Tempest 3




「行く所がある。付いてきてくれ」
何を思ったのか嬉しげに頷いた女に桐野はひとつ溜息を吐いた。
告げてはいないが、行先は山下翁の家だ。
後ろから付いてくるりんにちらと視線をやると目が合った。にこっと笑う様子にげんなりして前を向く。

年の頃は二十二、三。見目も気立ても悪くない。
こんな所にいなくても引く手数多だろうに、なぜ一回り以上年の離れた妻帯者のところに来るのかと桐野は内心で舌打ちした。
東京を去ってから数年、久しくなかった女絡みのいざこざは今の己には思いの外面倒になっていて、
(もういい加減にしてくれ……)
本当に溜息しか出ない。

りんは城下の医者の娘だった。
家業を手伝っているのか、桐野の世話も二才らの世話も手馴れた様子でこなしていて、何の感情もなく見れば普通にいい娘だと思う。
彼女との関わりは、何日か前、集落の集まりで顔を見たのが初めてで、その時茶か何かを渡されて礼を述べた程度だ。多分。……そうだったと思う。
もうそんな事すら覚えていないほどりんの事は記憶になかった。
そうであるからそれ以前の接点はなかった筈だ。

京都でも東京でもこんな事は幾度もあった。
男としては女に言い寄られるのは正直悪い気はしなかったけれども、唯一がいる今となっては話は別だ。心底面倒でしかない。

桐野は何よりその唯一――さつきの事が気にかかっていた。
さつきはいつも通りの態度で、桐野の状況も分かった上でそれどころじゃないと言っていたけれど、嫉妬しない訳ではないとも言っていた。
桐野が浮気する気がないのを分かっていてそういう事を口にするところがかわいいのだが、そうであるからこそ「信じている」と言ったさつきに応えたい。


山下翁の屋敷に到着するとすぐに姿を見せた親族にりんは驚いていた。
桐野の目的を察したのか眉根が寄る。
しかし奥に通され、世間話も殆どしない内に「いい加減引き取ってくれ」と口にした桐野に、りんは頑として首を振らなかった。

「嫌じゃち言うてん、その桐野さぁが迷惑じゃと言うちょる」

山下翁のこの言葉にもりんは頑なに口を噤んだままであったが、やがて彼女の親戚が口を開いた。

「桐野さぁ、奥様の事を承知で伺いますが、りんを迎える事は、」
「そいは絶対にできん」
「別宅があってもですか」
「別宅云々の話でんなか。妾はいらん」

妻はさつきだと告げる意もあり、妾とはっきりと言い切った。
りんの顔が軽く歪む様子に内心で息を吐く。その様子を咎めない親戚は……
(りんの味方か)
道理で幸吉らをやっても梨の礫だった筈だ。

「なあ、分からんのじゃが、俺は貴方(おはん)に何ぞしたか?」

不思議だったのだ。どう思い返しても桐野はここまで執着されるような事をりんにしていない。
しかし、ぱっと顔を上げたりんは桐野に笑いかけると、医学校兼病院で見たとポツリと呟いたのだった。
(医学校?)

「さつきさぁを抱えてウィリス先生の所に……」

ああ、さつきが月のもので倒れた時か。もう随分前の話になるが。
りんは父について時々医学校に顔を出しているが、偶々滞在していた時にその場面に居合わせたのだと。それが何故また。


「あげん大事にされて羨ましか」
聞けば妻だと言うから更に羨ましく思ったのだと。

あれ以降医学校に顔を出すようになったさつきは、気が付けば仕事を任されるようになっていた。
そして来ない日もあれば数時間いる時も、朝から晩までいる日もある事を知ってりんには疑念が湧いたのだ。
(ほんのこて妻?)
住んでいるのは吉田だ。距離がある。
朝早かったり夜遅かったりすると女では行き来を憚る筈だが、城下にある屋敷に泊まっているらしい。
同じ話を聞いた頃、桐野らが祝言を挙げていない事、さつきは東京の遊女だったとも聞いた。
なんだ、周囲が妻だと言っているだけで実際は妾か何かなのか。
りんは自分の中でそう結論を出したのだった。

父から吉田へ使いに行くよう言いつかったのはちょうどその頃。
出向いた親類宅で手が足りないからと頼まれ駆り出された先の集会で桐野を見つけ、家までついて来た。
それがつい数日前の事で、それから桐野宅にほぼ滞在している。


「…………」
山下翁が目を丸くしてりんの声を聞いている。
何を言っているのだこの娘は。
そう言いたい気持ちは痛いほど分かる。桐野の家の内情をそこそこ知っている翁なら尚更だろう。
何せ桐野本人もそう思っているのだから。

「りん殿、うちに居座って……女中の真似事ばして一体何をしたい?」
「なっ、女中じゃあいもはん!」

女中じゃないとは。
山下翁が更に驚いている。翁の手前もあってか親戚はやや気まずそうで、若い娘の奇行を止めなかった時点で言い方は悪いが共謀(ぐる)だったのだろう。
ただ桐野は幸吉同様に大体想像していたから、さして驚きはしなかった。
やっぱりなという程度で。

「なら何じゃ。貴方は妻でんなか。そいに俺は妾もいらん。じゃっで幾度となく帰れち言うたじゃろうが」
「私の方がもっと妻らしゅうできます!」
「妻らしゅう?」

炊事や掃除等の家事も開墾地での手助けも、二才達の世話だって妻として恥ずかしくないよう働ける。

「あの方医学校の事ばかいじゃあいもはんか!桐野先生ん事も開墾社の二才たちん事も何もせんで!おる意味があいもはん」
「……ほぉ……さつきが俺の側におる意味はなかち言うか」
「そうです」
「そいでさつきを追い出して貴方が妻になると」
「はい」

ここまで怯む事なく言い切られるといっそ清々しい気もするが。
己の周りの温度が急速に冷えていくのを感じる。

「り、りん、もう止しやんせ」

それを親戚も感じたのだろう。
明らかに口が過ぎていると慌てて止めに入ったのだけれど。


「あんお人は今日もご城下でお泊りですか?私には男所帯に女ひとりでおるもんじゃなかち言てもしたが、さつきさぁじゃちそうじゃあいもはんか。城下んお屋敷にひとりで泊まって、一体何をされちょっどか」

「ふ、ははは」

馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。

「目の届かん所で男連れ込んじょるとでも言いたいか。さつきに限ってそれはなかぞ」
何故と問い詰めるように言われたけれど、断言できる。

「俺たちには互いしかおらん。俺はさつきがよか、さつきだけでよか。あいつも同じじゃ」
「そげな事……」

分からないじゃない、と言いかけたりんを遮って、
「さつきさぁがしちょる事、知っちょるか?」
途中で口を挟んだ山下翁をりんは不審そうに見つめた。

「医学校の病院の方に来る女の患者の通訳をしたり頼まれたもんの翻訳、学生と英会話の練習相手、学校や病院の事務もしちょる」
ウィリス医師が自分の子供に与えた英国の絵本を理解したいというウィリスの日本人妻の為に翻訳もして。
「東京からも依頼があると前に聞きましたな」

桐野はひとつ頷いた。

「かなりの給金ば貰ろうちょる。その分責任もある、時間もかかる。さつきは家事をせんのじゃのうてしとうてもできんのじゃ」

それに桐野もさつきを家事を任せる為に連れて来たのではない。

「それなら尚の事あの人とは別に私が家の事を、」
「俺も従僕も一通り何でもできる。さつきには必要なら女中雇うで気にするなとは言うちょるが、そんつもりはなか」
それに家にいる時にはさつきがしようとしてくれるからそれで十分なのだ。

「二才の世話もいらん。二才は遊びに来ちょるんじゃなかで甘やかさん。さつきにも手ば出すなと言うて、汝らの事は汝らでせいと指導しちょる」

そうとは言ってもさつきは彼らの食事の世話位はしてやっていたが、それは口にはしなかった。別に教える必要もない。


「”女が何もせん”、初めは周りからそう言われた」

桐野がそう呟くと、その当時の事を思い出し山下翁と彼女の親戚も懐かしそうに笑った。懐かしいと言ってもそう遠くない昔だ。

「その他も見事に悪い噂ばかりじゃったなあ」
「ああ、そうじゃった」
「じゃが暫くすると消えましたな」

そう言って軽く笑う翁も人が悪い。おかしな噂を消すのに動いてくれた本人だろうに。
翁からすれば自身の家の嫁の話もあったし、その後若者たちから聞く事になった話に思うところがあったらしい。

「不満が出んのは彼女がしちょる事を多くの者が知っちょるからじゃ」

必要だと判断すれば教育の機会だと捉えて書籍でも旅費でも何でも惜しみなく与える。
その費用の殆どがさつきの給金から出ていると聞いている。
二才らは自分たちが教育面で彼女に随分と養われている事をよく理解しているのだ。

「それなら尚更……別に妻である必要なんてないじゃないですか……」

援助が重要というのなら単なる篤志家(パトロン)で十分で、そういう役目の人間として桐野と付き合えばいいのだ。
別に妻でいるなんか必要ない。

「何か勘違いしちょるようじゃが」
「え?」
「あいつは俺が側にいてくれと懇願して連れてきた。求婚して、逃げられんよう東京を去る前に籍も勝手に入れた。祝言こそ挙げちょらんがな」

言葉にすると穏やかではないなと桐野は笑ったけれど、翁と親戚が呆気に取られた顔で桐野を見ている。
「そ、それはそれは……」
「確かに惚れて連れて来たとは聞いたが……」
親父ふたりがもごもご言っていたが、翁もまさかそんな風だとは思っていなかったに違いない。

「妻である必要はなか?否、根本が違う。必要なんは”妻”でのうてさつきじゃ」
隣にいるのはさつきでなければ意味がない。

「医学校の事は好いた女が偶々そういう事ができたっちゅうだけじゃ。重要じゃなか」
「…………」
「ただ気張っちょる様子ば見っと応援はしたくなるな」
しかもそれが桐野の為にしている事だと思うと愛しさが弥増す。

「先生の為……?」

ぽつりと落ちたりんの疑問に桐野はふっと笑った。
冷たいようだが、根本的には若者達の為ではない。桐野の為だ。

「俺を好きで、俺を苦境に立たせたくない一心でやっちょる。特に二才らがおかしな事を考えんよう、随分気を配っちょるぞ」

それが結果的には若者たちの為にも、周囲の為にもなっている。
今でさえ十分よくやってくれていると思っていて少し息を抜いて欲しい位だ。
世間一般で言う”妻らしい事”なんて桐野はさつきに求めていない。

「じゃっどん私ならきっと子を産めます」
「は?」
「りん!汝は何ちゅう事を!」

(子?)

その一言でこの娘が何故こんなにも折れないのか、桐野はやっと気がついた。

(そこを突いてくるか)

さつきと共にいて数年になる。
一般的には子がいないのは離縁の理由にも、外に女を作る理由にもなる。
寧ろそうする正当な理由と成り得るものだ。

―― さつきに自分から身を引かせる正当な理由にも成り得る、という事だ。

背中が寒くなった。
それを桐野の為と言って突きつければ、さつきなら黙って桐野の傍を離れかねない類のものだ。

目の前にいる小娘を舐め過ぎていた。
りんは恋に駆られるまま行動する程愚かではなく、ある程度の考えがあったらしい。

さつきの月のものでウィリスの下に駆け込んで二年は経つ。
再び顔を合わせたのは偶然だったのだろうが、りんは恐らく桐野の初見がいつだったのか思い返して付け入る隙があると考えたのに違いない。

怒りが湧いた。
人為ではどうしようもない所にヒビを入れて割り込んで来ようとする姿勢が許しがたかった。


「いい加減にしてくれ」

例えりんがさつきの場に居座ったとしても、さつきのようには扱わない。
妻だからではない、さつきだから大事にしている。

「何を言われてんさつき以外抱く気もなか。昨日の房事を見ちょったなら分かったじゃろう」

途端に火が出る程顔を赤くしたりんに、他のふたりがぎょっとした。
さすがに最後まではいなかったようだが、桐野は閨での自分たちの愛情表現の濃さを自覚している。りんにも結ばれて数年経つ男女の営みとは少し違うのは分かった筈だ。

「子もさつきとでなければ為す気もなか。できんでも養子ば貰えば済む話じゃ」
「……何年も一緒にいて子がおらんなんて、側にいる意味があいもはん」

「汝、それをさつきに言うたんか」

呼びかけ方と共に纏う空気が変わったのが分かったのだろう、黙り込んだりんに桐野は確信する。

「さつきに言うて、傷つけて、満足か。”石女(うまずめ)”は嫁いだ女が一番言われたくない事じゃろうが。それを理由に出て行けとでも言うたか」
「…………」
「言うたんじゃな」

雪緒の時と同じように、結局昨晩桐野には何も告げなかったさつきを思う。
あの時も今回も、さつきは桐野に余計な気遣いをさせないようにしてくれていた。
桐野はさつきのそうした心を愛しているというのに。

(…………)

目の前に座る若い女を冷たい目で見つめると、彼女の視線は気まずそうに畳の目へと注がれる。

「私利私欲で人を平然と傷つける思い遣りのない女が一番嫌いじゃ」
「そんな、」

吐き捨てるように口にするとりんが反論しようとしたけれど、

「汝がどう思おうとな、さつきは俺の妻じゃ。家の事に赤の他人が口を出すな」

被せるように、強い言葉で一線を引いて遮断した。

集落の人間の親戚なら全く無関係とも言い難い。それに医学校兼病院にも顔を出していると知っては尚更。
だから納得の上で立ち去ってほしかったのだが、もう理解してほしいとも思わなかった。
どう思われようがどうでもいい。


「連れて帰ってくいやんせ」

親戚に向き直って頭を下げると、桐野は懐から封紙を差し出した。
首を傾げる親戚に、給金だと告げるとりんが息を飲む。
この流れだ、手切れ金のように感じたのだろう。手切れも何も、何の関係もないが。
桐野からすれば単なる労働の対価でしかない。内情はどうあれりんがこの数日家事をしてくれていたのは確かだ。
タダ働きさせて追い出す訳にもいかない。それだけだ。

親戚は酷く恐縮して畳に手をつくと謝罪を羅列した。
初めは協力者かと思った親戚の途中からの反応はまともで、この娘がここまで頑なで周りが見えていないとは思っていなかったらしい。
突発的に巻き込まれた形になったのだろう親戚には、若干の気の毒さを抱いてしまった。

しかし桐野にはもうこの娘の相手をする気は全くない。
間に入るようにして、後はこちらで引き取ると請け負ってくれた山下翁に桐野は礼を言った。


テンペスト:違う所で吹く嵐 不妊は全て女性側に原因があるとされた時代です。
2020092620191127

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