開く。

「第一祝言も上げちょらんのやろう。そいに男んごたっ(なり)して、そげなん妻じゃなか。ここの二才も口を揃えて貴方を妻と言うけど、みんな、従僕ですら貴方を名前で呼んじょる。貴方も先生をきぃさんって。おかしか。一体どう騙しちょるんよ。長い事……三年もお側におっとに子供もおらんくせして居座って、どうかしちょるわ」

「なあに、都合が悪うなったらだんまりなの。聞こえちょる?貴方にここにおる資格はなかち言うちょっと。じゃっでもう戻ってこんでよかよ」



(………)

「先生の身の回りの事は家におる時はいつもさつきさんがしちょる。あん人が勝手にやっでできんかっただけじゃ。そいに先生が妻じゃち言うちょるんに、妻じゃねなんち、あん人が決める事じゃなか。二才どんらの世話もさつきさぁがどれだけしちょっかも知らんで!そいに、そいに……!」

さつきを迎えに来て、タイミング悪く一部始終を聞いてしまった常次郎はよほど悔しかったのか半分泣きながら怒っていた。
「大丈夫だから常くん、そんなに怒らないで〜」
そう常次郎を慰めながらの道中はしかし、少し憂鬱なものだった。

つい考えてしまう。
りんが口にした事は、いくら桐野がいいと言ってくれても気にしている事だったから。

ふたりで、特に桐野がいいと認めてくれての今の共働きの生活スタイルだった。
それにお互いに今では、やらなければいけない、譲れない事があると思いながら日々を過ごしているから、それでも全く問題ない。
本当はさつきだってもっと桐野に構いたいけれど、時間的な制約がそれを許さなかった。

そういう事情はこの時代の人にはちょっと理解され辛いだろうなとは、思っていた。
間近にいる従僕たちや開墾社の若者たちは分かってくれていたけれど。

そうした事情を何も知らないりんに妻じゃないと言われても、実はそんなに響かないのだ。
祝言……結婚式云々だって、桐野の状況を考えると大した問題じゃない。

(ただ、ねえ……)

ふ、と小さく息を零すと、心配の色を湛えた常次郎の瞳がこちらに向けられた。


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