16:spin around




用があると陸軍省に出向く父に付いて行ったのは単に気が向いたから。
帰り際に日本橋に下ろしてもらい、買い物でもして帰ろうかという軽い気持ちからだった。

ただ女の身という事もあり省内にまで付いて行くのはさすがに憚られ、父の用が済むのを人力車上で待っていた。
どれほど待ったか、恐らく大した時間ではなかったと思う。
門から出てきた父に声を掛けようとして思い止まる。
父の隣には馬を曳いた男がいた。

黒羅紗に縫い付けられた袖章の条の多さから男が高位の軍人だとすぐに分かった。慌てて人力車から降りる。
目の前に現れた父が彼に何やら口上を述べ、促されて紋切り型の挨拶をすれば沈黙が落ちたのだった。
どうしたのかと思い顔を上げれば、桐野と名乗った軍人は雪緒を暫く見つめた後、
「娘御か。話には聞いちょったが、こりゃ美しいな」
そう言って空気を揺らすようにして軽く笑った。
多分、一目惚れだった。


日本橋で新しい呉服でも見るつもりでいた筈なのに、そんな気持ちは完全に消え失せてしまった。
帰路、車上で揺られながら隣に座る父にあれこれと桐野の事を聞き出して、
「あの方、奥方はおられるのよね?」
ふっと口にした。
「いいや。……雪緒、桐野様は良い男だが遊びの噂が絶えない方だ」
雪緒の台詞の意味を正確に捉えた父の言葉だった。否定的で「止めておけ」という意がはっきりと込められている。
遊びの噂。芸者遊びか廓通いか。
座敷では芸者が争って桐野の席に出ようとするという話は有名だった。
それに加え屋敷の方は女の出入りも激しい事を職業柄耳が早い父は知っていた。

「随分好色な方のようですね」
相当派手に遊んでいる。話だけを聞いていれば誰しもそうした感想を持つだろう。
雪緒は父の言葉に頷きはしたものの、それとはまた違う感想を持ったのも確かだ。
あの桐野の風貌と佇まいを見るに、本人もさる事ながら間近にいる女が放っておかないという面も大きいのではと思う。
先程の微笑には雪緒でさえどきりとさせられたのだ。確かに桐野の男振りは随分と良いものだった。

「父様、桐野様とお話する場を作って」
「話をする場ってお前」
「もし私が桐野様と昵懇になれたら、父様も色々と都合がいいのではなくて?」

桐野は政府の元勲・有力者に連なる人間だ。
何がどういう縁に結び付くか分からない。それに今後の商いの発展を思えば繋がりを持って損をする事はないだろう。
だが私生活が派手だと知っていて娘を差し出すような真似はさすがにしたくないのだろう、父は言葉を濁したが、

「お願い、お話だけでいいの。どんな方か知りたいだけ」

雪緒の熱心な頼み方に次第に絆されてしまい、一度場を設ければそれで気も済むだろうと渋々ながら肯首してくれたのだった。


その後人を介して根岸の寮に食事の場を設え、桐野を招待した。
頃合いを見計らって父は「店で緊急の用が起きたらしい」と席を立ち、雪緒付きの女中藤乃を残して寮を後にしたのだった。
ふたりになったからといって桐野の態度は特段変わらず、終始軽い笑みを浮かべたまま雪緒の話を聞いている。
口数が少なく、向こうから話してくれないのが難と言えば難だったけれど、薩摩人は口数の多さを蔑む風潮があるらしいのでそんなものかと思った。
とにかく長時間を過ごしても悪くない印象に雪緒はすっかり気を良くしたのだった。

それから何度か断りにくい状況を作ったり、断りにくい人を介在して桐野と会ったけれど、いずれの時も嫌な顔ひとつ見せず、手のひとつも出されずに屋敷まで送り届けられている。
派手な遊び。好色。
実際の印象は聞いていた話と随分違う。だからやっかみ半分の噂が広がったのだろうと解釈した。
雪緒はその美貌から異性関係であらぬ噂を立てられ、迷惑を被る事も多かったからよく分かる。桐野の話も恐らく同じだ。
そう思い到った時に生まれたのは親近感と……それ以上の何か。
話をしたいと無理を言って桐野と会っていたが、そんな事をしなくてもいい、もっと近しい関係になりたい。
強くそう思った。


それから雪緒は父にも黙って上野にある桐野邸に出かけるようになった。
当然白昼に限られ、主不在ではさすがに長居もできなかったが、それでも屋敷の様子はある程度は掴める。
陸軍少将は高給取りであるからどれほどの人間に傅かれているのか、どれほど豪奢な生活を送っているのかと思いきや広い屋敷に住んでいるのは桐野、客、書生、そして彼らの世話をする奉公人。

女の出入りは激しいと聞いていたのに、この屋敷にいる女は奉公人だけで女主人がいる様子は一向になかった。
これは書生や女中に何度か小遣いを与えて聞き出したので間違いない。
叫びたくなる程嬉しかった。
妻がいない事や彼の地位を思えば、屋敷に複数の側女がいてもおかしくない。
そう思って女たちをどう追い出そうかを考えていたと言うのに。

そこからは早かった。
訪れる度に家の様子を見て、奉公人の動き方を見て、ここに住んだらどう差配しようかと想像する。 
いきなり桐野と同じ部屋というのはさすがにまずいだろうから、とりあえず上客用の客間に入ろう。場所は間取りからしてあの廊下の奥にある筈。
桐野本人にも相談していない訪問だったけれど、恐らく奉公人から日中の来客については聞いているだろう。
迷惑なら父に苦情が入るだろうが、そうした事は一度もなかった。

桐野は初対面で自分の事を「美しい」と言ってくれ、強引に何度か連れ出したのに嫌がる風情もなく外で会ってくれた。
それも終始笑顔で。
その時の様子から考えても、きっと自分は嫌われてはいない。
嫌われていないどころか、好いていてくれるのではないかと思った。
そして父には都合良く纏めた話を告げ、先方に連絡もせずに桐野邸に飛び込んだのだ。
きっと喜んで貰える。
そう思って。



しかし。
桐野付きの女中――志麻は突然の訪問に困惑したのか、今まで雪緒を応対していたにも関わらず中々話を理解しない。その上顔にははっきりと「迷惑」と書かれていた。
しかし女中の意図など些細な事だと構いもせず、必死に止めようとする志麻を振り切り客間の障子を勢いよく開けて驚いたのだ。

室内には目を丸くしてこちらを凝視する人がいた。

客?
そうだ。客人がいると言うのは聞いていた。今まで会った事はなかったけれど……
「…………どういったご用件でしょうか」
静かな問いかけにはっとして、上から下までを眺め倒す。
女だった。
(どうして!?)
想定外の事態に混乱する。この屋敷に女はいない筈だったのに。

いきなりの躓きに消沈はしたが、目の前の女を見れば髪は後ろでひとつに括っているだけ。
外国人のような髪色で、だがよく見れば顔立ちは日本人だった。とにかく美人の条件とされる豊かな黒髪とは程遠い。
化粧は薄い上顔立ちはどう頑張っても十人並み。普通としか言いようがない。
道を歩けば誰もが振り向く雪緒と勝負になるとはどう見ても思えなかった。
そこまで見てとると、雪緒はにっこりと笑って言ったのだ。

「あなたこの部屋空けて下さる?今日から私がここを使うわ」


夕食に呼ばれて室に向かえば、あちらの廊下から先程の女が入室する姿が見える。
一体どこに座るつもりなのかと藤乃とその様子を眺めていたのだが、彼女は躊躇いもせずに下座に着いた。
先程の居室の事もある。
張り合われるのではないかと思っていたのだけれど、向こうにはそのつもりはないらしい。
(部屋の移動の事といい席順の事といい、身の程をよく弁えているじゃないの)
相手の殊勝さに口端を上げる。
席順やその様子を見てどう感じたのか、目の前に座った赤毛の大男が途端にムッとした空気を纏ったが、主座の桐野が黙ったままでいるので、何かを言いかけたもののそのまま口を噤んでいた。

雪緒と藤乃の紹介は食事の始まる前に桐野が皆の前でしてくれたのだが、それは名前だけという至極簡単なもので。
桐野との関係性とか、どういう付き合いかをもう少し告げてくれてもいいだろうに。
そう心の中で不満を漏らしながら、雪緒は客人ふたりの自己紹介を聞いたのだった。


「きぃさん、ちょっといいですか。お借りしていた客間の事なんですが……」
そんな声が聞こえたのは桐野の室に続く廊下、さつきが桐野を呼び止めていた。
どきりとした。告げ口か。
場合によっては出ていく必要があると思い、陰で息を潜めながら話を聞く。

「私、別の部屋に移りました。事後報告になってしまって申し訳ないんですが」
「ああ、志麻から聞いた。そいでどこに……志麻の?部屋は他にもあるじゃろうが。遠慮しちょるんか」
「そういう訳じゃないんですけど。志麻ちゃんには教えてもらいたい事が結構あるし……それに同じ部屋なら沢山話せますし」
「汝らよう一緒におるんに、まだ話す事があっとな」
「ありますよー!とりあえずはガールズトークですね!え、ガールズトークって?ほら、アレですよ。幸吉くんのいい所を褒めちぎったり、きぃさんのダメな所を論ったり、男の人には話せないような内容で盛り上がるんです」
「品定めか。恐ろしいな」

桐野が声を上げて笑っている。


「なに、あれ……」

総身に水を浴びせられた心地だった。
藤乃が気遣わしげに肩にかけてきた手を乱暴に振り払う。
雪緒に向けられる桐野の笑い方とは全然違う。雪緒に与えられるのは、もっとこう……柔らかで優しげだけれど動きのないもので。
今目の当たりにしたような血の通った笑い方ではなかった。
思えば初対面で見せられた笑顔は、最近のそれとは随分と違っている。
最近見たのは上辺だけの笑顔。
そんな事に今更ながら気がついてしまった。見せつけられると違いがよく分かる。

「室に……出直しましょう」
藤乃にそう促され頷きはしたが、折角屋敷まで来たのに肝心の桐野とは話す機会が殆どなかった事に気付き、雪緒は踵を返した。
さつきの姿は既になかったが、歩いて行く桐野の姿はあちらの廊下に見えた。
桐野様、と思い切ってその後ろ姿に声を掛ける。

「如何された」
「先程の女性は一体……」
「客人じゃが。さつきが如何かしもしたか」
「……こちらには長くおられる方なのですか?」
「いや、まだそんなにはならんが」  

「…………雪緒はここにいてもよろしいですよ、ね?」



(悔しい……!)
居室に戻ると雪緒は座布団を畳に叩き付けた。
いてもいいかの問いにも桐野はいつもの通りただ微笑するだけ、部屋に伺いたいと言っても軽く流されてしまって。
それは外で会っていた時と全く変わらない対応だった。
雪緒にも強引に事を運んでいる自覚はある。だから変わらない桐野の様子は本来なら喜ぶべき事だったのだが。

自分とあの女とを前にしての態度の違いは一体何なのか。
桐野は「さつき」と下の名を呼び捨てにしていた。
この屋敷に来てそんなに経っていないと言う割には随分打ち解けて親しげで、あれを客と紹介されて誰が納得するのか。到底納得できない。
しかも自分より容姿は下、立ち居振る舞いもきちんとはできず正座でさえ長くはもたない女だ。
どう考えてもあちらの方が劣るのに、どうして。

「今日来たばかりですもの。桐野様も驚かれたでしょうし、きっとお嬢様を大切に思われているのですよ」
そう言うと藤乃は雪緒を安心させるように微笑んだ。
そうだといいのだけれど。
「あの女については藤乃が調べます。お嬢様は桐野様との時間を多く持てるようなさって下さいまし」


しかし藤乃が書生にそれとなく探りを入れても、さつきについては何も分からなかった。
居住区が離れている上挨拶や軽い話をする程度だった為か、素性など詳しい話を知っているものがひとりもいない。
女中たちも志麻とは働く場が完全に分かれている為母屋の事で話をする機会はあまりなく、さつきについては名前しか知らないというのが実情で。
知っていて「突然やってきた客人」、「ちょっと変わっている」という程度だったのだ。

「さつき様の事は表御殿の方でないと分かりませんよ」
ある女中からははっきりとそう言われてしまった。
そちらに住む人間は少ない。
主の桐野に客人の辺見とさつき、従僕の幸吉に女中の志麻の五人だった。
桐野はまず除外。幸吉と志麻はさつきと仲が良いようで話を聞き出す事ができず、となると残るは辺見だけになるが、

「汝ら、何も言わん者が何も思わんち思うちょるんじゃったら大間違いぞ」

言葉少なにそれだけ言われた。
彼に何かした覚えはなかったが随分つっけんどんだった。
少なくとも彼はさつきや奉公人らの前でいる時はそうでなかったのに。



屋敷に馴染んでいるのかそうでないのか分からない状態が続く。
雪緒らは表御殿で寝起きしているのに、そこにはいない書生や他の女中ばかりと馴染みになっているのである。藤乃にしてもこちらの女中たちと食事を共にしていたから余計かもしれない。
辺見とはほぼ挨拶だけの交流。
幸吉や志麻は丁寧ではあるが用がある時のみ、それも事務的にしか接してこない。
こちらが好ましく思っていないのが伝わっているようで、さつきも必要最低限の接触しかしてこない。

肝心の桐野はと言えばいつまで経っても変わらぬあの態度だった。
こちらの恋情などとっくに気が付いているのだろうに、意地悪だと思う。
(でも、それはきっと触れ合う時間がないからだわ)
そう思った。

こちらの事を深く知ってもらえればきっと情を示してもらえる。
せめて水入らずで顔を見て話す機会を増やしたいと「桐野様の寝起きのお世話をさせて下さい」と言い募っても、何かの切欠になればと「お料理を作らせて頂けませんか?」と水を向けても、「客人にそげな事させられもはん」、「志麻がしちょっで気に為されますな」とやんわりと断られてしまう。

そう言えば桐野の身の回りの事は全て志麻がひとりでしていた。
お手付きなのかと思ったが、女中は志麻はただのお気に入りだと言う。

「御前は志麻さんじゃないとダメなんですよ」
彼女らは奉公時に「志麻に頼むので余計な事をするな」と桐野本人から釘を刺されているとも言っていた。
「あと、志麻さんに無体な真似はされませんよう」
邪魔だと思った心を見透かされたようにそう言われ雪緒が顔を上げると、
「ここにおられなくなります」
真顔でそう付け加えられた。幾つもの実例があるらしい。

志麻は桐野が重宝しているただの女中。それは分かった。
ならばさつきという女は一体何なのか。
客人?
しかし炊事場に出入りして奉公人の賄いを作ったり、掃除や屋敷の雑用を志麻や幸吉と分担したり……している事と言えば奉公人と同じだ。
客と奉公人。
差があり過ぎてどう捉えていいのか、訳が分からない。
だがこんな特殊な状況が咎められないどころか容認されているのは、この屋敷にとってさつきがある意味特別だからだろう。
屋敷にとって特別。それは即ち桐野にとって特別という事だ。良くも悪くも。
「……どうにかならないのかしら」
本当に目障りな女だ。


さつきの姿が食事の席から消えたのはその数日後の事だった。
すぐにピンと来た。藤乃が何かしたのだろう。
そうとは知る由もない辺見がさつき不在の理由を桐野に尋ねていたが、桐野は本人の希望で志麻らと食べる事になったとだけ口にして言葉を切り、急に目を細めて微笑った。辺見がどうしたのかと訝しめば、
「否、あいつは……面白いな」
くすくすと笑っている。

(………………)
いればいるで目障り。
いないならいないでやたらと存在を主張していて、一体どれほどの冷や水を浴びせれば気が済むと言うのか。
だから雪緒は直にさつきに聞いたのだ。いつまでこの屋敷にいるのかと。
「ずっとかな」
あの女はそう言った。間違いなくそう言った。
ずっと?
ならこの状況は雪緒と桐野の関係が変わるまで永遠に続くと言う事だ。
ぎゅうと拳を握りしめる。
(あんな女に負けている)
勝負にもならないと蔑んだ女に。なんという業腹だろう。怒りと嫉妬心が綯い交ぜになり心の奥で煮え繰り返るのを感じる。

桐野に働きかけては無理。
となるとあの女を目の前から消す為には自発的に出て行かせる必要がある。
(そうよ)
自分から出ていくと言うのなら桐野も無理に引き止めはしないだろう。
(ここから出て行きたくなるようにしてやればいい)
そういう事だ。


それまでは書生や女中との世話話にさつきに対する愚痴を差し挟んでいた程度だったが、それからは一匙二匙と明確な悪意を垂らした。真実の中に混じる嘘は信憑性が高いものだ。
男の――特に桐野の前では優しく温和な顔をしているけれど、いなくなると豹変する、とか。
辺見には度を越して馴れ馴れしく、部屋に誘う込もうとしているのを見た、とか。

そしてふたりの時に邪魔だから屋敷から出て行けとぶたれるのだ、とか。
「私、あの方に嫌われているのかしら……」
ちらと涙を見せて痛くもない腕をさすりながら折檻されるのが怖いと震える。
雪緒は自分の”見せ方”をよく知っていたから、殊更に男の庇護欲を掻き立てるような仕種や態度を取れば書生たちは簡単に激高した。
(本当に男は単純……)
どうしてこれが桐野に通用しないのか。

「書生の方々、面と向かって罵っているようでございますよ」
「あら、そうなの」

言葉だけでなく、最近では少し手が出るようになったらしい。
そう言えばさつきがずぶ濡れで裏口に回っている姿や、階段下で蹲っている姿を何度か見た。
女ならとにかく年若い男の集団だ。これは怖いだろう。
男好きだとか下半身が緩そうだとかそんな事も陰に陽に示唆していたから、もしかしたらそういう手段に出る書生もいるかもしれないが、凌辱でも何でもされたらいい。
(邪魔なのよ)
とにかく目の前から消えてくれさえすればなんでもよかった。


「桐野様も桐野様です!一体どういうおつもりなんだか!」
桐野とさつきが炊事場でいるのを見たと藤乃がかなり立腹していた。
賄いを摘まみ食いしながら随分和やかな雰囲気で談笑して。その上桐野はさつきに手土産を渡していたと。
「手土産?」
雪緒にはそんな物寄こした事すら無いのに。
「きっと今までああやってお嬢様に分からない所で会っていたのですよ。人を馬鹿にするにも程があります!その上……」
何か思い出しでもしたのか、藤乃はそこで言葉を濁したのだが。
「とにかく。もっと手酷い目に遭わせなければあの方、自分の立場が分からないのではありません?」


そんな話をした次の日の夕食時だった。
「志麻、こや」
「そうですよ。お味はどうですか」
「美味か」
ある小鉢に箸を付けるやそう言い切って破顔した辺見に、雪緒も藤乃も驚いた。
見た事ない程良い笑顔だったのだ。
ただそれが供されていたのは男衆の膳だけだったから、食事が終わった後、どんなものが出ていたのかという女中としての純粋な興味から藤乃は志麻を訪ねて炊事場に向かった。

しかしそこにいたのはさつきだけだった。
鉢合わせした形になりふたりともが一瞬身構えたのだけれど、
「……どうかしました?」
意外にも向こうが普通に話しかけてきたので、藤乃も問われるままここに足を運んだ理由を口にした。

「あ……それ、寒天寄せです」
「寒天寄せ?」
「海老と豆の寒天寄せ。……美味しかったんだ」
良かったと俯いて柔らかく笑うさつきに、藤乃は衝撃を受けた。

「貴方が作ったの」

その声は震えていた。
表御殿で供される食事は志麻しか作らない筈だったのではないか。こちらで作りたいと申し入れて素気無く断られたのはまだ記憶に新しい。それなのに。
そこでふと思い出したのだ。昨日桐野が口にしていた賄い。あれもさつきが作ったものだったのかもしれない。
もしかしてあれは日常的な風景なのか。

「貴方が、作ったの?」
「そうですが」

それに先程の辺見のあの言い方、恐らく誰が作ったものか分かっていたのだ。恐らく桐野も。
分かっていてあの場ではさつきの名前を誰ひとりとして出さなかった。
なぜか?雪緒と藤乃がいたからだ。

「本当に…………貴方どこまで人を虚仮にすれば気が済むの」
「は?」

「料理は志麻さんしかしないと聞いていたのにそうじゃない。しかも雪緒様には黙って、ふたりの膳にだけしか出さない。特別に思われたいのかどうか知りませんがねさつきさん、あなた自分の身の程ってご存じ?一体どういう躾をされたらそんな風に浅ましくなれるんです?」

まくしたてるように言えば、目の前の女の顔は若干引き攣ったけれど、すぐに溜息をついて、

「はあ……身の程ねえ……存じ上げているつもりではいるんですけど」

それは呆れ口調の嫌味な言い方だった。
口答えするかと口を開こうとすれば、

「”ふたりの膳にだけ”って被害妄想も甚だしいですよ。それに”特別に思われたい”ってどんだけ。言い掛かりも大概にしてもらえませんか」
「言い掛かり?その通りじゃないの!」

声を張って威嚇したのだが、その途端目の前の女はすっと色が抜けたように真顔になった。

「じゃあお聞きしますけど、出せば良かったんですか?雪緒さんに。私が作ったもの」
「貴方がたが今まで私にしてきた事、まさかお忘れじゃないですよね」
「食事に虫が入ってたりとかお澄ましが雑巾の搾り汁だったりとか、生まれがいい人はそんな事されないって……」

「本気で思ってます?」

ぐっと言葉に詰まる。まさか。そう思ったのが顔に出たのか、
「そんな悪趣味な事しませんよ。折角の料理に」
さつきは馬鹿にしたように笑った。
 
「ただね、身の程身の程って何でそんなに上から目線なんですかね。不思議なんですよ、自分たちの方が上だって自信、どこから来るんだろうって。貴方がた、私の事何も知らないですよね。そりゃあこの屋敷に来るまで私がいる事さえ知らなかった位ですし?今でも何の情報もないでしょうけど。あ、言っときますけど書生さんや向こうの女中さんに聞いても何も分かりませんよ。身の上話は何ひとつとしてしてませんから」

こちらの目をじっと見ながらさつきは話す。無表情で、あまりに淡々とした様子に少し怖くなった。

「そっち立てようと思って色々考えたり黙ってたのに、正直ここまで伝わらない馬鹿だとは思いませんでした。勝手な勘違いで貶められた揚句手まで出されてんのに我慢とかホント下らない。そうだ、私の体どうなってるか見せてあげましょうか」
「……ひっ!……」
「あ、一丁前にびっくりする位の人間の心はまだ残ってるんですねー。いがーい」
「な、何て事を」
「え?何言ってるんですか、こうしたの貴方がたなのに。顔もほら、昨日力一杯ぶってくれたお陰で腫れてしまって、ニ、三日は桐野さんにも辺見さんにも会えません。志麻ちゃんと幸吉くんには理由付けて口止めしてますけど、同じ屋敷にいるのに何日も会わなかったらさすがに向こうだって怪しみます。会いに来るかも?それで理由問い質されたら私正直に話しますよ?あのふたりには嘘を吐きたくありませんから」

びくっした藤乃を見、

「貴方がたに立てる義理もないですし」

にっこり笑いながらさつきが捲り上げた袖を戻す。

「呆れた。ホントそんな事も考えないんですね。それに昨日私が言った事の意味を全然理解してないという事が今よく分かりました。『どこまで人を虚仮にすれば気が済む』?そっくりそのまま返すわよ。もう関わらないで。ガキの遊びになんか付き合ってられるか」

さつきは吐き捨てるようにそう言って後ろを向くと、途中だった膳の片付けをさっさと終わらせ、藤乃を無視したまま水場を出て行った。


「………………」

藤乃はへたっと板間に座りこんでしまった。
さつきの恐ろしい程の態度の変貌ぶりと思わぬ反抗に恐怖を抱いた。
ぶるっと背中が震える。

これまで彼女にしてきた仕打ちを思い出すと怖くなったのだ。
屋敷に来た当初の様子から何もしてこないと踏んであれこれ画策していたと言うのに。
無抵抗だと馬鹿にしていたぶっていたが、少しやり過ぎたのかもしれない。今更ながらそう思う。
「もう関わらないで」というあの言い草から、あちらから進んで関わってくる事はなさそうだが……

(怖い……)

藤乃の震えは暫く止まらなかった。



spin around:空回り
雪緒ちゃん皆に「女主人」の存在を聞いていた。女客はいるけど女主人はおらんのよ。ついでに言えば側女もおらんねん。聞き方がまずかったね  131106130624

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