「不愉快は不愉快だけど……ハヤちゃんも辺見さんも分かってくれてるから、もういいの。他にもそういう人がいるからそれでいいよ」
それにきぃさんが凄く怒ってくれてるし、と隣で湯飲みを拭きながら笑いもせず言ったさつきにハヤは口を閉ざした。
しかしハヤは我慢は確かに美コだけれど、本当にあれで良かったのかと思ってしまう。
りんは謝ったが見るからに不承不承で、周りが頭を押さえつけて下げさせたようなものだった。
「心配してくれてありがとう。でももう忘れて。あの子周りに助けられたとは全く思ってないよ。よっぽど自分に自信があるみたいで凄いなって思うけど……」
そういう人と付き合うとこちらの心が削られる。
「私は近しい人に害が無ければそれでいいの」
冷たいかもしれないけどねとさつきは苦笑いした。
桐野と共に辺見家を出たさつきを見送りながら息を落とすと、夫の手が肩に乗る。
「心配せんでよか。あそこはほんのこて仲が良かでな」
あそこは笑ってしまう程互いしか見ていない。
桐野は久しぶりの、さつきは桐野と一緒になってから初めての女沙汰だろう。
その初めてがあの質の悪さと言うのは中々頂けなかったが、あれは亀裂どころか夫婦間の、主従間の愛情を深めただけだ。
「見てみろ」
促されて帰途につく様子に視線を向ければ、常次郎が提灯をひとつ桐野に預け、馬に乗って先に帰っていった。
夫の言葉通りにふたりの様子を見ているとさつきの手が桐野の方へと伸びていく。
(繋ぐ?)
驚いて目を見開けば、白い指先が桐野の手の甲を行き来する。
さすがに繋がる事はなかったけれど、それが妙に艶かしくてハヤは思わず視線を彷徨わせてしまった。
辺見が小さく笑う。
「仲がヨカ」
「……そうですね」
とんと背を叩いてきた辺見にハヤは頷いた。
この時間に辺見家がある上荒田から城山の向こうの屋敷へ帰るのは少々厳しかった。
辺見に甘えて泊めてもらえば良かったのだけれど、これ以上の迷惑はさすがに気が引ける。
桐野は常次郎に己もさつきも明日の事もあるから近場で宿を取ると告げると、清水馬場へと帰してしまった。
誰も帰らなければ吉田から付いて来た幸吉が心配すると理由を添えて。
「大丈夫かな、吉田の方」
乗って帰れと言われて騎乗しひとりで帰っていった常次郎の後姿を見つめながら、さつきは隣を歩く男に声を掛けた。
「りんさんはさ、城下に戻ってしまえば済むけど」
親戚はそうはいかない。
「それにきーさん、向こうで怒ったでしょ?」
そう問えば桐野は軽く笑うだけで何も言わなかったけれど。
「吉田で揉めない?」
「ああ」
「蟠りなし?」
ああ、と短く返された声に小さく息を吐いた。
「そっか。それなら良かった」
「汝は良かったんか、あれで」
見上げた桐野は笑いを潜めている。
改めて真顔で尋ねてくる様子に、桐野自身はあの結末に納得していないのだなと思った。
「あれは……あれが一番丸く収まる方法だっただろうから、良かったと思うよ」
「……」
「まあ……文句がない訳じゃないけど」
人差し指の先で桐野の手の甲をさすりながら言っても?と首を傾げれば肯定が返ってくる。
「きぃさんモテ過ぎじゃない?」
思わずといった風に吹き出されて甲を抓ったけれど、桐野は笑うのを止めなかった。
「そいが文句か」
「文句です〜なんであんなクセの強い子からばっかりモテるの?……それにきぃさん、好きでしょあんな感じの子」
気が強くて、変な出会い方をしていなければそれが可愛く見えるような、多分いい子。
しかも若さが美しい。
「ゆ、」
雪緒さんといい、と続けそうになって思わず言葉を飲み込む。
これじゃあ本当に嫉妬だ。
桐野が目を丸くしてこちらを凝視する様子に、ふいっと視線をあらぬ方向へと逸らした。
「最後まで言え」
途中で止めるなと促されたが、
「やだよ……」
「さつき」
「……きぃさんは悪くないって分かってても、知らない間に女の子が家に泊まってるのは気分良くない……不安になる」
特にあんな子であれば尚更。
「心配するような事は」
「うん、何もないって分かってる。分かってるよ、でも、」
不安になる事や嫉妬心までを完全に押さえつけるのは無理だ。
そこまで強くはなれない。
「ね、もし立場が逆だったら?」
桐野が城下に行っている間にさつき目当ての男をさつきが泊めていたらどうだろう。
暫く間を置いて、
「ああ、そん男叩っ切るじゃろうな」
桐野はさらっと恐ろしい事を呟くと、ちらとこちらを見て片眉を上げると困ったように微笑った。
何も起こっていないと分かっていても、信じていても、心配ぐらいはする。
それがきちんと伝わった様子に、さつきもほっとする。
「悪かった、もっと汝に配慮すべきじゃった。……そいに嫌な思いばさせた」
子供云々の事を言われているのは明白で、さつきは首を左右した。
寧ろ今までそうした声が入らないようにしていてくれた事に驚いたのだ。
桐野も人から色々と言われる事があったに違いないのに、何も言わず守ってくれていた事が純粋に嬉しかった。
「さっきね、嬉しかったの」
「ん?」
「会えるのは明日だと思ってたし、迎えに来てくれるなんて思ってなかったから……今回の事ちょっとびっくりしたし腹も立ったけど、それで吹き飛んじゃったや」
りんは嫌々でも一応は頭を下げた訳だし、桐野は……恐らく酷く怒って、心配して予定を変えてまで探しに来て、近くに人の目があるのを気にせず抱きしめた上で言葉をくれた。
それが桐野の心の内の全てだろう。
明治に来て数年、こちらの男女関係や夫婦関係がどんなものであるのか、さすがに分かってきている。
桐野とさつきの夫婦としての在り方は現代では普通だったがここではイレギュラーである事も、ここまで心を砕いてくれる桐野がこちらの普通ではない事も。
多分桐野はさつき自身が思っている以上にさつきを大事にしている。
(愛されてる、本当に)
体が芯から温まる心地がして、隣を歩く人を軽く見つめた。
手を繋ぎたい。抱きつきたい。
でもここではできないなと指先で桐野の手にもう一度触れる。
「ん、如何した」
「ホント不満はモテ過ぎる所だけ」
「一体どうすりゃええんじゃ」
桐野の呆れた表情にうっふと笑い声が漏れた。
「今度同じ事があったら実家に戻りまーす」
「実家?」
「沢山あるのよ、辺見さんとこでしょー……、別府さんのとこ、志麻ちゃん、あとおなつちゃんの所も」
指を折りながら、みんないつでも来ていいってと言った所で提灯を渡された。
どうしたのかなと思った所で、
「わ、」
突然抱きかかえられ、空いている手で桐野にしがみつく。
「普通の宿と連れ込みとどっちがいい」
「えーどっちもやだ……このまま清水馬場まで連れて帰って……」
「遠い」
「ワガママ!」
笑いながら「人に見られちゃうよ」と口にしたけれど、暗いので分からんと簡単に一蹴されてしまう。
「私明日仕事なんだけど」
「手加減はする」
「そこに何もしないって言う選択は」
ふんと鼻であしらわれ、ないんだ……と呟けば桐野の体が揺れた。笑っている。
朝からかと聞いてくるので朝からですと即答すると、そうか昼からかと相手も即答。
完全に見透かされていた。
「もー……なんでそんなに元気なの?」
「聞きたいか」
「いや、いいです」
藪蛇だ。
「心配にはなるけど、疑ってる訳じゃないよ。大事にしてくれてるのちゃんと分かってるし」
「そうか」
「だからね、今日は愛情確認はなし。普通のお宿取りましょ。でも抱っこは許します」
ぶっはとひとつ大きく吹き出して歩き始めた桐野に合わせて、さつきは提灯を前に掲げた。
Tempest in a teapot:結局はから騒ぎってやつ。 20201017