船を漕いでいる主の想い人ーー実際には許婚、実質的には妻であるがーーの姿を見て幸吉は、あ、またやと呟いた。
じわじわじわとクマゼミの鳴き声が届く台所、その上り框に座るさつきは組んだ足の膝に左の片肘をついて、顎を手に乗せていた。頭はゆらゆらとしていて、辛うじて膝に引っ掛かっている右手からは団扇が落ちそうになっている。随分と眠そうだ。
午前は半分を過ぎた辺りとか昼を暫く過ぎてからとか、その辺りでぼうっとしている彼女の様子を幸吉はここ最近で幾度か見掛けている。
(どこか具合でも悪いんやろか)
首を傾げもしたがそこを除くとさつきはいつも通りの様子。
気のせいやったらええんやけど。
そう思いながら、
「さつきさん、さつきさん、大丈夫?」
「っ、は、あー……幸吉君……」
肩に手を掛けて軽く揺すれば、さつきはびくっと体を弾ませて幸吉を振り向いた。その拍子に落とした団扇を拾い上げ幸吉へと向き直ると、
「ごめん、ちょっとうとうとしてた」
少し照れ臭そうにしながら何か用事でもあった?と笑い掛けてくる。
さつきに特段の用があった訳ではなく、見掛けてどうしたのかと思っただけ。
ただそうとは告げずに幸吉もさつきの隣、上り框に腰を掛けた。
開け放たれた勝手口からは蝉声を伴った風が吹き込んでくる。しかし湿気を含んだそれはむわりとしていて、不快感を拭えるようなものでは到底なかった。
「はあ……あっつ……」
「ホント暑いよねえ……」
口を開けば一言目には「暑い」で、最早おはようとかこんにちわよりも使う頻度が高い気がする。
幸吉は着物の合わせ目に指を突っ込むと、軽く引っ張って着物の下にぱたぱたと空気を送った。
そんな幸吉に同調してさつきもウンザリしたようにもう一度暑いと言い捨てると、おもむろに立ち上がりそのまま外へと出て行ってしまった。
「幸吉くーん、湯飲み持っといでー」
着いて行こうと草履に足を突っ込んだところで声が飛び込んできて、湯飲みをふたつ手にする。
勝手口を出れば井戸でさつきが綱を引いていて、その力が入っている様子に幸吉は小走りで傍に駆け寄った。湯呑みを井桁に置いて白い手から綱を奪う。存外に重い。
「さつきさんこれひとりで下ろしたん?」
聞けばそれは従僕仲間の清吉がしてくれたと言う。
「重いの危ないからって。頼りになる子ばっかりで助かるよ。幸吉君もありがとね」
にこにこしながらそんな事を言うさつきは、従僕がして当たり前の事にも感謝と礼を伝える人だった。
というか、そもそも従僕を使役する意思がない人だ。
人を使う事に慣れていないのか、まず自分でしようとしてしまう。頼み事がある時は「お願いしてもいい?」だ。
その上従僕である自分たちを弟のように扱ってくれるから、だから自分も静吉もその兄の常次郎も、役目でも厄介でもなくごく普通に、ごく自然な思いとしてさつきを助けたいと感じている。
この女性が自分たちの主をどれだけ大切に思っているか、そして主がこの女性をどれだけ大切にしているか、それを知っているからという事もあるが。
ただ目の前の人はそんな事、意識した事もなさそうだったけれど。
そんな事を思う内に井戸から現れたのは釣瓶ではなく薬缶だった。
綱の先に括りつけられている取っ手を片手で掴み、ぐんと引き上げて井桁に置くとさつきが目を細める。
「やっぱり男の子は力が強いね」
真っ直ぐに注がれる眼差しには柔らかな慈愛が満ちていて、幸吉はそっと視線を逸らす。酷く面映ゆい。
先生いつもこんな風に見つめられてよく目を逸らさずにいられるなと幸吉は頭の片隅で思う。
それは正しく大人の男と思春期の小僧との差で、向けられる愛情の種類の違いでもあったのだけれど。
そんな幸吉にさつきは笑いながら湯飲みへと水を注いでくれた。
が、よく見れば水にしては極々薄い濁りがあり、幸吉は緩く頭を傾けながら渡された湯飲みを凝視した。
(なんやろ)
勧められるまま口を付けて、思わずちらりと視線を上げる。
馴染みのない味だ。
馴染みがないと言うか何と言うか、その、……
「いけそ?苦手じゃない?」
「…………」
「微妙かー」
今度はけらけらと笑われた。
「分かる分かる。飲めない事はないけど積極的に飲もうとも思わない味?」
「……へえ……」
「もう少し甘い方が飲みやすいかな。あとすだち入れよっか。本当はレモンがあれば良かったんだけど」
そう言うとさつきは薬缶を井桁に置いたまま台所へと向かい、すぐに湯で溶いた砂糖水にすだちの搾り汁を混ぜたものを携えて戻って来た。
それをざぱっと薬缶に入れてかき混ぜ、もう一度幸吉に。
「あ、これなら」
「よし、なら分量は決まり。これは沢山汗かいた時に飲む水分補給用だから幸吉君も飲んでね。常君と静吉君にも言ってあげて」
水分補給?
「そうそう。きぃさんも開墾場にいる子たちもみんな汗凄いでしょう。炎天下での肉体労働だしねえ」
そう言えばと幸吉は思う。
日中、陰のない所での開墾作業だから汗をかくなんてものではなく、気分を悪くして小屋に運ばれる青年が時々いた。
所謂中暑だ。
「こっちでは”ちゅうしょ”って言うの?私がいた所では熱中症って言われてたけど、本当に危ないんだよ。鍛え方が足りないとか根性がないとか、そういう事じゃないからね」
「本当だよ。亡くなる人もいる。顔が真っ赤、汗が止まらない、眩暈とか立ち眩みとか……頭痛や吐き気がある子がいたらすぐに涼しい所で寝かせて、着物寛げて濡れ手拭いを脇の下とか首に当てて体冷やしてあげて。その時は足を三十センチ……えっと一尺?位上げてあげてね。それで飲めそうなら少しずつこれ飲ませて。でも無理はさせないで」
あ、これはちゃんと話聞いて守った方がいいやつや。
幸吉はそう思った。
東京を発つ時のさつきの指示の的確さを幸吉はまだよく覚えている。
「……涼しい所で寝かせて、体を冷やす、一尺足を上げる」
覚え込もうと復唱すれば、そうそうとさつきももう一度同じ事を繰り返してくれた。
「あと喉が渇いてなくても小まめに水分を取って欲しいの。これが嫌なら麦茶でもいい。その時は一緒に梅干しか塩舐めて。開墾で外に出ている時は特に。それだけで熱中症、随分防げる筈だから」
「それで幸吉君たちも一緒に飲むんだよ」
分かったと伝える代わりに頷くとさつきの唇が満足したように三日月になる。
「さつきさん、それ先生にも言うとります?」
「ん、言った言った。軽くは説明したよ。この前倒れた子がいたって聞いて何とかしなきゃなあって思ってね。それで幸吉くんたちにお願いがあるんだけど……」
聞けばお願いなんて大袈裟なものではない、さつきがいない時と手が回らない時だけでいいから飲料を開墾に出ている桐野と青年たちに配って欲しいというもの。お安い御用だ。
「そんなら初めに先生に飲んでもろたらええね。そしたら話早いよ」
主人が率先すれば青年らも倣う筈だから。
「うん、私もそう思うよ」
「……さつきさんもちゃんと飲んでな?」
「うん」
「それに最近疲れとるんちゃう?ちゃんと寝とる?」
幸吉はここのところ感じている心配を伝えながら口を付けていない湯飲みに飲料を注ぐと、それを押し付けるようにさつきへと渡した。
さつきはきょとんとして受け取ったけれど、すぐに嬉しそうに笑って。
「なあに、心配してくれてるの?」
「なんで心配せんと思うの?」
「そっか、ふふ、そっかぁ。ありがと」
さつきは一口、二口と飲料を飲み下すとふうと息を吐くと、
「みっともないところ見せてごめんね」
思わぬ謝罪を口にしたので、幸吉は思わず目を瞠ってしまう。
「みんなが外で働いてるのに気が引けるんだけど……日中の暑さがちょっと辛いかな。今日みたいな日はホラ、風もこんなだし」
さつきが薩摩に来てから初めて迎える夏だ。慣れていないのだから仕方ない。
「夜も寝苦しくて、朝起きた時に疲れが抜け切ってない感じで」
「……気ぃつけてね」
寝苦しい……?
さつきの言葉に少し引っ掛かりを覚えながらもそう労われば、目の前の人が眉を下げて笑う。
「ん。ありがと」
「甘酒とかええよ。夜寝やすくなるて言われてるから私が作り方習ろてきま。後はね……」
体の熱を取ると言われる食べ物を指折り列挙していけば、
「幸吉君は優しいねえ」
「は?」
ゆったりと笑うさつきに聞いてはりました?と尋ねたくなったものの、その気持ちをぐっと抑えて幸吉は軽く瞼を伏せた。
(こんなん普通の事やのに)
ぞんざいに扱われることが多いからこんな事でもこの人はそう感じるのだと、そう思ってしまった。
さつきは嫌がらせを受けている。
山下翁の一件、医学校での立場、そして江藤新平一行を匿った際の話が冬の終わり頃よりじわじわと広がり出してから随分とマシにはなったものの、訪問者の中には彼女に心無い言葉をぶつける輩がまだ存在していた。
未知への不寛容からくる排他的な言葉、男の下劣な下心や女の妬み嫉みからくる居丈高で聞くに堪えない言葉。それをこの姉のような人が雨の如く浴びるのを見るのは何とも忍びなくて、悔しくて、その場に居合わせる度幸吉は涙を飲んできた。
この人はそんなんちゃう、あんたらが何を知っとんねんと叫びたくなる衝動を抑えて。
さつきは本当なら青年らの世話なんてしなくていいのだ。
彼らは桐野から自分の事は自分でやれと言い渡されている。それを承知の上でさつきは出過ぎない程度に青年らの世話を焼いていた。親御さんから預かった大切なお子さんたちなんだからと言いながら。
乱暴で生意気盛りの二才を指してお子さんなんて言うものだから、面食らったのはまだ記憶に新しい。
さつきは桐野が同行を望んで、何もかもを捨てさせて連れて来た人だ。
だから何をせずともただ桐野から愛されているだけでもいい筈なのに。
桐野の立場を優先して祝言すら上げておらず、それが彼女の立場を更に微妙なものにしているのに、さつきはその不満さえ口に出した事が無い。
薩摩人ですらないそんな女性が青年らの為にどれだけの事をしているか、医学校で何をしているか。
幸吉は大声で人に知らしめたくなる。
甘酒の作り方だって本当ならさつき自身が近隣の女衆に聞いた方がいい。
それは幸吉だって分かっているけれど、今の状況は気軽にそんな行動が取れるまでには至っていない。
幸吉が習ってくると先に言い出さなければさつきの事だ、自分で行くと言うに決まっているし、でも行けばきっと嫌な思いをして帰って来る。それも何事も無かったかのような顔をして。
そう思うからこそ幸吉は自分が行くのがさも当然かのように申し出た。
(ホンマに優しいんはさつきさんやのに)
この人は周りに気を遣って「平気」とか「大丈夫」とか言って笑ってついた傷を隠して我慢をする。
上野で、薩摩に来てからでさえ散々見てきたそんな姿を、幸吉はこれ以上見たいとは思わなかった。
ただ、そんな嫌な事があっても幸吉から見たさつきは割合に凪いでいた。
心当たりはある。桐野だ。
さつきに対する桐野がこの上なく甘く優しいからに違いなかった。
桐野のさつきへの情の傾け方は静かではあったけれど熱愛と言うに相応しく、誰から見てもさつきが大切にされている事は瞭然で。
(それがあるから強くいられるんやろなあ)
帰鹿当初、幸吉はふたりの仲睦まじさを両手で顔を隠したくなるような気恥ずかしさと共に見ていたけれど、慣れた今では羞恥よりもそう思う方が先に立つ。
桐野の情愛がさつきが笑って立っていられる支柱になっている事を幸吉はよく分かっていた。
「さつきさん中入ろ」
屋根はあってもここは暑い。幸吉は薬缶を井戸に下ろすとさつきの背を押して台所へと戻った。
「少し昼寝せん?扇ぐし」
「扇ぐって」
幸吉にできるのは体を労わる事ぐらいだ。
さつきの顔を覗き込んで尋ねれば、彼女は冗談だと思ったのか笑っていたけれど。
「冗談やないよ。三十分でもええから」
「ありがとう。でも話してたら目も覚めてきたし」
外で男衆が汗水を流している中で昼寝するのは流石に難しいか。
それは重々分かるので幸吉もそれ以上は勧めなかった。
「今日は早よ寝てね」
「そうするね」
「……もしかして先生が寝るの遅いん?」
首を竦めたさつきに幸吉はふと頭に浮かんだ事をそのまま零した。
桐野の就寝が遅いからそれに付き合っての睡眠不足では?
「寝られんのやったら私から先生に言おか?」
「あー……それは大丈夫かな」
「ホンマに?」
「ほんまほんま」
「無理は?」
「してないよ。大丈夫」
出た、”大丈夫”。
そうは思ったものの、さつきに言い切られてしまうと幸吉からはこれ以上はもう何も言えない。
(助けにはなられへんかな)
少しでも何かできればと思ったのだけれど。
視線を三和土へと落とせば、幸吉くん、と呼ばれて顔を上げる。
「今晩きぃさんと話すよ。もうちょっと早く寝てって。それでダメだったら幸吉君に叱ってもーらお」
お願いできる?
首を傾げての軽い口ぶり。首を縦に振ればさつきは小さく笑った。
「それで取り敢えず安心できるかな」
「……私はさつきさんの味方やからね」
できる事があればやるからとの意を込めて。
「んふふ、頼もしぃ。上野にいた時から幸吉君には頼りっぱなしだね……って、あれ?呼ばれてない?」
「えっ、あ」
そうだった。ここへは桐野に頼まれて書付けを取りに戻ってきたのだ。すっかり忘れていた。
耳に入った自分を探す声に慌てて外へ顔を出せば、ばちっと視線が合った青年に、「幸吉!先生が呼んじょる!」と大きな声で手招きされる。
「きぃさんのご指名ですって。行ってあげて」
「さつきさん、先生にちゃんと言うてな」
「はーい承知仕り候ー」
片手を肩まで上げてしてくれた呑気な返事に、あははと笑い声が漏れた。
別府と同い年だというのに娘のようなかわいらしさがある人だ。
(さつきさんが先生に直接言うんやったら大丈夫やろ)
桐野はこの人のお願いなら聞き入れるだろうし。
他人が余計な口出しせん方がええな。
そう思いながら内心でほうっと息を吐くと、ほな行ってきます、一言置いて幸吉は勝手口を飛び出した。
夜半の夏:よわのなつ 夏の季語
この時点でさつきちゃんが戸籍上も桐野さつきになっているのを知っているのは桐野本人と江藤さん(鬼籍)だけ。蝉声は「せんせい」なら蝉の声(蝉)、「せみごえ」なら蝉の声のような絞り出す声(人)
さつきちゃんが作っていたのは簡易アク〇リです。レシピと今回のメモはmemo&res;(20220731)までどうぞ
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