吸物椀を持ったまま固まってしまった。
暫くそのまま中を見つめていたのだけれど、結局椀を膳に置いて蓋をする。
箸置きに箸を預けると、「もう食わんのか」、正面に座る辺見が上げた声にその場の視線全てがさつきに集まった。
「うん、もうお腹いっぱいで」
「腹一杯?汝な殆ど手ば付けちょらんじゃないか」
「あー……おやつの食べ過ぎかも?」
あははと笑って返せば上座の桐野が静かに口端を上げる。
(笑われちゃったよ)
確かに子供みたいな言い訳だけれど、「お椀におっきな虫が浮いていたから」なんて正直に口にするのはさすがにデリカシーに欠ける。何しろ今は食事中だ。
さつきの右隣では雪緒が黙々と箸を動かしていて、その後ろには彼女が連れて来たお世話係――藤乃という中年女性が何事もなかったかのような様子で控えている。
本当に何気なく、ふと視線を流したら藤乃と目が合った。すると彼女はさつきにしか分からない程度の小さな笑みを口端に乗せたのだった。
笑った……と言うべきか嗤ったと言うべきか。
(あー……この人か)
もしかしてとは薄々思ってはいたのだけれど。
蓋する時に虫が飛び込んで来たんだとか何かの間違いで入ってしまったとか、そういう事にしておきたかったのに。
さつきが桐野、辺見と食事をするのは基本的には朝晩の二回。当然その場には雪緒がいる。
出歩かなければ昼食も屋敷で取る事になるが、そういう時は志麻や幸吉と一緒に台所で簡単に済ませる事が常になっていた。もちろん雪緒とは別だ。
そうであるから昼は気兼ねなく食事できるのだけれど、朝食夕食時に受ける嫌がらせには心底閉口していた。。
(あれからずっとナニかが入ってるんだよねえ)
閉口以前に怒りを感じてしまう。
食事に大きな虫やごみなどの異物が入っていれば、さつきの感覚からすると食べられない。
当然捨てるしかない訳で、なんてもったいないと毎回思っている。
しかも混入している食器はまちまちで、蓋を取ったら真ん中に鎮座していたり菜っ葉の下から出てきたり。
今日も入ってるんだろうなと思いはしていても、慣れはしなかった。毎度毎度びっくりして声が出そうになるのをぐっと耐えている。
それに、異物だと判別できる形である間はまだいいけれど、そうじゃなくなったら。
(…………)
そこまで思うと本当に気持ちが悪くなって、それからというもの朝晩は食欲が一気に減退する事になってしまった。
減退と言うより食べる気が起らない。
「さつき」
「はい?」
最近全然メシを食っていないがどうした。
呼び止められ、桐野にまでそう聞かれた事にさつきは少し驚いてしまった。
体調でも悪いのかと続けた桐野はさつきの事を割合気にしてくれていたようで、それは素直に嬉しいと思ったのだけれど、
(本当の事なんて言えないしなあ)
説明するにもできないし、理由を言えば雪緒と藤乃の名前を出さざるを得なくなる。
さつきとしてはできればそれは避けたかった。
十中八九藤乃の仕業で間違いないとは思うけれど、混入の場面を自分の目で確かめた訳ではない。
憶測で物を言うのもどうかと思う。
それにもしかしたら藤乃の一存で雪緒は与り知らない事かもしれないし。だとしたら少し気の毒だ。
そう思う位の仏心は、まださつきにも残っていた。
しかし心配してわざわざ聞いてくれている桐野を無下にもできず、
「最近ちょっと暑くなってきたから、食欲があまりなくて」
さつきはそんな風に誤魔化した。
食欲が落ちる程の暑さはまだない今、我ながら苦しい言い訳だと思う。
桐野も違和を感じたのか何かを言いかけたのだが、その前に、
「きぃさん、私、志麻ちゃんたちと食事してもいいですか?」
被せるようにしてさつきは言葉を継いだ。
「
短い言葉の中にはお前は客人なんだぞというニュアンスがあって、場違いだなと思いつつもさつきは小さく笑ってしまった。
大した事はないとはいえ、あちこちから悪意が向けられているのに気が付いているから、些細でも優しくされるのは酷く嬉しい。
しかし「何故か」と桐野が聞いて来る理由は分かるのだ。寧ろ聞かれたって仕方ない。
本来の場から追い出して従僕や女中と食事をさせるのは、確かに客人への待遇ではない。さつきが幸吉と志麻をどう思っていたとしても、だ。
桐野の気持ちは分かるので、さつきも先を続けた。
「ゆっくりならまだ食べられそうなんですけど、あの場だとさすがに時間もかけられないし。それに……」
「それに?」
「いくら食べられないからって、あの中でお茶漬けとか、ね、ねこまんまとかできないじゃないですかー!」
桐野が吹き出した。
その肩をぺしぺし叩きながら、「やだなぁ最後まで言わせないで下さいよ!」、笑って抗議すれば桐野も笑い出して。
「あれは食いやすいな」
あら意外。
「きぃさんでもああいうの食べます?」
「確かに人前ではせんが。汝でもそげな
「え?いやいやいやしますよ家でなら。だって私一般庶民ですもーん」
その言い草がツボに入ったのか、桐野は益々大きく笑った。
「そげん事なら分かった。ただ食えそうなら一緒に食え。無理強いはせんが」
話の分かる人は本当に助かる。
(なんとか誤魔化せたかな)
桐野を誤魔化せたのか、桐野が誤魔化されてくれたのか。
微妙だなあと思いつつ、さつきは廊下の向こうを歩いて行く背中を見送った。
(別々に食事か……)
食事をしながら特段多くの話をする訳でもない。
それに雪緒が屋敷に来た時点で一緒に食事をするのもどうなのだろうとさつきは思っていたのだ。
それなのに、いざあの食卓の輪から外れるとなるとちょっと寂しくなった。
しかし難しい所だと思う。
(だってこれで問題の根本が解決する訳じゃないよね)
雪緒と藤乃が問題にしているのはさつきが「食事に同席する事」ではなくて「屋敷にいる事」そのものだろうから。
(私が出て行けば万事解決なんだろうけど、出てくっても行き先がないし……きぃさんとできるだけ顔を合わせないようにする?)
現状それしか解決策がないような気がするけれど、食事の場さえ変えるのに、いきなりそこまでするのは幾らなんでも極端だろう。
雪緒に気を遣うあまり桐野への礼を失する気がする。
さつきは桐野邸の客人……否、居候だ。
その立場からすれば一番気を遣うべきは桐野との関係。
そして何もかもを引き受けてさつきをここに連れてきてくれた辺見との関係。
桐野への失礼はその辺見の顔に泥を塗る行為だと思う。
最重要なのは雪緒との関係じゃない、……と思う。
それにさつきは桐野から彼女の名前と実家を紹介されただけで、その外は何も言われていない。
気を付けないといけない事や気にかかる事があるのなら、桐野は何か言ってくれる筈。
(うん)
さつきは頷いた。
とりあえずは食事の場を移す。それで自分は食事を確保できるだろうし……
雪緒たちだってある程度こちらの意を汲んでくれるだろう(と思いたい)。
それで暫くは様子を見ようと思ったのだ。
それなのに。
雪緒に投げつけられた言葉にさつきは思わず目を丸くしてしまった。
この人今なんつった?
前にも同じような感想を抱いた気がする。あの時は確か「ここに住むから部屋から出て行け」だったけれど、今度は、
「さつき、あなたいつまでここにいるの?」
だった。
聞き間違いでなければ屋敷を追い出されかけている。しかも呼び捨て。
さつきはできるだけ雪緒たちと顔を合わせないように気を付けていたのだが、住む屋敷が同じでは実際にはそれも難しかった。
現に今、廊下で雪緒と藤乃のふたりにばったり会って……、会った所でそう言われたのだ。
無視もできないから、向こうが着飾っているのを見て挨拶程度に「お出かけですか、良いですね」と棒読みで声を掛けたところのこの返事。
いつまでって。
(そんな事言われても……強いて言えば元の世界に帰るまで?うん、今のままだとそうなるよね。少なくともそれまでは)
「ずっとかな?」
思った事の最後の部分だけが声になり、あ、しまったと思うも、さつきの言葉で目の前にいるふたりの雰囲気は随分と険しくなっていて。
「………………」
「……なんと図々しい」
藤乃は蔑みの言葉を落とすと、
「痛っ」
すれ違いざまにさつきの二の腕を抓り上げ、雪緒を急かしながら玄関へと向かって行ったのだった。
「痛いなぁ、もぅ……」
袖口をまくり上げて捻られた個所をさする。
真っ赤になったそこを見てさつきは少なからず落ち込んでしまった。
――失敗した。
思わずの一言だったとはいえ、もう少しオブラートに包んだ物言いもできただろうに。
(完全に敵認定されちゃっただろうなー)
いや、あちらからすればさつきなんて初めから邪魔者以外の何者でもなかっただろうとは、思うけど。
桐野がさつきを「客人」と言った所であちらはそれさえ信じてないようだったし、
(だって信じてたらご飯に虫なんて入ってないでしょ)
こうなるのも遅いか早いかだけの違いだったのかもしれないけれど……
(あーあややこしい話、更に面倒にしちゃったなあ)
自己嫌悪。
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