心配はしているだろうと思っていたが、まさか桐野本人が迎えに来るとは辺見は思いもしなかった。
しかも家にいなくて焦っただなんて。
そりゃあさつきが浮気なんか疑わない筈だ。
目の前に座ったりんという女は確かに気は強そうで、雪緒と似た者だろうかと思っている内にハヤが茶を出しに来た。
あ、と女声が小さく響いてりんもハヤの事を知っていたのだと知る。
「りんさぁ、今回ん事は酷かち思いもす」
茶を差し出しながらハヤが淡々と口にする。
「さつきさぁに言うた事を私に、他の方に言えますか?」
「それは……」
「ましてや貴方はお医者様のお身内ではありもはんか」
それが子供がいない事を盾にとって奥方を追い出そうだなんて。
「…………」
ハヤ、と辺見が声を掛けると失礼しました、と頭を下げたけれど、
「さつきさぁは貴方の心配をしちょりもした」
それだけを言い置いて部屋を後にした。
「心配しちょった?」
「変な話が広まって、城下で汝が暮らしにくうならんかと心配しちょった」
顔を見合わせた三人に辺見が言葉を添えた。
えっと漏らすりんに溜息を吐く。
「父御がここまで桐野さぁを追い掛けて謝りに来られたんはそのせいじゃろうが」
りんの父からすればさつきが私学校党の実力者の妻で、その上医学校兼病院の関係者というなら尚の事頭が痛いだろう。それにさつきは西郷とも繋がりが深いウィリス医師とも仲が良い。
心配になるのは当然だ。
「汝、桐野さぁを怒らせたじゃろう」
りんは不機嫌ながらも小さく肯定した。
「他人が踏み込んじゃならん所に入ったからじゃ。大切にしているもんを踏み躙られたら誰でん怒る」
しかもさつきの場合桐野の為だと納得したら本当に身を引いてしまう可能性がある。
そう思っているから、ここまで探しにきた桐野が「焦った」と口にしたのだ。
「どう贔屓目に見てもやり過ぎじゃ。変な話が広まってん俺は自業自得じゃち思う」
「ほんのこて申し訳なか事……」
「じゃっどん、さつきはそれが嫌なんじゃと。そいどころか汝の心配しちょる。人が良過ぎるわ」
吐き捨てるように言った辺見に、頭を下げようとして遮られたりんの父は黙り込んでしまった。
「あいつの事じゃ、どーせ不問、今回の話も無かった事にすっじゃろ。一部始終見聞きしちょった従僕らが随分怒っちょるらしいが、あそこは主人の言う事は聞く。そっちが口を滑らせなければ噂も広がらん」
相手がさつきで良かったな。
そこまで話して、いつまでも入ってこない当事者に首を傾げる。
と。
――家事や子を産ませる為に汝を連れて来たんじゃナカ
――家に帰っても灯りはついちょらん、帰った形跡もなかでほんのこて焦った
「…………」
「…………」
「…………」
廊下から漏れ聞こえてくる声音から、桐野がさつきを心配していた事がよく伝わってくる。
辺見はそうだろうなと苦笑したが、後の三人は驚いた顔をしていた。
さつきを甘やかす桐野は、彼らが知る普段の彼の様子とは大分違う筈だ。
立ち上がりそっと廊下を覗いたりんが眉を寄せる様子に、おいおいまさか口付けなんかしてないだろうなと心の中で突っ込みながら廊下に顔を出し、そろそろ中に来てくれないかと声を掛けておく。
返事はあったけれど、すぐにやってくるかどうか。
あと人の家の廊下で抱き締め合うのもやめて欲しい。
「……桐野さぁはああじゃし、さつきはさつきで夫が他の女に手をつけるとは欠片も思うちょらん。さっき断言しちょったぞ」
「しないと思う」ではなく、「浮気しない」と言い切った。
「あの間に割って入るんは無理じゃと思う」
「確かにそうでしょうなあ」
そう相槌を打ったのは父子の親戚の男だった。
聞けば吉田でさつきが今までどんな風に行動してきたか、どんな風に桐野が彼女を扱っていたかを知っていた。
「りん、じゃっで初めに言うたろう。桐野さぁは無理じゃち」
それでもどうしてもと言うりんの熱意に絆されて、では桐野の方はどうだろうと思ったのだと彼は口にした。
力がある男が複数の妻妾を持つ事は珍しくない。
親戚も桐野がさつきを溺愛しているのは知っていたが、それとこれとは別かもしれない。もし桐野がりんを受け入れてくれるのならそれでいいと思い、親戚の娘かわいさからその行動に目を瞑った。
ただ「私も悪かった」と口にした親戚も、山下翁の屋敷で聞かされたりんがさつきに吐いた言葉に仰天したのだが。
この親戚は怒って帰ってしまった桐野、そしてさつきに改めて謝りに来ていたのだった。
山下翁の下を辞した後、桐野宅に向かったが桐野もさつきも不在、従僕に話を聞くとご城下だと言う。
そこで取る物もとりあえずご城下へ、ひとまずはりんの実家へと向かった。
りんの父は本当に何も知らなかったようで、吉田から親戚に引き摺られるようにして連れてこられた娘の所業を聞いて顔を青くしたのだった。
慌てて清水馬場の桐野屋敷に来た所で、ちょうど出掛けようとしていた屋敷の主人に出くわしたのだと言う。
そこで迷惑だとは思うが謝らせてほしいと頼み込んで上荒田の辺見家までついて来た。
そういう話だった。
全てがこの娘の一存で、周囲が振り回されている事に辺見は呆れてしまう。
本当にいい迷惑だ。
「汝、何か言う事は無いんか」
「……」
「……ああ、そうか。さつきに謝るんが悔しいんじゃな」
この女もさつきを常識で測って己よりも下と見たのか。
「辺見さーんもう怒らないで……」
桐野と共に入ってきたさつきに視線が向く。
遠い所まですいませんと頭を下げるさつきに、辺見は水を浴びせられた気分になって口を噤んだ。
先程さつきは周りの方が怒っていると言っていたが、確かにそうかもしれない。周囲が熱くなり過ぎるのはあまり良くないだろう。
(じゃっどん腹立たしか……)
ちらりと桐野を伺えばその片眉が少し上がって苦笑いされる。
中々室にやってこなかったのは不問の方向で話をつけるようさつきに言いくるめられたな、そう思っていたら、
「今回の事はここで手打ちに」
桐野の一声にやはりと思い、桐野の少し後ろに座るさつきを見るとぱちりと目が合い、呆れ眼を向ければ軽く笑まれてしまった。
本当に周りばかりが怒っている、全く人が良過ぎる、と辺見は心の中でひとりごちたのだった。
「桐野さぁ、良かったのですか、あれで」
客人を送り出しハヤと共に片付けに戻ったさつきの後ろ姿を見ながらこそりと聞けば桐野が小さく笑った。
一番納得できないのはこの人ではないのかと思うのだが。
「これ以上引き延ばしとうなか」
大事な時だからと続けた桐野に頷く。桐野と意を一にして行動している辺見にも先輩の言いたい事は分かった。
故郷が浮くか沈むかの際にいる今、私的な事でも面倒を抱えるのはごめんだろう。
しかし、最愛をあれほど蔑ろにされたのに落とし前も付けずに終わらせるというのは、さつきの為にもあんまりではないかと辺見は思うのだ。
だがさつき本人が彼らの前で今回の事は謝ってくれたらそれで良いと言い、
「謂われなく人を傷つけると怨みを買うって事、自分に跳ね返ってくるって事、覚えておいた方がいいよ、りんさん」
渋々ではあったが謝罪を口にした女にそうとだけ伝えて本当に幕を引いてしまって、完全なる部外者である辺見は何にも言えなくなってしまった。
たださつきが静かに口にしたあの忠告には当の本人よりも父と親戚の方がギョッとしていたが。
「さつきを下に見る人間が多過ぎる」
己の物差しで他と比べて勝手に下だと侮る。
「そいが腹立たしか……」
桐野は須臾の間口を閉ざしていたけれど、やがて微笑った。
「辺見にそう言われたらさつきも喜ぶ。……しかし昔からあいつは汝にゃ何でん話すな」
は?
ぎくっと言うか、どきっとした。
確かにそうなのだ。
親戚でもないただの後輩にしては、辺見は桐野の家の事情を知り過ぎている。それもこれもさつきが相談してくるからだが。
しかしこれは……まさかとは思うが、
(し、嫉妬、っちゅうやつでは)
まさかとは、思うが。
(否待て、元は寧ろさつきの嫉妬話だった筈じゃ。俺は関係……な)
か……とは思うが、たらっと背中を汗が流れる。
「さつきとは、た、単に年が近いからで特に」
何もありもはんと言い訳めいた事を口にしようとした途端、桐野が吹き出した。
「別に疑うちょらん。汝ら昔から兄妹みたいなもんじゃろうが」
「はあ」
「いつもさつきの話ば聞いて、相談に乗ってもろうてありがたい。汝には頼り切りで悪いとは思うちょるんじゃが」
やはり辺見が一番いいらしい。
「まあ……確かに妬けるな」
「げほっ」
「はは」
「か、揶揄わんで下さい……」
それに巻き込まないで欲しい。
じとっと桐野を見ると苦笑で返される。
「俺もさつきもこれ以上関わる気はなかっちゅう事じゃ」
今子供じみた遊びに付き合うような暇も、そんなつもりもない。
それに……
「きぃさん、怒ってくれてありがとう……でももういいよ?私も言われた事は忘れます。だから、ね?」
「……汝はそいでよかな?」
りんの言葉は思い出すだに腹立たしかった。手打ちにでもしてやりたい。
桐野としては相応の報いは受けさせたい気持ちもある。
実際には何もするつもりはなくても、だ。
「うん、きぃさんがそこまで怒ってくれてる事が嬉しいの。きぃさん私の事好きなんだなーって再確認した」
はにかみながらの言い方につい軽く笑ってしまった。
「反省してちゃんと謝ってくれたら、私はそれでいいよ」
「さつき……」
「あときぃさんに金輪際近寄らないでーって言いたいかな」
腕の中で桐野を見あげながら、冗談っぽく笑う女に溜息が漏れた。
「汝は人が良過ぎる。いつでん汝の我慢で幕引きじゃ。俺はそいが気に食わん」
「その分きぃさんが大事にしてくれるでしょ?それに分かってくれる人も親切にしてくれる人もいるから、それでいいの。それよりも今は色々あるし若い子たちもいるし、優先するのはそっち。ね?」
は、と辺見の口端からも息が漏れた。
「納得は、そうじゃな、しとらん。しとらんが今回は忘れたかちゅうさつきを尊重する」
それに事を長引かせた時、りん本人よりも同じ集落にいる親戚の立場が悪くなるだろうと考えてしまう。
顔を合わせ辛くなるような気まずさは残したくない。
そう考えたのは桐野もさつきも同じだった。
「今回だけじゃ」
「分かりもした」
「辺見がおるで安心してさつきを城下にやれる。今回の事も、ハヤ殿にもほんのこてようしてもろうてありがたい」
礼を言う、と軽く頭を下げた先輩を慌てて止めれば、
「辺見さん、きぃさん、早く中に入って〜お茶にしよ〜」
呑気に響く渦中の女の声、ふたりで顔を見合わせて苦笑してしまった。
テンペスト:花に嵐とはなりません 20201011