「あ、さつきさぁじゃ」
「先生さつきさぁ帰って来もした」
開墾社で預かっている若者たちの声に振り向いた桐野に、さつきは畦から大きく手を振った。
傍にいたひとりに何事かを伝えると、首にかけていた手拭いで汗を拭いながら桐野がこちらに向かってくる。
「休憩に入るみたい。ちょうど良かったね、おやつここで配ろうか」
その言葉に少し後ろにいた常次郎が頷いた。
ただいまの声におかえりが返ってくる。
唇が自然と三日月を描けば、二日ぶりに顔を合わせた桐野もまた顔を綻ばせた。
「家に戻らんと直接ここに来たんか」
「うん。先にきぃさんの顔見たくて。休憩でしょ?城下でおやつ買ってきたからみんなで食べよ」
「ああ、あいがとな。常次郎もご苦労じゃったな」
常次郎は桐野の従僕のひとりで、さつきが城下に行く際に付いて来てくれる事が多い青年だった。
ぺこんとひとつ頭を下げて、お茶入れてきますと常次郎が小屋へと足を向けようとした時、
「お茶入りましたー」
思わぬ声。
若者たちが居住している家の方から上がった女声にさつきは思わず振り返った。
見たことない若い女。志麻より幾らか上だろうか。
(……誰?)
瞳に不審が浮いたのに気付いたのか、近所の娘だと桐野が口を開いた。
桐野は開墾事業にさつきを関わらせようとしなかった。
開墾自体にも若者らの衣食住にも殆どノータッチ。桐野は彼らに自分達の世話は自分達でするよう指導していた。そうとは言え食事の用意位はとできる時はしていたのだが。
初めはそれでいいのかなと思ったのだけれど、問題ないと言われた。
遊びにおいでと医学校でウィリスが声を掛けてくれた時、その場で桐野は良いと言ってくれたけれど、帰宅してから改めてさつきを前にして言ってくれたのだ。
「俺の手伝いをさせっつもりで汝を連れて来たんじゃなか。ましてや家事をさせとうて連れて来たんじゃなか。そいなら女中雇えば足りる」
「はい」
「さつき、汝は他の女とは違っ」
肯首した。
悪い意味じゃない。明治の女性と比べると持っている背景や経歴が特殊だという事だ。
そして桐野は元の世界での仕事の事や東京での事を指摘した上で、俺と一緒にいてもある程度は働く場が欲しいだろうと言ってきたので驚いてしまった。
それに「お前はここの女と同じようにする必要はない」とも告られげて。
「え……?」
「やりたい事があるならそいを優先させろ。駄目な時は俺が止むっで遠慮するな。汝を閉じ込めて窮屈な思いをさせたい訳じゃなか。ウィリス先生ん話、よかて思うど」
「………」
「医学校で吉田と違う空気を吸うて来るんも、よか気分転換になるじゃろう」
ウィリス先生の話は渡りに船だなと笑う桐野に、さつきは目を見開いた。
その頃には分からないと思われて面と向かって下卑た悪口を言われるようになっていたから……
桐野といられるのは嬉しかったけれど、少し辛い事も増えていたのだ。
ここには志麻のような存在もおらず、辺見や別府とも少しだけ距離ができていた。
ふたりとは相変わらず仲は良いけれど、居住地は吉田からは遠く彼らにも家族がいる。
幸吉も新しい生活で桐野を支えるのに忙しかった。
さつきには東京にいた頃のように気軽に相談できる相手がいなくなっていたのだった。
桐野には心配をかけたくなくて嫌がらせじみた陰口については黙っていたし、それでも最近少しましにはなっていたのだけれど。
(気付いてたんだ……)
「清水馬場の屋敷も風を通さんとならんしな。汝に頼めっか?」
ん?と覗き込むようにして微笑った桐野の優しさにさつきは頷いた。
桐野は言葉通りさつきを自由にさせてくれた。
医学校兼病院では、初めはウィリスの話し相手であったのが学生たちの英語の練習台となり、不効率を見兼ねてOL時代の杵柄で学校の書類整理を手伝えば定期的に頼みたいと言われてしまい、その内事務仕事まで回ってくるようになった。
繁忙期には週の内吉田より城下にいる事の方が多い時まであり、清水馬場に泊まる事も増えていたけれど、桐野は何も言わなかった。
「汝の力が求められる所で気張って、笑って帰ってくる顔見る方がよか」
「翻訳頼まれちょる?凄ぜな、やってみい」
城下では間に合わず、吉田まで洋書を持ち帰って桐野をほったらかしにする事も多々あったけれど、笑って応援までしてくれて。
「きぃさん、私家の事全然できてないよ……」
申し訳なさが高じて謝った事がある。
そうしたら桐野はやっぱり笑いながら、
「俺も幸吉も一通りなんでん出来っぞ」
だから心配するなと。それよりも……
「汝はそげな風に働いとったんじゃなあ」
働く姿が新鮮だったらしい。
「じゃっどんあまり根詰め過ぎっと体を壊す。時間を決めてやれ」
「……ハイ」
「後な、俺との時間も作ってくれ」
そう口にして触れてくる手が愛しくて仕方ない。
毎日一緒にいられるのも良いのだけれど、数日離れて顔を合わせるという環境は初めてでお互いに新鮮だった。
離れていた時の話をして、隙間を埋めるように抱き合って。
本当にいつまでも付き合いたての恋人のようなことをしていると笑って。
吉田に来てからいくつかの季節を過ごし、預かる若者も増えていた。
けれど、山下家に応援を頼む事はあっても、桐野が女中を入れた事はなかった。
だからここで女の姿を見ることはないと思っていたのだ。
女がいるとは、思っていなかった。
それも自分が家を空けている間に。
「女中さん?」
多分声は少しだけ柔らかさを欠いたのだと思う。桐野がこちらを見下ろした。
「否、違っ、近隣の娘じゃ」
きちんと目を合わせて、もう一度確認するように言葉にされた。
「一昨々日、汝が城下に行った後に集まりに出ると言うたじゃろう。そん時に手伝いに来とった。親戚宅に暫く逗留すっとかで、なぜかこちらに手伝いに来る。いらんと言うたんじゃが、来る」
「何でかは、分かってるでしょ?」
「悋気か」
桐野は軽く笑ったけれど、
「私の事言ってる?」
そう口にすると驚いた顔をされた。
「……私だってヤキモチくらい焼くし」
「勿論言うちょる」
「ならいいです」
どこか嬉しそうな桐野の手の甲を抓りながら言ったのだけれど。
焼きもち以上に、パートナーがいると知った上でその留守中に家に上がりこむような真似をされるのはいい気はしない。
「桐野先生、……」
茶を若者らに配り終え、桐野にもと近付いて来た女の歩みが桐野の隣にいるさつきを視認して一瞬止まり、上がっていた口角が途端に下降する。
(ほら、やっぱり)
そうは思ったものの、
「桐野がお世話になっております。留守中にお手伝い頂きましたようでありがとうございました」
世話になったのは確かなので礼は言う。
言いたい事は私が帰って来たのでもうお引き取り下さい、だけれど。
頭を下げると、にこりと笑って大した事もできませんでと口にされた上で、
「桐野先生、お茶です」
軽くスルーの体にこちらの笑顔が引き攣った。
あ、これ面倒なやつだ。
「さつきさぁ、あれはヨカですか」
「うーん……」
四人になるや、幸吉、常次郎静吉兄弟の従僕トリオが詰め寄ってきてさつきは苦笑いだ。
翌日、朝からやってきた彼女は桐野にべったりだった。
これ見よがしに畑にまでついて行った。
桐野が出払った頃合いを見計らい、先生は私がお世話いたしますから、という一言を置いて。
え?とさつきは目を丸くして驚いたのだけれど、その態度には従僕の三人の方が腹を立てていた。
「一体どげなつもりなんじゃろ」
「さつきさん帰ってきたら来ないと思ってたのに」
さつきはさつきで頼まれている仕事を持ち帰っているので、桐野について田畑に行ったりはしない。桐野もそういう事を望んではいなかった。
四六時中ふたり一緒にいる訳ではなく、各々違うことをしているから上手くいっているところもあるとさつきは思っている。
そうは言っても。
(ヨカですか、か)
ヨカねえよと思うけれど、二十歳そこそこの青年らに言う事でもない気がする。
いい子たちなのだ。女の裏面を見せたいとはあまり思わない。
辺見か別府になら、愚痴も聞いてもらいたいなとは思うけれど。
りん、という名の彼女は確かに近隣の娘らしい。この集落の家の親戚の娘で実家は城下だ。
吉田にお使いか何かで来ていた時に集会の手伝いに駆り出され、そこで桐野を見つけてついて来た、という事らしい。
「先生は帰れ言うてます」
「うん、それは聞いたよ」
「夜もおったけど何もなかです」
「え、静吉、あん人泊まったんか」
「あ、あっ……じゃっどん部屋は別……」
「当然じゃ!」
昨夜は帰っていったから、まさか泊っていたとは思わなかった。桐野も何も言わなかったし。
常次郎の突っ込みに焦った静吉がこちらに向かって言い訳をしていて少し気の毒に思ってしまう。
この子のせいじゃない。
「先生は私らと一緒に寝ちょりました」
「ネズミが出るからひとりで寝るの怖いって」
静吉に続いて幸吉が繋げた言葉に、さつきはぷはっと吹き出してしまった。
主に変わって何もなかったと言い訳してくれる子たちのかわいいこと(もうかわいいというような年齢でもないのだけれど)。
「ごめんね、一緒に寝るなんて窮屈だったでしょ」
「先生、早よさつきさぁ帰ってこんかなってぼやいちょりました」
「そっかあ」
少しほっとして笑ってしまった。
「ありがとう。私は大丈夫だから早く行っといで。みんなやる事あるでしょ」
ほらほら行ってらっしゃい、追い出すようにして三人を見送ると、さつきは室へと向かったのだけれど。
書籍を広げて座っても何かをする気が起きず、はあ、と溜息ひとつ落とすと姿勢を崩し、ぺたりと頬を座卓につけた。
東京から引き揚げて三年経つが、今まで一度も女絡みの騒動はなかった。
昨日だっていつものように抱き合って一緒に寝たのだ。
(…………)
桐野が何も言わないのは隠しているからではなく、疚しい事がないからだ。
本当に言う必要がないと思っているから。それは分かっている。
桐野はそういうところで嘘をつく人だとは思っていない。
そして「お前だけでいい」と言ってくれた桐野をさつきは疑ってはいない。
(疑ってはないけど……)
不安にはなる。
Tempest:嵐到来!
奥兄弟は幸吉君同様の実在の人物です。鹿児島の子達。いつ頃から桐野の従僕であったかはちょっとわかりません。南洲墓地の桐野のお墓前にある灯篭をふたりが献灯しています。20200912