14:until now




母は流行病で亡くなり、父は病気で働きに出る事ができず薬代がかさむ状態。
妹弟はまだ小さくて、生計は一番年上の志麻が奉公に出る給金で成り立っていた。
奉公先は厳しかったけれど奉公人を大切にする商家で、志麻はそこで躾以上の様々な事を学んだ。

大店おおだなではなかったけれど、そこそこの規模であった店はしかし御一新による首都の人口激減で商売が難しくなり、数年は持ち堪えたものの結局は全ての奉公人を解雇せざるを得ない結末を迎えたのだった。

たなの旦那とおかみはあちこちを駆けずり回ってそれぞれに次の奉公先を見つけてくれ、志麻に宛がわれたのは政府高官邸への女中奉公だった。

「先方はお偉いさんとお前と同じ位の年の従僕のふたり。今まで入った奉公人はすぐに暇を出されているようでね、条件はちょっと難しいようだけれど……向こうが気に入ったら誰でもいいと」

そんな旦那の言葉に志麻は黙り込んでしまった。
すぐに暇を出されている?気に入ったら誰でも?何それ。それは女中奉公でなくて妾奉公なのでは。
不安そうに見上げた表情をどう見たのか、
「心配かもしれないが……あちらには志麻がいいんじゃないかと思ったんだよ。お前ならかわいがってもらえるよ」
旦那は安心させるように笑ったけれど、志麻の心配は却って増幅した。

連れて行かれた先は上野、何年か前まで高田藩榊原家が中屋敷として使っていた屋敷だった。
この広い屋敷にたったふたり?
俄かには信じ難かったけれど、ここには本当に男ふたりしかいないようで色んな意味で心細い事この上ない。
お店の旦那が何やら話し志麻の事を頼んで屋敷から下がった後、じぃと見つめてきた屋敷の主から初めて声を掛けられた。
「今からメシ、作れるか」
第一声はそれだけだった。

「汝もここで食え」
目を真ん丸くして桐野利秋と名乗った男を見る。
奉公人が主人と一緒に食事をする?ありえない。そう思ったのが伝わったのか、
「三人しかおらんでな。そいにひとりで台所で食うんは寂しい(とぜんね)じゃろう」
桐野は大様に笑った。
押し切られて共に膳を囲む事になる。
車座になり隣が桐野、その反対が幸吉で、咀嚼しながら「うん、美味か」という声が耳に飛び込んできてホッとすると同時に一体何なのだろうと思った。
政府、高官?主と従僕と女中で車座って。

しかも寝る時には用心して内からつっかえをしておけとまで言われてしまった。
女中奉公とはいうものの実際には妾奉公ではないかと疑っていた志麻からすれば驚きの言葉だったのだけれど、
「汝に手ば付けるほど女に不自由はしちょらんが」
至極普通に、何を言っているのだこの娘はというように桐野に首を傾げられてしまった。

ホッとして顔を綻ばせれば、今日は疲れただろうから早く寝ろと苦笑しながら促されて退出した。
桐野は男振りの良さで昔から随分女性にもてていたと幸吉から後から聞いた。
下女に手を付けるような事をしなくても間に合うのだろう。

でも、あれ?
(私ここで雇って貰えるのかな?)
今までの奉公人はすぐに辞めていったって。条件が難しいって。
条件が難しい?そうなのだろうか。そんな感じには思えなかった。


志麻の仕事は前の奉公先と殆ど変わらず、ただひとつ加わったのが桐野の身の回りの世話だった。
当然、主の部屋に入る事になる訳で。
桐野不在時に無造作に、否、これ見よがしに懐に入れやすい貴重品が置いてあるのをまま見つけた。
正直嫌な気分になる。

(不用心……)

今この屋敷には三人しかいない。
幸吉は長年桐野といるようだから主の物に手を付けるような事はしないだろうし、もちろん志麻だってそんな不心得な事はしない。
しかし今の関係からして何かがなくなった時、真っ先に疑われるのは自分だ。
だから、言い難い事だけれど言ったのだ。その方が桐野の為にもなるし、自分の為にもなると思って。
「札入れや金目の物を目に付く所に置かないで下さい。御前は不用心過ぎです」
そう、桐野に直接。

「そう思うか」
「思います。それに奉公人の心に魔が差さないよう気を付けるのも御前の役割です!」
桐野の大した事ではないとしか思っていないような返事にもちょっと腹が立って、言葉尻がきつくなった。
「汝にも魔が差すか?」
志麻だって人間だ。寸毫もそんな思いは湧かないと言ったら嘘になる。しかも実家の状況を考えると臨時であっても収入は大歓迎だ。

でも。
でも、それをやったらお終いなのだ。奉公人という以前の、人としての問題だと思う。
人の物を盗むだなんて、お天道様に顔向けできないような事はしてはいけない。
両親と奉公先からそう教えられてきた。
たどたどしい言葉に男ふたりは何も言わずに耳を傾けてくれていたのだけれど、
「私はそんな事しません。でも、やっぱり最低限の用心は必要だと思います。お互いの為に」
最後にそう言い切ると、桐野が破顔した。

「合格」
「え?」

何が?問い返そうとした時にふと思い出した。
”条件が難しいようで、奉公人がすぐに辞めていく……”
志麻からすればここに来てから普通に仕事をして、問われた答えとして思った事を口にしただけだ。
合格と桐野が言うからには、それがここの条件に適った、という事なのだろうけれど……何が良かったのか正直よく分からない。

「……あの、私、こちらは条件が難しいって聞いてました」
「条件……?ああ、『美味いメシを作れる真人間』じゃ」
「真人間」
そんなの、いくらでもいそうだけれど。
「あんな志麻さん、財布の中身抜いて自分の懐に入れてまう人、意外と多いんよ」

横からの幸吉の言葉に驚いてしまった。
”奉公人がすぐに辞めていく”って。それは辞めていくんじゃなくて、”条件に合わなかったから”辞めさせられているって事で。

「じゃあ私、」
こちらで働けるんですか?そう尋ねようとする前に、
「これからよろしゅう頼む」
桐野にそう言われてしまった。


初めは三人だった桐野邸も暫くすると書生が入り、やがて志麻だけでは追いつかなくなって新しい女中が入った。
志麻よりも年かさで、女中としても先輩で、どう考えても桐野の世話をするのはあちらだ。
向こうもそう思ったのだろう、当然のように志麻を押しのけて桐野の私室に向かうという事が何度か続いた。
それでも何かにつけて桐野が志麻に声を掛けるのが気に食わないのか、嫌味を言われたり、意地悪をされたり。

(困ったなあ……)

嫌味は我慢できるけれど、拭き掃除の最中にわざと桶を倒されたり、そんな事をされたら仕事が滞る。それは困る。
でも相談できる人もいなくて、ひとりでじっと我慢していたのだ。
そうしたら何日か後にはその女中が辞めてしまった。

よく分からない内に人が来て、よく分からない内にいなくなる。
そんな事が何回かあって、また新しい女中が入って来た時に彼女ら共々桐野に呼び出された。
新しい女中は書生の世話の為、そして客が来た時の応援の為に雇った事。
志麻を押しのけて桐野の身の回りの世話をするのは許さない事。

「志麻、頼むな」

そう、皆の前で言われた。
新しく来た人はその辺りを心得ていたのか、はたまた桐野の釘刺しが効いたのか、彼女らとは『住み分け』ができて良い関係が続いている。
しかしそれでホッとしたのも束の間、今度は桐野の思い人……”らしい”人が入れ替わり立ち替わり屋敷に上がり込むようになった。

彼女たちの説明を桐野からはされた事がない。
しかし桐野の態度からして女性の方の独りよがりと言うか、大して大事にされていないのだろうなと言うか、あまり相手にされていないのだろうな、と言うか……

この屋敷にやってきたほぼ全員がそんな感じで、その上彼女たちは以前まで屋敷に来ていた女中たちによく似ていた。
ただ、女中たちと彼女たちとでは大きく違うところがあり、それが桐野にかわいがられる志麻への態度の悪さ。
嫉妬から来る八つ当たりの酷さだった。

彼女たちは立場が上である(と思っている)為、その分志麻に対して容赦がなかった。
過失を装って焼けた火箸を素肌に押し付けられたり、さりげなく煙管の灰を腕に落とされたり。
頭から水をかけられて外の掃除を言い渡されたり。
夕方までには帰って来られないような用事を言い付けられたり。
しかし、そんな事があったらその日、次の日、遅くてもニ、三日の間には、これまた不思議にも必ずと言っていいほど彼女たちの姿はなくなった。

ここまでされれば、これは自分の為だと志麻は嫌でも気が付いた。

思えば何かある度に薬や菓子を携えて幸吉が様子を見に来てくれて、桐野は何も言わないけれど、きっと幸吉は主の代理として来てくれていたのだろう。
それに幸吉自身も色々な場面で志麻を助けてくれた。
またいつの頃からか屋敷に出入りするようになった桐野の従弟が、志麻が理不尽に巻き込まれないよう気遣ってくれた。
前のお店も奉公人を大事にしてくれる所だったけれど、ここも同じだった。或いはそれ以上かもしれない。
(私、ただの女中なのにな……)
戸惑いと嬉しさとが綯い交ぜになった不思議な気分になるのを、志麻は禁じえなかった。
そして今ならここの『条件』が難しいという事がよく分かる。
”気に入ったら誰でもいい”だなんてすごく大雑把だけれど、桐野の基準は中々厳しい。

女性が出入りする度にあれこれ起り何やら申し訳ない気持ちになったけれど、大切にされて嬉しいと思う気持ちはやっぱり大きくて、その気持ちの分、志麻はよく働くようになった。
屋敷では桐野が快適に過ごせるように。
客が来たら桐野の顔が立つよう、できうる限りの快適さと便宜を。
そう思って黙々と頑張れば頑張るほど、志麻はかわいがられるようになった。

――あちらには志麻がいいんじゃないかと思ったんだよ。お前なら可愛がってもらえるよ

お店の旦那の見る目は正しかったらしい。





そんなある日、辺見がひとりの女性を連れて来た。

急に現れたとか拾ったとか、訳の分からない事を言っていたが、どうやらこの屋敷で預る事になったらしい。
幸吉からはその日の内に事のあらましを聞いて情報の共有をした。
「変わった人やな」
幸吉がそう言っていたから興味は湧いたが、顔を赤くして桐野を見ていたとも聞いていたので、朝の給仕をしながらまた似たようなのが来たと内心うんざりしていたのだけれど……

世話をされ慣れていないのか如月さつきという女性は始終そわそわしっ放しで、ご飯をよそったりお茶を注ぐ度にいちいち「ありがとう」が返ってくる。
珍しいなと思った。
この屋敷に来る女性たちは「そうされて当然」で、お礼なんて言われた覚えが志麻にはない。
それに彼女が主たちに話していた事柄も聞いた事のない内容で、なるほど確かにこれは変わっている。

桐野は仕事があるから朝から不在で、初めの一日二日彼女の相手をしていたのは幸吉だったけれど、
「あの人、今までのと全然違う。偉そうな所がなくて私にも丁寧やし。従僕やて分かってんのかな……」
首を傾げはしても、悪い印象は持たなかったようだった。

部下の関係からか様子を見に来た篠原にしてもさつきと話していて珍しく声を上げて笑っていたし、何より桐野が。
桐野の雰囲気が、今まで屋敷に来た女性に対するそれと全然違う。

「だってあの人弁えてるっちゅうか、無理に気に入られようとせんし、媚も売らんし。夜に先生の寝間に忍んで行くような真似もしてないやろ?」
「寝間!?」
「志麻さん知らんかった?今までの人大抵……ちゅうか、皆そうやったで?」
「え、え〜……」

あの女性たち、室は桐野と別だった筈だ。それをわざわざ……というかそもそもそれが目的だったのだろう。
桐野の想い人なのなら咎める事ではないだろうが、はっきり言ってあの関係はそうじゃない。
志麻が嫌悪感丸出しで眉を顰めれば幸吉が苦笑した。

「それに志麻さん、意地悪されてないやろ。あの人、みんなに優しい。特に志麻さんと私に。多分、先生」
「「そこが一番気に入ってる」」

ふたり顔を見合わせて笑う。



人数が増え、さすがに今では志麻と幸吉が桐野と食事の場を一緒にする事はなくなったけれど、「立場上一緒には無理なんだよね?」とさつきは時々炊事場を覗きに来た。
初めの頃、膳の片付けを手伝いに来たと炊事場に来て、ふたりで食事しているのを見られた時は驚愕されたのだ。

「ご飯とお味噌汁だけ?おかずは……いやいやいや、沢庵はおかずじゃないでしょうが。え、いつもこう?配膳後の余りを食べてるの?てか余ってないじゃん…………ちょっと台所借りるね」
とか何とか言いながら、慣れない手付きで野菜炒めの卵とじを作ってくれた。

「簡単なものしかできなくてごめんね。でも残り物じゃなくて、ちゃんと自分たちの分も取り分けなさい」
「それに栄養偏り過ぎだし……病気になったり倒れたりしたらみんなが心配するよ」
屋敷の事が滞って『困る』じゃなくて、『心配する』と言ってくれたのが嬉しい。

それからというもの、食事の前後にはさつきが炊事場にやってくるようになった。
「あの、あの、さつき様お客様なので……」
こんな事しないで下さいと言おうとして遮られる。

「お願いだから”様”は止めて……それに私お客さんなんていいもんじゃないし居候じゃん?手伝える事は手伝いたいし……志麻ちゃんたちがちゃんとご飯食べてるかも気になるしね」

軽く笑いながら、夜は台所にある材料を見て簡単な賄いを作ってくれるようになった。

別府はいじめられてはいないかと心配してくれたけれど、全くそんな事はなくて、ただただ親切に優しくしてくれる。
下男下女ではなくどうも年の離れた後輩とか……弟妹とか、そんな風に扱われているように思っていたら、周囲から見てもそうだったらしい。
日中に彼女と一緒に出かけてきてもいいですかと桐野に許可を求めた時には、かなりの小遣いを渡された上、「ゆっくり楽しんで来い」とあっさり許されてしまった。
室を出ようとすれば呼び止められ、振り返ると、
「志麻、良かったな」
もはや家計の為だけにここにいるのではないというのは、確かになりつつある。 


桐野の機嫌も良いし、志麻も幸吉も気持ち良く過ごしている。
辺見は大雑把で乱暴なところもあるけれど、目下の自分たちには酷く優しい。
別府も相変わらずで、たださつきにはほんの少し冷たかったけれど、それが本心という訳ではなく、さつきもそれを知っていてそういう遊びを楽しんでいるような関係。
辺見が屋敷に来てからは薩摩人のお客が増えたけれど、志麻たちにとって困る事や嫌な事は何も起らず、寧ろ彼らにさえよくしてもらっているという自覚がある。
要するに屋敷全体が凄くいい雰囲気だったのだ。

それなのに。
たったひとりの為にそれが壊れてしまった。





嫌だ。

あの女性を見て志麻がそう感じたのは、以前この屋敷で見ていたのと同じ種類の女性だと思ったからだ。

商家のお嬢さま雪緒、そのお付きの女性は藤乃。
ふたりはある時から度々屋敷に顔を出すようになった。とは言っても最初はお茶を飲みながら家の様子を見るだけ。
次は書生に小遣い等を渡し家の中の様子を聞くだけ。
どういうつもりかは知らないが、痛くない腹を探られているようで段々気持ち悪いと思い始めた頃に、彼女たちは屋敷に移って来た。

ただ、驚いた事に彼女たちはあれだけ書生と話をしていたのに、さつきがいる事には気が付かなかったらしい。
屋敷に女がいる事は全く予想していなかったようで、さつきとの初対面時はかなり驚いていた様子だったけれど……
その時、雪緒はさつきをどう認識したのだろう。

どういう存在であれさつきがここの”客人”である事に変わりはない。
それなのに客間からさつきを追い出して、食事の席では当然のようにさつきよりも上席に座って、挙句の果てには食事の場からも追い出した。
その原因を志麻は知っている。
ある時からほぼ手付かずで残されるようになった朝食と夕食、気になって志麻は片付けられる前の膳を見た事がある。

さつきの膳はさつきが自分で片付けていたから、もちろん彼女の目を盗んで、だ。
(……あんなもの、食べられる訳ない)
虫が入っていたり、異臭がしたり。

犯人なんて考えなくても分かる。藤乃しかいない。
彼女は雪緒の膳を運ぶ為に食事の直前に炊事場に足を運ぶ。
それに志麻はさつきが自分で膳を運ぶ事はさすがに止めて欲しいと懇願していたから……
その時だけはどうしても炊事場は手薄で、膳から目を離す時間ができてしまう。
藤乃が何かをするならその時に間違いない。
ただ食事の事についてさつきに尋ねる前に彼女が桐野に直談判してしまい、自分たちと食事を摂る事になってしまった。

志麻はさつきとの同室を嫌だと思った事はない。
寧ろ話す機会が増えて嬉しいのだけれど、さつきの立場を考えるとそれも複雑で。
一体どういうつもりなの。
口には出さなかったけれど、姉のような存在が蔑ろにされているのを見ると、志麻は不愉快さを抑えられなかった。
辺見も同じだったのかさつきに事情を質していたけれど、彼女は「いいの」と言うばかりで、
「揉め事を起こしたくない」
そうとも言っていた。

向うを立てないとダメ、桐野の想い人が優先、想い人の家に女がいたら面白くないのは分かる、……
「弁えてる」
幸吉はさつきの事をそう評したけれど、それが志麻から見た彼女の態度の全てだった。それに、
「それ相応に扱われたいんなら相応の振る舞いがいるなって思っただけ」
これはさつきの独り言であったけれど、きっと幸吉や志麻が思っているのと同じ事だ。
自由に振る舞っているように見えて、屋敷にいる人間が不快にならない線をさつきはきちんと考えている。
志麻がそれに気付いたのはつい最近の事だ。
客じゃない、居候なんだからと言って、自分が前に出過ぎないよう、さつきが気を付けているのも志麻は知っている。
一歩でいい、少し引いてみる。
そんな気持ちが雪緒や藤乃に露ほどもあれば、桐野に少しは気に入られるだろうに。

そして当の桐野の雪緒への接し方と言えば。

「ねえ幸吉さん、あれはなんて言うの……」
「さあ。いつものとはちょっとちゃうね」

ふたりして首を傾げてしまう。
桐野は今まで屋敷に押しかけて来た女性に対してはほぼ無関心だったが、雪緒にはどうもそうじゃない。
桐野にしては親切な行動をしているとは思うのだけれど。

「でもなあ……先生のあの顔」
「あー……うん」

桐野は特段変わらぬ様子で物静かに笑って対応しているけれど。
ふたりには分かる。あれは違う。あれは、

(万人向けやな)
(万人向けだわ)

口には出さないけれど桐野としては雪緒の存在は不本意なのだ、多分。
だって雪緒といる時とさつきといる時の桐野の雰囲気は違う。

さつきとの方が随分親しげなのだ。
さつきといる時の方がずっと楽しそうで、女性と話している時に吹き出す桐野なんて、幸吉も志麻も、この屋敷に来てからというものついぞ見た事がない。

「あんなん見せられたら、さつきさん、そりゃヤキモチも焼かれるんちゃうかなあ。ええ人やと勘違いされたかてしゃあないで」

そう言う幸吉の主張も凄く分かる。
もちろん実際には違う。でも違うと否定すればする程嘘っぽく、向こうの疑いは却って深まるのだろう。
言葉が伝わらない人は厄介だ。


雪緒たちが来た時から噛みあっていた屋敷の雰囲気が少しずつずれていく。
そのずれから生じる摩擦は全て、さつきがひとりで吸収していた。
彼女はそれを「八つ当たり」と言い、志麻もそう思ったけれど、これは八つ当たりというよりは……

(排除、よね)

志麻に今まで向けられてきた態度とは、何かが根本的に違う。
志麻の時はこんな感じではなかった。
なんでだろうと考えて、思い浮かんだのは志麻とさつきの立場の違いだった。
志麻は奉公人、あくまでも下使いで、いじめはしてもいなくなったら困るのだ。
それに歳からしても、屋敷に来た成熟した女性たちからすれば志麻は争うに足る「女」としては見られていなかった。
だから八つ当たりで終わっていたけれど、今回のはそうではない。

さつきに対しては桐野の前から姿を消すよう企てられているとしか思えなかった。
幸吉とさつきと三人で一緒に食事をするようになった後から余計にそれが酷くなったように感じられて……
どうにかしたいと思っても自分ではどうにもできないのがもどかしい。
主の人間関係に口を出せるような立場ではない。
だからせめてさつきの愚痴くらいは聞きたいのに、当の本人はニコニコするばかりで嫌な事なんか何も言わないから、こちらとしても聞きようがなかった。



until now:今に至るまで
東京の人口は御一新で江戸詰めだった地方の藩士が地元に帰ってしまって江戸時代の半分に。元に戻ったのが大正あたり  131015130606

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