「さつきさん!?」
志麻の声にこちらがびっくりしてしまった。
水の入った手桶を持って行ったのはついさっきだったのに、幾らも経たない内に髪から水を滴らせて戻ってきたら誰だって驚くだろう。
いらない心配もするだろうからとこっそり風呂場に回ったのに、なぜかそこには志麻がいた。掃除をしていたらしい。
「どうしたんですか……」
「あ〜……」
見つかっちゃったよ。
「それ誰に」
「足引っかけて転んじゃった」
「…………けっ、怪我は、」
「ないない、転んだだけ。間抜けだよねえ」
笑って帯を解けば、志麻はここで待ってて下さい!と風呂場を飛び出して行った。着替えを取りに行ってくれたらしい。
(転んだ?)
さつきは溜息を吐いた。
何もない廊下で転んだ上、手桶の水を頭から被る程間抜けじゃない。さすがに。
自室近くの廊下の拭き掃除していた時、急に水が降って来たのだ。
見損なったとか何とか、そういう言葉と一緒に。
振り返った時にはバタバタと走り去っていて顔は分からなかったけれど、あれは何度か話をした事がある書生だった。
志麻と一緒に使っている部屋の辺りは、桐野たちや客人はおろか書生たちが来るような場所ではないのに……
(あんな事する為にあそこまで来たの?わざわざ?)
怒るより呆れてしまった。
(暇人……書生なら勉強しろよ)
そう心で扱下ろしながらも立っている足が少し震えた。
本当に悲しくなってしまう。
ただ「見損なった」なんて言葉、最近書生からかけられるものとしては酷く優しいものだったのだ。
「ずっとかな?」
雪緒にそう口を滑らせた次の日からそれまで遠巻きになっていた書生の態度が硬化した。
雪緒か藤乃か、どちらがやっているのかは知らないが、彼らにどういう事を吹き込んでいるのか、吐き捨てられる言葉の端々から大体は分かる。
ひとつめ、色仕掛けで桐野を騙してる。
ふたつめ、居候してる辺見にも色目を使ってる。
「……はは」
初対面の別府に言われた事と全く同じじゃないか。思わず苦笑してしまった。
雪緒たちが来てからはまだ別府も篠原も顔を見せていないけれど、来ていたら確実に彼らの名前も出ていただろう。
(私どれだけ手練手管の女?)
そんな色気があったらもっと有効に活用してる。
(あと私にいじめられているとも、言ってるんだろうな)
すれ違う度に酷い事言われるとか、みんながいない所で酷い事される、同じ場にいるのが怖い、とか、そんな事。
「あー……なんと言うか。子供染み過ぎてる、よね」
やっている事は中学生並みだ。いや、中坊以下か。
そんなに邪魔なら桐野に直接お願いすればいいのだ。目障りだからあの女を屋敷から追い出してくれと。
でも、そう言った所で桐野は「うん」とは言わない、きっと。
志麻には雪緒を「きぃさんとお付き合いしている人」とか「奥さんになる人かも」と言ったけれど、ここ暫くの様子を見ていてさつきは疑問を持ち始めていた。
茶屋であのふたりを見かけた時、その雰囲気は随分いいものだった。
しかし今の屋敷での様子を見ると、桐野は彼女を丁寧に扱っているけれど……丁寧に扱ってはいるけれど、本当にそれだけなのだ。
(多分、親しさという点では私の方が上)
そうさつきが自分で思うほど、あのふたりの間には恋人の打ち解け合った雰囲気というか馴れ合いというか、そんなものが皆無だった。
(付き合ってる、……んじゃないんだろうな)
好きで付き合っているのなら、彼女が不安だと言えばそれなりに対処するだろうとさつきは現代的な感覚から思う。
離れた長屋に住まわすとか、違う家を宛がうとか色々方法があるだろう。
ただ、桐野からさつきに対してそんな話は一切ない。
雪緒も桐野には言い辛くて言えていないとか、既に言ったけれども一蹴されたとか、そんな可能性もあるけれど。
(――違う。ちゃんとお付き合いしている関係じゃないから、口出しして先にいた”客人”を追い出すような真似ができないのよ)
雪緒は既に桐野に相談もなく屋敷に上がり込み、先客を客間から追い出すという事までやっている。
これ以上の勝手はさすがに難しいと踏んだのではないだろうか。
それにさつきがここに来た当初、桐野は約束してくれたのだ。
帰れないのなら、いたいのなら好きなだけここにいたらいい。お前の面倒くらい見てやる、と、そう。
桐野はこういう類の約束を反故にする人ではない。何となくそう思う。
だから、雪緒の存在の有無で桐野が自分をどうにかする気はないという、どこか確信めいた気持ちがさつきにはあった。
そしてまた雪緒も恐らく桐野がさつきを追い出す気がなさそうだと、どこかで感じているのだ。
だからさつきが自発的に出ていくよう、地味な嫌がらせを続けているんだろう。
(……アホらし)
いい年して我儘を聞いてもらえず泣き喚いている子供と何ら変わらない。
正直言ってバカらしくて相手をする気にもならなかった。
けれど、黙ったままでいるのは相手の言い分を肯定している、そう取られる事が多いのも確かだ。
否定しなければ、あちらの言い分が真実になってしまう可能性がある。
それに黙っていたら調子に乗って行為がエスカレートするのが目に見えている。
現に今、ある書生が水をかけるという行動に出た。
今までは言葉の暴力だけだったのに。
藤乃にしても顔を合わせる度に目立たない所を酷い力で抓ってくる。最早捻り上げるという形容に近いのかもしれない。
それも決まって気を抜いた時に限ってだ。センサーか何かでも付いているんじゃないだろうか。
しかも痛いだけじゃない。
今までに結構な数の痣を作られていて、それは抓るだけでこんなに凄い事になるのかと他人事のように思う程で。
このまま何もせず放っておいたらその内大きな怪我でもしそうで怖い。骨折とかしたら現代のようには治らないのではとも思うし。
「手を打つなら、今の内だけど……」
手を打つっても。
桐野に告げる?
(あー……現時点でそれはない。それは最終手段。てかもう薄々気付いてそうな気もするけど)
辺見に助けを求める?
(連れてきてくれた人にイチャモン付けるみたいで、それもちょっとねえ……)
さつきの色目云々という芳しからざる話は、きっとふたりの耳にも既に入っているだろう。
でも書生と違ってそれなりに言葉を交わしてきた彼らが真に受ける事は恐らくない。
まず桐野と辺見を色で騙しているという一事が嘘だという事を、彼らが一番分かっている筈だし。
いじめ云々はどう捉えられるか分からないけれど……
ならあのふたりに反撃する?
(……反撃って。どうやって。てか反撃って漫画かよ)
向こうと同じ事をするのは下の下策だ。
それに同じ土俵に立つ真似はしたくないし、立ったら負けだと思う。
別府は何かあったら連絡しろと言ってくれたけど、これも最終手段だ。
ただでさえおんぶにだっこの居候なのだ。できる限り自分で対処したい。
「とりあえず物の管理をちゃんとしといた方がいいかな……」
部屋の近くまで来るようなら、部屋の中にまで入ってくる可能性だってある。
失くなったら困る物が結構あるのだ。スマホとか。困ると言うより失くなったらまずい。
(荷物荒らされる心配なんて、ここに来てから一度もした事なかったのに)
本当に相手があまりに子供で嫌になる。
嫌になると言うより情けなくなってくる。
それに相手は若い盛りの男で、こちらは女だ。
加えて、さつきがここに世話になり始めた当初は大して多くもなかった書生の数は、その後に何人かが新しく入ってきて増えている。
性差から力で押さえられたら適わないのが目に見えている上に、あまりにも多勢に無勢だった。
しかもこの部屋は屋敷の中心部から少し離れた所にある。
日中は当然の事ながら桐野と辺見は屋敷にいない。志麻や幸吉も仕事をしているし、そんな時にどこかに閉じ込められでもしてしまえば……
そこまで思うとゾワッと鳥肌が立った。ぎゅっと目を瞑る。
(そんな事考えたくないな……)
しかし、こうなってしまえばそれは考えざるを得ないリスクだった。
「志麻、おるか」
炊事場ではほぼ聞く事のない人の声に驚いてしまった。
「きぃさん、お帰りなさい。志麻ちゃんは今出てて……すぐに戻ると思うんですけど、急ぎの御用ですか?」
「否」
お前でいい、これをやろう。そう言われ渡された箱の蓋を開ける。
中味は水羊羹だった。
「三人で分けろ」
「……ありがとうございます?」
今日は特別どこかに行ったとかそういう事じゃなかった筈だしお客さんだっていなかった。突然どうしたのだろう。
そう思ったのが語尾に出たのか、「汝は正直じゃな」、軽く笑われてしまった。
「それなら喉に通り易いじゃろう」
え。もしかして私の為ですか。
そう言いかけて口を噤んだ。さすがに言葉にするのは躊躇われたし、桐野はまず志麻を呼んだのだ。違っていたら恥ずかしい。
「幸吉くんも志麻ちゃんも喜びます」
「汝も食えよ」
(あー……やっぱり私宛てですか……)
しっかりと念押されたので、お礼を口にして頷いたのだけれど。
「悪かな」
「え?」
「色々と」
「えっ、と……」
雪緒たちの事、書生たちの事。部屋の事、食事の事。
心当たりがありすぎて、何に対してなのかが分からない。どれというより全部にだろうか。
ぐるぐる考えていると桐野はそのまま言葉を継いだ。
「幸吉と志麻の事もな。ふたりの飯の事、その他の事、ありがたかち思うちょる」
「それは……私がやりたくてやってるだけだから。お礼なんて」
そう言っている傍から桐野がさつきの手元を覗き込んできた。
桐野が顔を出したのはさつきが幸吉と志麻用の賄いを皿に盛っていた最中だったので、中途半端なまま菜箸を置いていたのだが。
「チキンロールです。えっと、野菜の鶏肉巻き。照焼き味で結構おいしいんですよ。味見します?」
何気ない一言だったのだけど、桐野は急に笑い出したのだった。
「味見か」
「あ」
確かに屋敷の主人に向かって裏方に出す賄いの味見はないだろう。
「んにゃ、貰う。……ああ、美味いなこれ」
返事も待たずにひょいと指で摘まんで口に入れた桐野に思わず苦笑してしまう。
桐野は陸軍でも結構立場が上の方だと聞いていたけれど「俺にも幾らか分けてくれ」と笑いながらそんな事を言うさつきにとっては気取らない気さくな人だった。
「あとな」
炊事場の上り框に無造作に放り投げられていた物を渡されて、「寒天じゃ。蜜豆でもところてんでもも好きなもん作って食え」、そう言われて。
そこであれ?と思った。今日幸吉はずっと屋敷にいた。という事は桐野は買い物を頼める人がいなかった訳で……
「きぃさん。もしかして羊羹も寒天も自分で買って来たんですか?」
「そうじゃが」
「……その格好で?」
その軍服で水羊羹と棒寒天?
(……ふっ……)
陸軍少将の軍服を着た桐野が羊羹を買っている姿を想像して思わず吹き出してしまった。
微妙過ぎる。
それに装飾が多い桐野の軍服を見れば、さつきでさえ「この人結構偉いんじゃない?」くらいの想像はつく。
この時代の人ならきっとさつきよりももっとよく分かる筈。
政府のお役人というだけで滅茶苦茶高いステイタスがある時代だ。お店の人はさぞかしびっくりしただろう。
吹き出したのを見咎めたのか桐野が片眉を上げたので、「すっごく驚かれたんじゃないかなと思って」、言い繕えば、「否、もっと失礼な事思うたじゃろうが」。
結構鋭い。
「いーえー。きーさん優しいなーと思っただけでーす」
笑いながらのふざけた言い方だったけれど、これは本当。
「ソーカ」
「優しくない人は、こんな風に気を遣ってはくれませんよ。それに直接ここに来られたんですよね?」
小さく笑えば桐野はおや、と言うように目を見開いた。どうやら当たりだったらしい。
着替えもせず軍服のまま。
内から続く廊下からでなく炊事場の勝手口から顔を見せた。
思うに、桐野は直接ここに来たのだ、多分。
わざわざそんな行動を採ったのは、この手土産は当人同士の話にしておきたいから。
他の人にはあまり知られたくないから。
他の人?
雪緒と藤乃に決まっている。
(やっぱり……気付いてるんだろうな)
あのふたりがさつきを毛嫌いしている事、桐野の行動ひとつでさつきの環境が更に悪化しそうな事、あまり良くない屋敷の雰囲気。
そういう事を分かっていて放置しておくような人には、桐野は見えないのだけれど。
(きっと何か理由があるんだろう)
さつきは漠然とそう思った。
だとしたら時期を見て桐野が対応するだろうし……
だったら自分が何かするよりその時まで待ってた方がいいのかと思う。
「きぃさん、私、ここで機嫌良くやらせて頂いてます。だからあんまり気にしないで下さいね」
笑いながら小さな声でそう言って、桐野を水場から送り出した。
その直後。
「さつきさん」
廊下の方から聞こえてきた、地を這うような声にびくっとした。
藤乃だった。
いつからいたのか。
もしかして、もしかしなくても今の様子を見ていたのだろう。
(あちゃー)
面倒くさい。タイミングが悪過ぎる。
その思い丸出しで溜息を吐けば、藤乃の機嫌を余計に損ねたようでその顔が鬼の形相に変わる。
「……一体どういうつもりですか。姿をあまり見なくなったと思って喜んでいたらこんな所でこそこそと、楽しそうに」
(楽しそうに見えるんだ)
「お嬢様がどんな思いでいると思ってるの!」
どんな思いで?少し引っ掛って首を傾げる。
「桐野様はお嬢様が話しかけても軽く笑うだけで肯定も否定もなさらない。屋敷にいる筈なのに夜部屋を訪ねてもおられない」
「はあ……」
そーなんですかとしか言いようがない。
というか夜部屋にって。
夜這いって事?お嬢様のくせしてやる事は意外と大胆だ。
「どういう事かと思っていたけど、そうか、桐野様はあんたの所に」
「は?」
思わぬ方向に火の粉が飛んできて思わず目を剥いてしまった。それに段々さつきに対する藤乃の言葉が粗くなってきている。
「ちょ、ちょっと何言って」
「道理で。それなら嫌がらせされてもあんたは出て行かない筈だ」
「いやいやいや、だから私そういうのじゃありませんって」
「じゃあ何だって言うんだい!あんた桐野様の女そのものじゃないか!」
(人の話を聞けよ……)
勝手に話を進めて勝手に納得していく目の前の女にうんざりする。
「藤乃さん、桐野さんが私の事なんて言ってたか、覚えてないんですか?」
「……………………」
桐野は雪緒の前でさつきを「客人だ」と言っていた。
だがそれをどう思っているのかは、黙り込んでジト目でこちらを見てくる反応で分かる。
「信じないならそれでいいです。でももし私が本当に桐野さんの『女』だったとしたら……こんな事して、雪緒さんの立場が悪くなるとは思いませんか」
そうだ。
これは素朴な疑問だった。雪緒や藤乃は今までその可能性を考えた事はなかったのだろうか。
「桐野さん、裏表が激しかったり陰で悪巧みするような人、多分好きじゃないですよ」
その位の事は見ていたら分かる。八つ当たりで人を傷付けたりする女など桐野の好みからは遠いだろう。
桐野が底意地の悪い女を愛する事はまずないと思う。
それがどんな美人であっても、だ。
「……なんて事を……」
藤乃がぶるぶると震えている。
確かに聞きようによっては雪緒に対する酷い侮辱だろう。特に藤乃にとっては。
「藤乃さん、分かってます?私、貴方がたの悪口を言ってるんじゃないですよ?塩を送ってるんです」
言い切った途端、派手な音と共に目から火花が散った。
藤乃は何事かを吐き捨てて水場を去って行ったけれど、頬をぶたれた衝撃、その痛みで彼女が何を言っているのかは頭に入って来なかった。
「――ったー……」
親父にもぶたれた事ないのに、なーんてどこかで聞いた事のある台詞を呟きながら頬をさする。
本当に思い切り平手打ちしてくれた。口の中が切れたのだろう、じんわりと鉄の味が広がる。
(痛い……)
藤乃が「雪緒がどんな思いでいるか」なんて言うから、あのお嬢様は打算抜きで本当に桐野を好きなのかと思ったのだ。
それならそれでいいと思う。本当に彼を好きなら頑張ればいい。
たださつきに当たり散らす今の状態では絶対に無理だ。
だから「今のままでは桐野は雪緒を見る事はないよ」と、暗にそう伝えたつもりだったのけれど、あちらには伝わらなかったらしい。
(ホントはあんな事教えてあげる義理もないんだけどな)
”敵”に塩を送る行為、本当に親切心からだったのだけれど。
turn sour:だんだんこじれていく 13102730615