いつもの様に清水馬場の屋敷に帰るつもりだったのだ。
働いている内は忘れていたけれど、屋敷でひとりになるとりんに言われた事を考えてきっと悶々としてしまう。
そう思ったさつきは夕方、迷惑を顧みず辺見の家へと足を向けた。
顔を合わせるなり手に持つあれやこれやの手土産を見て何か察したか、泊っていくかと言ってくれた辺見に頷いた。
辺見の家は両親が早くに他界していたが、辺見と妻のハヤ、素介と岩次郎の弟ふたり、何れも二十代。それに加えて一歳と少しになる辺見の娘ワカという、平均年齢がとても若い賑やかな家だった。
彼らとわいわい言いながら食事を済ませ片付けを手伝い終えると、
「飲むで相手になれ」
辺見に促されてさつきは大人しく席に着いた。
「桐野さぁと喧嘩でんしたか」
「ケンカ?ないない」
「じゃあ、また何か……」
「違うよ」
佐賀の乱の後の事を思うのか、辺見は眉が寄せたが、あの時のような不安定さは今はない。
「ハヤちゃん、りんさんて知ってる?お家はお医者さんみたいなんだけど」
ハヤはりんと同じく城下の医者の娘だ。もしかしたらと思ったのだが、
「気は強かどん気立ての良か人……」
やっぱり知っていた。
この感じではあまり悪い印象を持たれる子ではないのだろう。
それは分かる気がするのだけれど。
「今家にいるのよ」
「清水馬場に?」
「吉田の方……」
「吉田?まさか桐野さぁの浮……」
「……気じゃないからね、辺見さん。奥さんになりたいみたいよ」
「はあ?」
「さつきさぁがおるんに?」
「うん、私もびっくりしてるんだけど……家事しないとか妻らしくないとか何とか、なんか気に入らないみたいで、ご城下に行ってもう帰ってくるなって言われた」
「……そいで汝は逃げてきたんか」
辺見の言葉にさつきは首を左右した。
逃げた訳じゃない。
出掛け間際であったし、りんの相手をする事に意味を感じなかったから無視を決め込んだ。しかし……
出発直前とはいえ言い返す位の事はしても良かったんじゃないか。
思い返すとそう感じてしまう。
逃げた訳じゃない。
そう思いたいけれど、辺見家に足を向けた時点で逃げていたのかもしれない。
「……子供が……」
「ん?」
「子供がいないから私きぃさんの側にいる資格ないんだって。だからもう帰ってくるなって」
酷く驚いた顔でハヤがえっと声を上げた。
「三年子無きは去れ、だっけ?……ここでは立派な離婚要因だよね?それを何であの子に言われなきゃいけないのかは分かんないけど」
「…………」
「でも跡継ぎが必要だから出て行けって言われたら、今の私の立場じゃ何にも言えないなと思っちゃって」
現代に暮していたさつきは不妊は男女それぞれに原因がある事を知っているけれど、ここでは百パーセント女のせいになる。
「で?代わりにそいつが奥方になって子を産むと?」
「そうなんじゃない?…………なんて言うか、さ……辺見さん覚えてるかなぁ。私の前の、」
「ああ」
言葉にする前に遮るようにして返事をしてくれた。
――元の世界で彼氏と別れる事になった原因。
「ここではそういうの普通なのかな?私本当に気持ち悪いわ。生理的に無理」
言うに事欠いて人の夫を寝取ろうとしている女の顔など見たくもない。
その上子供?吐き気がする。
「きぃさんは浮気しないよ。大事な所は繋がってるって信じてるし、その心配は本当にしてないの」
「ああ」
「でも一緒にいて三年、さすがに考えるよねえ。避妊なんかした事ないのにできないもんだなって私ですら思うくらいだもん。それで子供が要るから他の女許せって言われたら、私もうここにはいられないなあって」
「さつき」
強く名前を呼ばれて顔をあげる。
「さつきさぁ、誰もそげな事思うちょりもはんで」
「……うん。ありがと、ハヤちゃん。そんなの桐野のお家の方にも言われた事ないよ……」
「なら余計に問題ありもはん」
隣で頷いてくれる素介と岩次郎にも礼を告げた。
「分かってるんだけどちょっと考えちゃって、広い所でひとりでいたくないなって。ごめん、辺見さんの言う通りだね、私逃げてきちゃったね」
困ったように眉を下げたさつきと対象的に辺見が目を釣り上げる。
「……ハヤ、その医者の家は何処じゃ」
「はい、」
若夫婦をのやり取りをさつきは慌てて止めた。
「気持ちはありがたいけど止めて」
「汝が許しても俺が許せん」
「ええええ……なんか私より周りの人の方が怒ってるんだけど……」
「何?」
「従僕ちゃんたちがめっちゃ怒ってる……常くんなんて今日泣きながら怒ってた」
「そうか」
「でも、なんかさあ……自分では結構頑張ってるつもりなんだけど、あんな風に思われてるんだって思うと何だか空しくなるねー……」
誰かに認められたくてしている訳ではない。
だけど、ああ言われると女には家事と子供を産む事にしか価値がないのかと思ってしまう。
苦笑いするさつきにどこか冷たいものを感じて、辺見もハヤも、弟ふたりも一斉に顔を顰めた。
辺見とさつきの仲の良さから、この家族は桐野とさつきが惚れた腫れたで一緒にいる事も、特に桐野がさつきにべた惚れである事も、桐野がどれだけさつきを大切にしているかもよく知っている。
好きという気持ちだけでさつきが桐野の為にどれだけの努力を払っているか、その気持ちに動かされて桐野が今何をしているかを知っている。
辺見家の当主もまたそれに動かされて、強硬論を次第に軟化させていった事をこの家族は理解していたし、幼子を抱えたハヤは特にそれを感謝していた。
「さつき、開墾地の二才らはその女と同じ事ば言うか?言わんじゃろう」
「うん」
「汝がそう言われて幸吉らは怒っちょる。俺も腹が立っちょる」
「うん」
「汝がそう言われて、桐野さぁが怒らんと思うか」
「……滅茶苦茶怒りそうだね……」
それくらいは想われているという自覚はある。
「まだ吉田におるんじゃな?」
さつきは頷いた。
でも今日引き取らせると聞いている。
集落の人間の親戚と聞いて、あまり波風を立てたくないから桐野は今まで強引な手段に出なかったのだろう。
山下翁に間に入ってもらうのはクッションになってもらうの同時に、必ず帰す為の証人になってもらうという意味があるに違いない。
「そいならもう大丈夫じゃろうが……その女、汝に吐いたんと同じ言葉を桐野さぁに言うちょらんかったらええがな」
「え?」
「どう考えても逆鱗じゃろ」
「いやいやいや……さすがに言わないでしょ」
りんからすればさつきが自分から出て行くように仕向けたいだろう。
桐野の心証は大切だ。さすがに桐野に面と向かって言うほど愚かでもないと思う。
それに今朝の話を聞いてしまった常次郎はさつきと一緒にご城下に来ているのだ。
りん本人が言わなければ桐野の耳には入らない筈。
「いや、言わない…………え?言わないよね?普通」
隣に座るハヤに同意を求めると、「まあ普通は言いませんよね」と返ってきたけれど。
「あん方ならお子がおらんのを盾に取って、桐野先生に迫る事位はするかもしれもはん」
…………。
………………。
……………………。
「……ハヤちゃん確かにそうだわ。えっち覗いてくるぐらいだもん、それ位言ってそう」
「…………」
「…………」
「あ、えー……と、し、寝所を覗かれてた……みたい……」
一斉に吹き出されてしまった。
思わず遠い目をしてしまう。
確かにあの子なら面と向かって桐野に言う位の事、簡単にしてのけそうではある。
……と、そこまで思ってはっとした。
桐野に直接さつきの”妻としての至らなさ”を論う…………
(え、それまずくない?)
たらっと汗が背中を流れる。
それぞれに不足や不満があっても、桐野とはもうお互いに唯一の伴侶になっていると思う。
だからこそその唯一を、桐野を、もし傷つけられたら貶められたら、さつきは酷く腹立たしい。
桐野もきっと同じ。
――妻らしくないからその代わり。
――子供がいないから離縁。
恐らく桐野にとってはこれ以上ないNGワードだ。
多分”滅茶苦茶怒る”……
「………………吉田に戻った方がいいような気がしてきた」
「は?」
「……今日立ち会うの山下さんと親戚の方だけだったのかな……やだ本当に心配になってきた」
「おい、一体何の話しちょる」
「だって桐野怒らせたとかそういう事が外に漏れるのは良くないよね?話が変な風に伝わってご城下に居辛くなったら嫁入り前の女の子がまずくない?」
「はっ?」
「下手な事言ってきぃさん怒らせてなかったらいいけど……」
「…………」
「…………」
「さつきさぁ、……」
目を丸くする妻と弟を置いて辺見が笑い出してしまった。
桐野が迫られる事ではなくりんの方を心配をしている。
「変な噂が立たんよう、山下翁の所に行ったんじゃろう。家じゃと二才らの目があるでな」
「そか」
「明日も医学校なら帰るんはもう無理じゃが、明日桐野さぁもこっちじゃろう?永山どんに会うと聞いちょる。なら、」
「あの、」
控えめな呼びかけに廊下に目を遣ると、自身の従僕と常次郎が控えている。
辺見がどうしたのかと水を向けると、
「桐野様がお見えになっちょりもす」
「は?」
「えっ?来てるの!?」
はい、と彼が答える前にさつきは腰を上げた。
「さつき」
玄関先で顔を見るなり桐野は明らかにホッとした。
「どうしたの?」
首を軽く傾げたさつきに苦笑いして、
「家におらんで焦った」
隠さず口にした桐野にさつきを追いかけてきた辺見が小さく吹き出した。
「辺見、夜遅くに悪い。世話をかけた」
「話ば聞きもした。もう大丈夫ですか」
「ああ……」
更に苦笑を深くした桐野に、キレが悪いなと思いきやその後ろに初老の男性とりん、その親戚が現れたのだった。
誰なのかすぐに理解した辺見の顔が引き攣る。おい、と口の中での辺見の呟きがさつきにも聞こえた。
軽く膨れっ面のりんを従えた男性と目が合った途端、頭を下げられたのだけれど。
(……あれ?)
「お会いした事ありませんか?」
「医学校で何度か……」
そうだ、医学校兼病院で何度か顔を見た事がある人だ。りんの父親だったのか。
そういえばりんは医者の娘と聞いていた。
「この度はうちの娘がとんだご迷惑を」
「えっ」
謝りに来たの?
別に良かったのに……とはさすがに思わなかったが、そこそこ遅い時間にわざわざ出掛け先まで足を運んで、その上青い顔で酷く恐縮して頭を下げる、なんて。
辺見と顔を見合わせた。
あーこれは……
(言っちゃったな)
(言ったんか……)
どうやら桐野を怒らせた、らしい。
来てしまったのなら仕方ないと辺見が家に上げ、客間へと案内する後をついて行った。
が。
彼らに続いて部屋に入ると思っていた桐野は廊下で立ち止まると振り返った。
どうしたのだろう。
「大丈夫か」
その声に桐野を見上げると泣いていないか心配したと続けられて、さつきは大丈夫だよと頷いた。
「汝はようやってくれちょる。いつも感謝しちょる」
「ん、ありがと……」
「不満は仕事のし過ぎで俺との時間を削るところだけじゃ」
「ぜ、善処します」
「子供は汝とでなけりゃいらん。そう母にも弟妹にも言うて皆納得しちょるし、抑々他人に口出しされる事じゃなかで気にするな」
え、そうなの。
「家事や子を産ませる為に汝を連れて来たんじゃナカ」
分かっているだろう、という言葉と共に抱き締められる。
珍しい。家でならとにかく人目に付きやすい所ではまずこんな事しないのに。
「家に帰っても灯りはついちょらん、帰った形跡もなかでほんのこて焦った」
「……どこにも行かないよ」
「ああ、分かっちょってもな……」
不安にはなるのだ。
「傍にいてくれ」
返事の代わりに腕を桐野の背中に回そうとしたら、
「桐野さぁもうヨカですか」
呆れた様子で声を掛けてきた辺見に苦笑いした。
テンペスト:辺見家、いい迷惑
辺見君は姉と弟ふたりの4人兄弟。姉はもう嫁いでる。弟は年齢不詳。南洲墓地に行けば分かるかも。末弟ちゃんはギリ10代かもです。2020101420191206